第70話 キッシュって言うの。
九月に連絡があったきり。短い秋が終わって冬になっても大地とおばさんから連絡はなかった。
――お母さんもお父さんも死んじゃった。
――帰ってくるのを日本で待ってるって言ってたのに。
――お母さんもお父さんも私を置いて逝っちゃった。
おばさんから話を聞いたあと、泣きもせずに夕飯を食べてベッドに入った母さんは次の日の朝、目を覚ますなり泣き出した。朝ごはんができたから食べようと声をかけてもベッドから起き上がってこない。あとで食べるから置いておいて、と言う。仕方がないから皿にラップをかけて父さんは仕事に、僕は学校にでかけた。
夕方、学校から帰ってきてみるとテーブルの皿は朝、出かけたときのまま。母さんもベッドに横になったまま。夜になって父さんが夕飯片手に帰ってきても、声をかけても起き上がってこない。起き上がれない。あとで食べるから置いておいて、と朝と同じことを言う。
戦争が始まってからというもの、母さんは家の外に出ることができなくなり、家の中のこともほとんどできなくなっていた。そして、おじいちゃんとおばあちゃんの死を知って、ついに寝室からもほとんど出てこなくなってしまった。
――そらちゃん、どうして電話をくれないの。
――そらちゃん、どうして返信してくれないの。
――日本に帰りたい。引っ越しなんてしなければよかった。
――日本に残ってればよかった。
――ずっとずっと日本で……お母さんもお父さんもそらちゃんもいるあの街で暮らしてたかった。
漏れ聞こえる母さんの声にどうしていいのかわからなくて、僕は父さんと母さんの寝室を避けるようになっていった。母さんに声をかけ、母さんと顔を合わせることを避けるようになっていった。
まるで冬眠をしているかのような息苦しい秋が過ぎて行き、大地からもおばさんからも連絡がないまま。一週間後には十二月二十四日――クリスマスイブ、という日の夜。
「ねえ、ママ。……ねえ、柚樹」
寝室の母さんに父さんが声をかけた。
「クリスマスになるとお義母さんが作ってくれたサンタクロースを覚えてる? ミニトマトのとイチゴのと」
日本で暮らしていた頃、クリスマスは母さんの方のおじいちゃん、ばあちゃんと。お正月は父さんの方のおじいちゃん、おばあちゃんと過ごすのが毎年恒例になっていた。
ちなみに大地とおばさんとはクリスマスも、忘年会も、新年会もやっていた。
その、母さんの方のおじいちゃん、おばあちゃんと過ごすクリスマスで定番のように出てきたのがミニトマトとモッツァレラチーズで作ったサンタクロースのサラダ。それとイチゴと生クリームで作ったサンタクロースが乗っているショートケーキだった。
「あれが食べたいんだけど、僕じゃあ、作り方がさっぱりわからないんだ。ドレッシングって言うの? 上にかかってる……あれもよくわからないし、ケーキの作り方なんてもっとわからないし……何を買ってきたらいいか教えてくれない?」
「……」
「祐樹も。クリスマスに何か食べたいものはある?」
ドアのすきまからようすをうかがっている僕に気が付いたのだろう。父さんに話を振られて僕は目を丸くした。
クリスマスに食べたいものと聞かれてほほをぽりぽりとかいて考える。とっさに思い浮かんだのはお皿ににぎやかに盛り付けられたポテチやチョコ、おばあちゃんが作ってくれたクッキーやカップケーキ。タコさんウィンナーとチューリップチキン。
それと――。
「タルトみたいな……ほうれん草とかベーコンとかが入ってる……」
「あー、あれか。ジャガイモとかキノコも入ってて、黄色い……なんだ、あれ?」
父さんと顔を見合わせて首をかしげる。たぶん、きっと、同じものを思い浮かべているはずなんだけど名前が出てこない。
きっと母さんならわかるはずなんだけど――。
「……」
答えはないし身じろぎもしない。困り顔で父さんの顔を見ると父さんも同じように困り顔をしていた。いつもどおりのちょっと情けない顔でうつむいていた。
でも、唇を引き結んで顔をあげると真剣な、そして、少し緊張した声と表情で言った。
「ねえ、柚樹。引っ越す前にお義母さんからいろいろとレシピを教えてもらったって言ってたじゃない。その中にクリスマスの料理のレシピもあったんじゃない?」
優しいけれど、いつもよりもきっぱりとした父さんの声にふとんがわずかに、ごそりと動いた。
「でも、戦争は……お母さんもお父さんも……そらちゃんも、まだ……」
戦争はまだ続いているのに。おじいちゃんもおばあちゃんも死んでしまったのに。大地が、おばさんが、日本が大変な状況なのに。そんなときにクリスマスだなんて。
きっと、母さんはそう言おうとしていたんだと思う。安全なこの国にいてクリスマスを楽しむことに後ろめたさを感じているんだと思う。
僕にも母さんの気持ちがわかる。きっと、父さんもわかってる。
だけど――。
「作ってくれないかな。お義母さんに教えてもらったクリスマスの料理」
わかったうえで、それでも、父さんはそう言った。
「柚樹が作らなかったらお義母さんの味が消えてなくなってしまうよ。僕はいやだな、そんなの。……だから、作ってくれないかな、柚樹」
父さんが発した珍しく強い言葉に僕は身構えた。母さんが泣き出したり、わめき出したりするんじゃないかと思ったからだ。
でも――。
「……キッシュ」
母さんはぼそりとつぶやくと、のそりと体を起こした。
「おばあちゃんが作ってくれた〝タルトみたいな〟のはキッシュって言うの」
そして、クローゼットを開けると段ボール箱を引きずり出してきた。
「二十三日までに材料、書き出すから……買ってきて」
泣いてはいた。だけど、ずっとぼんやりとしていた母さんがしっかりとした表情でノートをめくるのを見て僕はほっと息をついた。
「それじゃあ、祐樹。二十三日はいっしょに買い出しに行こうか。それで二十四日は朝からクリスマスパーティの準備だ。クリスマスツリーやオーナメントも買わないと」
僕が通う日本人学校も、父さんが働いている大学も、十二月二十日から休みに入る。クリスマス休暇だ。引っ越す前、まだ日本にいたときに〝なんだかテンションがあがる響きだよな〟なんて大地と言っていたのに。去年のクリスマス休暇はいつの間にか終わっていた。
そして、二度目のクリスマス休暇。
「……!」
僕はやっと、〝なんだかテンションがあがる響きだよな〟という気持ちになっていた。
二十三日の朝、最初の目的地であるクリスマスマーケットに向かう車の中で父さんはいつもどおりの情けない顔で言った。
――ママにあんな風に言ってしまったけどあれでよかったのかな。
――もっと上手な言い方があったんじゃないかな。
――そらさんやお義母さん……佑樹のおばあちゃんならもっと上手に言えたんじゃないかな。
クリスマスの料理を作ると決めてからの母さんはベッドから起き上がって過ごす時間が増えた。おばあちゃんのレシピが書いてあるノートを広げて涙をにじませたりはしてるけど、それでも、母さんのようすは安定しているように見えた。日本にいた頃のような、〝いつもどおりの顔〟に見えた。
だから、まちがいなわけがない。正解に決まってる。
そのときの僕はそう思っていたのだ。




