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壊疽と一貫性のない光

作者: はじ


 男が歩いていた。女も歩いていた。男も女も歩いていたが、ぼくは横たわっていた。横たわって歩いている男と女を見ていた。男も女も見られていることに気付いていた。男も女もまたぼくを見ていたからだ。

 そこは小田Q線と南V線を繋ぐ連絡通路、距離にして100メートルにも満たない通路の真ん中に横たわったぼくの傍を、男も女も切り取り線を綺麗になぞるように迂回して通過する。まるであらかじめ示し合わせたかのようなその足並み、これでぼくにスポットライトでも当たっていれば、さも重要な遺失物として強調されるのだろうが、生憎そこは劇場舞台ではなく通路上、さらには屋根のある通路だったので、晴天からの奇跡的な日差しも期待できない。そのため、その必要性はいつまで経っても明かされることはなく、通り過ぎる人々の関心も一向に集まらない。

 だからといって手を差し伸べない人々のことを非難してはいけない。誰だって必要ないと思ったものに、そう易々と自らの時間を費やさない。仮にいたとしてもそれは風狂で、差し伸べた手で拾い上げ、そこに面白みの片鱗も見出せないことを知ってしまえば元通り、ふたたび無関心の衆目の足元に投げ出される。

 ばぃん、ばぃん、と幾度かのバウンドを挟んで身を落ち着ちつけ、歩いていく男と女を見る。男も女も見られていることには気付いている。男も女もまた、ぼくを見ているのだから。

 今、小田Q線側から男が一人歩いて来る。身にまとったカメムシ色のコートには出来立てのシワ、目測するその本数から今朝の小田Q線の熾烈さを想像することは容易だ。

 ギュウのギュウ、ギュウギュウ、ギュウの箱詰めにされた電車内には、ヒステリックな凄惨さを予感させる沈黙が満ちる。大量生産された無表情を向けた窓外には押し並べて無感動な素描、それが目的の絵画に描き上がるのを呆然と待ち望むだけの無力感、飲み下した生唾には一駅目にして早くも憔悴の酸味、歯切れの悪いアナウンスに募る不安に加え、首筋に当たる弱冷房では誤魔化しきれないエゲツない口臭。とっさの判断で口呼吸に切り替えて対応するも、一度鼻を通過してしまった強烈な臭いは、電車の振動に合わせて何度も鼻によみがえる。

 発情した犬の舌のように、ちろちろと鼻孔をなめ回してから奥へ奥へと侵入してくる滑粘性流動体、その進行を鼻咽頭で食い止め、鼻息で押し返しては記憶に押し戻され、鼻中隔奥での待ち伏せと挟み撃ち、裏切りの三半規管、錯綜する情報、扁桃腺裏の偽装降伏から一転、虚を突く反撃作戦、五月雨式ヴァイブレーションとクシャミ絨毯爆撃。その他思いつく限りの策を弄した50分間の電車移動、もはや勝敗のつけ方も分からなくなった攻防からようやく解放されたのだから、歩いてくる男が朝っぱらから疲れ切っていても文句はないだろう。

 ないだろう? と言いたげに振り出された踵が路面と打ち鳴らした弱々しい一音。辺りから届いてくる靴音も総じて生気に欠け、まるで年中無休のオーケストラのように、その空間全体の憔悴を聞き取ることができた。

 男は今日もその一員になれたことに安堵を得る。疲労しているのは少なくとも一人ではない。雑踏の演奏に加わることで芽生える連帯感に勇気付けられ、一歩一歩を鳴らすごとに気力が足裏から足首へ、そこからは一気に駆け上るようにしてふくらはぎはぎ、ふとのもも、腰、腹、胸まで来ればあとは心臓任せで一巡り、腋、腋、両腋、後腕前腕、毛細血管伝いに指先まで行き渡ると、男はコートの内ポケットに手をやってスマートフォンを取り出す。

 いつも通りの電車に乗ったのだから、当然時間の経過もいつも通り。そのはずなのだが、何か超自然的で摩訶不思議、奇妙で奇怪で奇天烈な不具合によって時間がとち狂って早まってはいやしないか、そうすれば少しだけ気を休める時間ができる。そんな淡い期待を胸に画面を見たが、表示されたのはもちろん普段と同時刻、分かっていても出てしまったため息が雑踏に紛れ、それが今日はあまりにも沈鬱だったので、人々の間を跳ね返りながら落下し、誰かの爪先に小突かれた勢いのまま路面の目地に沿って転がっていった。

 ころころ、ころころと、埃や塵を集めながら雪だるま式に肥大化し、最終的に巨大な憂鬱となってこの連絡通路を堰き止めてくれはしないだろうか。そんなあり得ない妄想を密かにしていた彼の視線が、はた、と、止まる。その視線の先には通路に横たわる、へへっ、ぼく。

 それを見つけ、ほんのわずか彼の歩調が緩慢になる。その間に目が合う。息を止める。すぐにそれが何なのか理解し、避けるように進路を変えて通過する。息を吸い戻し、南V線の改札口が近付き、電子決済のためにスマートフォンを取り出そうとしてポケットに手を入れた。が、先ほどしまった場所にないことで、途端に跳ね上がる心拍数、思わず飛び出る、チッ、舌打ち。

 さっき取り出した際、ポケットに戻し損ねて落としたのだろうか、チッ。現金で切符を購入すれば駅内には入れるが、さすがにスマートフォンの消失は見過ごせない。引き返そうと身を反転させながら他のポケットにも手を突っ込んで確認する。コートの内ポケット左右、その奥底まで手を突っ込み、チッ、腰ポケットの左右、チッ、最後の望みをかけてパンツのポケットをまさぐっていると、そこには求めていた感触!

 取り出して目視すると心音は平常時まで戻り、無駄に心を乱されたことで疲労感を強めながら改札機を通り抜ける。まだ喉元に残っている動揺を静めるため、ホームに向かう階段をしっかりと踏みしめながら下りていく。段数を数えていると気分は点滴のように落ち着いていくが、下り切った先にいる人々の数を見てげんなりする。

 出そうになったため息をぐっと飲み込み、虫のようにあふれ返る人々を掻い潜りながら比較的空いている待機列の最後尾に着くと、間もなくしてホームになだれ込んでくる車両&車両&車両車両が軋轢音とともに停止して、吐き出される乗客と入れ替わりに乗り込む。運良く乗降口脇を確保、苛立ち気味の発車アナウンスとともに扉が閉まり、車輪が転がり出したかと思ったら緊急停止。その不意打ちに重心を乱されて体勢を崩す。よろめきながらも、とっさに手すりに掴まって転倒は免れたが、足元にはそれまで感じていなかった、違和感。

 誰かの足を踏みつけてしまったと思い込み、確認する前に反射的に謝罪のすみません、しかし無反応、恐る恐る足元を確認するも、誰かの足がある訳でも、何か荷物がある訳でもない。

 状況を理解するために軽く足を持ち上げてみると靴裏に粘着感、その瞬間に連絡通路にあったあの存在が鮮烈に浮かび上がる。ちゃんと避けたはずなのに、チッ。その舌打ちに対しては他の乗客がいくらか反応を示したが、彼の関心はもう靴裏の存在に奪われてしまっている。

 電車が緩やかに動き出し、徐々にスピードを上げていく。激しく移り変わる景色に目もくれず、ガタゴトガタゴト、揺れに合わせて靴裏にいるそれを何度も確認する。


 足を上げ、粘着感

   足を下げ、接着感          チッ


 足を上げ、粘着感

   足を下げ、接着感          チッ


 認めたくない現実を噛んで含めるように何度も踏み締めている間に、自らの下車駅に到着する。そしてドアが開くやいなやホームの端へと移動し、壁に片手をつきながら靴底の確認。爪先から土踏まずにかけて異常はない。そこから踵の方へと目線を移していき、チッ、我が物顔でへばり付いたそれを発見する。

 意識して呼吸を整えて苛立ちを静め、それでも収まらない感情は靴裏を地面に擦り付けることで解消する。絶対に、チッ、避けたはずなのに、チッ、なんで、チッ、チッ、チッ! 湧き上がって止まらなくなってきた憤りを乗せて何度かそれを繰り返し、何度もそれを繰り返してから小走りで駅の改札へ向かい、駅から出たあとは職場まで一心不乱、コートを風にはためかせながら脇目も振らずに一直線、警備員におざなりの挨拶、社員証提示もそこそこに、自席に到着するなりティッシュ箱片手にトイレにダッシュ、乱暴に取り出したティッシュで靴の裏のそれをそっと摘んだが、チッ、ティッシュを何枚も重ねてしまったことが裏目に出て、厚みを持ったそれは、元々の弾力が適度に緩和され、まるで人肌を摘まんでいるかのような手触りとなった。

 腕から首筋にかけてぞわぞわと粟立ち、心なしか生温かさもティッシュ越しに感じはじめたので、男は一息にそれを取り払う。取れてしまえばこちらのものだと、怒りを込めながら両手で丸め込み、壁に向かって投げつける。ナックルボールのような不安定な軌道で衝突したティッシュが、ぼふりぼふりと床に落ちたとき、男の姿はもうトイレにはない。いない、はずなのに、


 チッ、

  チッ、

 チッ、

  チッ、


 と、どこからともなく響いてくる。けれど男はそこにいないので、これは男の舌打ちでない。耳を澄ませて音の質感に集中すれば、チッ、チッ、チカッ、カッ、カッ、カッ、それがヒールの音だと聞き取れるはずだ。

 しかしそれは壊れかけのメトロノームのように不規則で、カ、カカカ、一定の間隔を刻んだかと思えば、カツンッ、唐突に止まり、少しだけ動いて、カカ、また止まり、カツンッ、止まって遅れた分を取り返すカカカカカカカカカカッ、のようにテンポを早める。

 振り子の錘に翻弄されているかのようなこの音を、耳を頼りにたどっていく。男のいなくなったトイレから出て、階段を下り、受付にいる警備員に見つからないように外に出る。街の喧騒でやや聞き取りづらくなったが、絡まった糸をほどくように慎重に音を識別していく。

 車道を走り去るトラックの走行音、それに驚いて吠える犬、その飼い主と友人との談笑、遠くから子どもの声、それに合わせて鳥の声、遮断機の音がそれらを刻み、粉微塵になったところで轟音、電車がすべてを飲み込んでいく。耳はその音量に問答無用で引きずられ、衣擦れ、衣擦れ、ぼろぼろになりながら線路を遡って行き着いたのは、小田Q線と南V線を結ぶあの連絡通路。

 その女は南V線の構内を歩いていた。ヒールの踵を何度も路面タイルの溝に取られ、左右に左右に揺れながら改札口を目指している。

 覚束ない足取りに対して、身に着けている濃紺のスーツは防シワ加工が施されて鎧のように一分の隙もない。その挙動と服装の食い違いの所為で、彼女がスーツを着ているというよりは、スーツが彼女を包み込んでいるといった方が的確で、実際に彼女を目にした人は、襟や袖から現れている彼女の頭や手が、服装を際立たせるための装飾品としてそこに付いているかのような印象を持った。

 彼女自身もそう思わざるを得なかった。このスーツがなければ、自分はたちまち膝から崩れ落ちているはずだ。これのお陰で、病み上がりのように危なっかしいが前に進めている。しかし、こんなにも意志のない、見るに堪えない歩き方をしてしまうくらいなら、いっそのこと倒れてしまった方が、と彼女はそう思い、歩くのを止めて倒れようと何度か試みたのだが、その度に屈強なスーツにパリパリッと支えられてしまう。前傾になった上体は隆々とした肩パットに抱き起こされ、パンツの真新しいゴムががっちりとウエストを固定して彼女を転倒から守る。加えて、丹念に撚り合わされたソロテックスに筋肉の伸縮と関節の稼働を手助けされ、その援助によって立ち止まることも許されずにさらなる前進を余儀なくされる。

 仕方なく彼女は歩く。ふらふらと操られるようにして、自身の思考や感情とは無関係に、お節介なスーツと大袈裟なヒールに手足を取られ、歩く、歩いている、こんな自制のない歩行をしてしまっている自分を思って涙ぐむ。


「あなたは生後6カ月で歩きはじめたのよ、

 しゃっきり背筋を伸ばして、

 まるでバレリーナのように、

 ね」


 事あるごとに母親からそう言われて育ってきたのだ。自らの歩行については人一倍気を払ってきた。バレエはついぞ習うことはなかったが、どんな混雑した街中でも、まるでバレリーナのように可憐に颯爽と、確固とした意志を持って進んできたのだ。

 しかし、今の状態を母親が目撃したならば、


「あなた生後22年にもなるのにまだまともに歩けないのね、

 そんなしょ気た背筋じゃ、

 まるでバレリーナじゃない、

 わ」


 と、さぞがっかりした表情で嘆くに違いない。それを想像して彼女は目元に涙を浮かべ、意図しない前進に刃向かうこともせずに身をゆだねてしまっている己を情けなく思った。

 彼女をこのような状態に陥れた元凶は、かの憎き満員電車だ。


「行ってきなさい、バレリーナ」

「行ってきますわ、お母さま」


 母親と出掛けの挨拶を済ませ、最寄りの駅までの道中は見まごう事なきバレリーナだった。木の実を啄む嘴のように爪先を繊細に伸ばして歩み、改札機に定期券をタッチする手つきなんて、風にそよぐ花房のようにしなやかで、自分でも惚れ惚れするくらいだった。ホームを埋め尽くす人数に多少怯みはしたが、それをほとんど面に出さずに到着した電車に乗り込むことはできた。

 そこからが問題だった。

 まずその完璧な背筋が背後から押されて醜く曲げられてしまった。その際にこぼした呻き声は上品さの欠片もない、ふぐぇ、だった。その耳を疑うような自分の声を聞いた彼女は、バレリーナはそんなこと言わない! と崩された姿勢をどうにかして元に戻そうと懸命にもがいたが、もがけばもがくほど、身体はバレリーナとは違う形に矯正されていってしまう。苦しくて苦しくて意識は朦朧、息は絶え絶え、錯乱間近のバレリーナで飛び出した車外は幸運にも彼女の下車駅だったが、その不幸中の幸いに気付く前に後続する人に押し流された。1番線から3番線を漂い、エレベーターで上下して、精算機の前に漂着、またすぐ流され、自失状態のまま駅構内をさまよい、ようやく我に返ったとき、彼女はバレリーナとはかけ離れた自らの歩き方に思わず泣き崩れそうになった、なっていた、なっていたのが、先ほどまでの彼女だった。


 バレリーナは人前で弱さなど見せない!


 スーツによる歩行補助を受けて徐々に活力を取り戻した彼女は、庭に咲いた小花を野犬から守るような気丈さで歩き出し、まず自らが何駅にいるのか把握するために改札口へと向かったのだった。

 渡り鳥のように行き来する人々の間を抜け、人通りの少ない壁際まで移動して改札口上に掲げられた駅名を見上げた彼女は、自失状態でありながらも目的の駅でちゃんと下車できていたことを知り、どんなトラブルに巻き込まれても演目を踊り切るバレリーナの素養が自分にも確りと備わっていたことに自信を得る。それを自覚した瞬間、みぞおちの辺りが温かくなり、それがじわじわと染み出すようにして体中に広がってから、フワッと、フワッと身体が軽くなり、袖を通してからずっと鎧のように感じられていたスーツの重さをはじめて軽いと思うことができた。


 ああこれがスーツなのね!


 彼女は目を見開いて心のなかで叫ぶ。 


 スーツ!

 スーツ!

 これがスーツ!

 これが、

 スーチュ!


 あまりの興奮にもんどりを打った舌が発した、ほんの些細なチュの一音。誰の耳に届いていないのだから聞き流しても構わないその言い間違いは、彼女の頭のなかで朝鳥の一声のように響き渡った。


 チュ

  スーチュ

   チュ

    チュ


 そう、これはスーツじゃない、スーツじゃない!


 彼女の目前にありもしない鮮やかな花畑が突如として現れ、それらはくるくると風車のように回転しながら色とりどりの花弁を一挙にして開く。


 チュチュだ。

 いま私が着ているこれは、

 バレエで身に付けるあのフリフリのやつなのだ!


 という、天啓じみた独り合点を駅の片隅で展開させていた彼女の顔つきは、ふらふらとさ迷っていたときのものとは似ても似つかない、精悍で決意に満ちたバレリーナだった。

 そうして心身ともにバレリーナ完全体となった彼女は改札口を出て、乗り継ぎのために小田Q線へと歩き出す。その足つきは、先ほどとは打って変わって軽やか、彼女にしか見えない踏み石を無重力に渡って人々のなかを抜けていく。胸を張り、ツンと上向けた鼻に受ける涼風は横顔を左右になでながら旋毛の下、一つに束ねられて髪先に誘導され、目に見える空気の流線となって大きく背後に棚引いた。ああ、きっとお母さまが見ていたら、と彼女は想像する。


「あなたはバレリーナ、

 生粋のバレリーナよ」


 といつも腰かけている台所の丸椅子から立ち上がり、渾身のオベーションをかましてくれるに違いないわ、そして、と彼女は顎を僅かに引き、ひと際姿勢に気を配って深々とお辞儀をした、自分を想像した。

 そんなイメージに気を取られていた所為で、彼女は横たわっているぼくの存在を察知するのに遅れたのだ。

 まずは悪臭。

 それもとびっきり刺激的な。

 鼻の奥にそれを感じ取った瞬間、彼女の視界が真っ暗になる。ああ、こんな暗所でバレエは踊れないわ、たとえ踊ったとしても誰にも見てもらえないわ。そう思って間もなく、ぽつぽつと暗闇に穴が開き、次第に鮮明になっていく視野がはじめに捉えたのは、すぐそこに倒れていたぼく。それに驚くよりも先にとびっきりの悪臭に鼻から脳天を真っ直ぐに貫かれ、バレリーナの面影もない形に歪められた顔面の小さな口から小さな悲鳴、ふぐぇ、を上げてしまう。


『どうして、こんなところに?』


 それを考える暇もないほどの速度で彼女はその場から離れたが、小田Q線のホームに駆け込んだときも、無我夢中で電車に乗っているときも、出社時刻ギリギリに研修室に入り込んだときも、そのことを研修担当の社員に叱責されているときも、連絡通路で目にしたぼくの姿は地面に吐き捨てられたガムのようなしつこさで脳裏に張り付いて離れない。

 散々噛みしだかれて歯形まで見えそうなほどに着古された上着に、パンパンに膨らんだ体! そこにキシリトールの清涼感なんてものはまったくない。あるのは不潔、不愉快、不快感の言い淀みのないスリーエフ。そして何よりもあの臭い! 腐った生卵を染み込ませた雑巾のようなあの極悪臭! あんなものがこの世にあってはならない! たとえ! 仮に! 万が一にでも! そんなものがあったとしても、公衆の面前で垂れ流していい臭いではない、絶対に!

 そう心中で絶叫した彼女の鼻が、また別の異臭を感知する。臭いに敏感になっている彼女の鼻は、熱弁をふるう研修担当の僅かな汗すらも嗅ぎ分けた。

 あの連絡通路の臭いと比べれば、研修担当の体臭は香しいと表現してもいいかもしれない。しれないのだが、汗臭さを媒介にして想起された悪臭の記憶が、鼻腔で空気と混じり合うことで増幅され、彼女の我慢の限界を容易く超えていったのだ。

 急激に気分が悪くなった彼女は、無言で席を立ちトイレに駆け込む。研修担当から遠ざかったことで気は落ち着くが、今度は排水溝から立ち上るほんの微かな下水を嗅ぎ取ってしまい、軽くえずいて手洗い器の前で項垂れる。

 無言で飛び出したから騒ぎにでもなっているのだろう、遠くが何やら騒々しい。騒動の張本人なのに他人事のようにそう思った彼女の脳裏に、不意にぼくの姿が克明に映し出される。


 こちらを見ていた。

 確かにこちらを見ていた。


 ハッとして辺りを見回し、そこが何ら変哲もないトイレであったことにむしろ恐怖感を強め、個室に逃げ込んで鍵を閉める。全身から温度が抜け落ち、顔中から噴き出してきた汗の方が温かく感じるほどの寒気に襲われる。

 時を置かずにトイレの扉がゆっくりと、ゆぅうくりと、まるで何かをうかがうようにして開く音がし、彼女の心臓は激しく震える。


 誰かが、

 何かがトイレに入ってくる!


 チッ、

  チッ、

 チッ!


 必要以上に潜めた息との釣り合いを保つかのように、心音は大きく内側から胸を打ち付ける。それを両手で押さえ込みながら、時が過ぎるのをひたすら待つ。


 チッ、

 チッ、

 チッ、 

  チッ!


 固く目をつむり、少しでも別のことを考えて気を紛らわそうとする。


 チチチチチチチチ、チッ!


 しかし、物音が彼女の注意を引き寄せ、どうやっても現実に食い止めてくる。彼女は胸を押さえていた両手の指を固く組み合わせ、とにかく気を逸らすために自分の記憶のなかを漁る。入社、入社試験、就職活動から大学生活へと遡行し、進級やサークル活動の記憶を経て大学受験に至る。高校、中学、とパッチワークのように繋がり出てくる記憶のなかの自分の立ち居振る舞いは、どんなときも美しい、理想的なバレリーナ! ああもっと、もっと見たいと、さらに小学校の記憶を掘り返しはじめた彼女は、そういえば、どうして自分はここまでバレリーナに固執しているのに、バレエを習わなかったのかと、改めて思い返すのだった。

 習えなかったのではなく、習わなかった。実際、バレエを習う一歩手前まで行ったのだ。母親と一緒にバレエ教室の見学に出掛け、一面が鏡張りの一室の片隅でレッスンを見たのだ。憧れのバレエに胸が躍ったのは最初の1時間ほどだ。次第に時間が経つにつれ、あることが気になったのだ。


 臭い。

 汗臭い。


 徐々に徐々に、まるで虫歯に蝕まれるようにして充満していく臭い。それだけ厳しいレッスンをしているのだから当たり前のことだ。初めから優雅な白鳥など存在しない。陰でしっかりと技術を固めているからこそ、本番の舞台であれだけの踊りを披露できるのだ。そのことを分かっていたが、彼女が憧れたのはいつ如何なるときも真っ白でしなやかな鳥であり、その白い毛並みを土や泥で汚してでも虫を探し回る鳥ではなかったのだった。

 彼女は母親に「やっぱりいいや」と告げてレッスンの途中で見学を打ち切った。その帰り道、残念そうな母親が彼女の歩く姿を見て、「あなたは生後6カ月で歩きはじめたのよ、しゃっきり背筋を伸ばして、まるでバレリーナのように、ね」とお決まりのセリフを口にした。それを聞いた彼女はやはり誇らしかったし、別にバレエを習わなくたってバレリーナになれると思ったのだった。

 回想の終わりと同じくして、トイレに入ってきた何ものかの気配が消える。それでも数分の間は身じろぎ一つせずに息を殺し、異変が起こらないことを確かめてから、扉をそっと開けて様子をうかがう。

 そこはトイレ、何ら変わったところのないトイレ。そのどこにも危害を加えるようなものが隠れていないことを、入念に確かめて個室を出た彼女のヒールが何かを蹴飛ばす。

 蹴られたそれは、ころころと彼女の数歩手前で止まる。

 それはティッシュ、丸まったティッシュ。

 いつからそこにあったのだろうかと思い出そうとしてみたが、トイレに来たときは周りを観察できた精神状態ではなかったので、存在していたとしても気が付かなかっただろう。

 それを無視してトイレから出ようとすると、ふ、急に鼻先を、ふぐ、あの臭いが、ふぐぇ、よぎる。

 慌てて辺りを見回したが、トイレには自分以外に誰もいない。それでも臭いは消えず、しばらく考えてから自分が発してことを知る、知って、


 このままではバレリーナではなくなってしまう!


 気が動転した彼女は自分の体臭からどうにか遠ざかろうと素早く後退する。しかし、臭いは付きまとうようにして彼女とまったく同じ距離を移動する。彼女は転げるように、転げるようにしてトイレから飛び出し、カッ、カカッ、とヒールの音を響かせながら廊下を疾走、立ち並ぶ扉に逃げ場を求めて右往左往、動けば臭いは一時的に消えるが、その往復路には残り香が蓄積、廊下の扉がひとつ開いて出てきた社員は、反射的に危険を察して部屋に跳び戻る。彼女は助けを求めてその扉にすがり付くが、内側から施錠されて開かない。


 停止に遅れてやや発汗

 発令

 放散

 注意報

 鼻先に神出鬼没


 彼女は飛び退き、隣室の扉、その隣、隣、と順々に扉を開けようとするが、どれも厳重に鍵が掛かって開かない。そして最後、廊下の突き当たりの部屋のドアノブに手をかけたとき、ふッ、フラッシュバックする今朝の映像、倒れていた、倒れていた、見ていた、見られていた。

 閃輝暗点、眉間から照明が落ち、気を失って扉にもたれかかる。その体重を支える素振りも見せずに無情な開扉、湧き出した臭いに包まれ、ゆっくりと倒れ込みそうになった先の部屋、パリパリッ、見ていた、男も女も見ていた、室内にいた社員たちが、一斉にこちらを見ていた。


 目が合い

 沈黙

 困り顔


 その表情が見る見るうちに不安に曇っていき、夕立のようなパニックに陥る前に、「はい、お疲れさま!」とお日様の快活で入室する。すぐに社員たちがその表情を改めて、「お疲れさまです!」という溌剌とした返事をする。それに、うんうんと頷きながら「はい、お疲れさま!」と再びそう繰り返しながら部屋を見渡し、演台があったのでそこに立った。

 立ってみたはいいものの、何か目的があった訳でもないので、やることもない。空いた手で卓上マイクに触れ、電源を入れてからすぐ切り、顔を上げて部屋を眺め、まるで講演会のように並べられた机に着く十数人の社員たちのまだ若々しい面立ちに、社会の理不尽さで擦り減った様子がまだないことに気付き、たとえばそう、彼らが新入社員だとしたら、彼らの前に立った以上、責任を持ってそれ相応の振る舞いをしなければならないとそう思い、彼らにティッシュを一枚ずつ配布した。

「それでは、今配ったティッシュ用紙にぼくの第一印象を書いてください。なるべく詳細に、けれど簡潔に、言葉遣いと気遣いを忘れずに。終わった人から順次退出して頂いて結構です」

 落ち着きを払った口調を心掛けながらそう言い、背後にあるパイプ椅子を引き寄せて静かに座った。

 間もなくして3名がティッシュを卓上に置いて部屋から立ち去った。

『あんドーナツのうぬ惚れた粉砂糖』

『神経質な針金に覆われて観念的な犬』

『今朝、駅で見掛けましたよ』

 ふむふむと読んでいる間にまた2枚追加され、『まぁ悪くはないです』『逃げ足が速そう』それを読み終えてから部屋の窓へと顔を向ける。


 雨が降っていて晴れていた

 夜だけど昼間で

 赤くて明るくて暗かった


『目が悪くてよく見えませんでした』

『ふて腐れた態度が飼ってる文鳥にそっくり』

『無視とかできないんですか?』

『ごめんなさい。風邪気味なので鼻をかんでしまいました』

『肩慣らしにはちょうどいい繊細さ』

『左ほおに黒子があるの、知ってます?』

『一方的に話を進めないでほしい』

 続けざまにきたそれらを読み、顔を上げると最後の一人がティッシュを差し出した。

「はい、お疲れさま」

『一貫性がない』

 それをこちらに手渡して退出した。

 独り残った研修室でティッシュの数を確認してみると、座席にいたはずの新入社員の人数と枚数が一致しない。もう一度、今度は声に出しながら数えなおしてみても、やはり一枚足りない。

 何かの拍子で床に落ちてしまったのだと、床に這いつくばって部屋中を探し回る。座席の下に潜り込み、部屋の隅を四隅、念のためにゴミ箱をひっくり返してみたが、発見できたのはガムの銀紙一切れのみだった。

 そこまでしてようやく、提出せずに帰宅した社員がいたのだということに思い至る。彼、もしくは彼女は、全員に与えられた課題なのに、まるで自分だけ例外であるかのように拒絶し、何事も言わず席を立ち、何事も言わず部屋を立ち去ったのだ。

 人目に付かぬようそそくさと会社のビルを出て、黙々と歩くその横を走り去る走行音、驚いて吠える、談笑、遠くからの声、鳥、遮断、塵、それらを一緒くたに捉えて置き去りにする。その足運びからは感情が読み取れず、どこかへ向かっているのか、何か目的があるのか、それも一切なくただただ歩いているだけなのか見当もつかない。

 このままでは見失ってしまうと思ったぼくは、腹部に力をこめて大腸を圧迫し、ぼふり、と健康的な快音を周囲に響かせる。濃厚で有機的な香りが辺り一帯を取り巻き漂ったが、それはすぐに厖大な大気に拡散してしまう。

 だが決して消えた訳ではなく、限りなく淡い粒子となってこの目の前の塵や靴底で巻き上がる土埃、行き交う人々の衣服の毛羽立ち、柔らかい皮膚を覆うもっと柔らかい体毛に付着し、それら一つひとつが薄い関係を結んで、地の底の根のように人知れず存在している連絡通路下、ステーションロータリーを中心とした路線バスとタクシーの周回で巻き上がる粉塵、それに誘発された数発のくしゃみ、鼻先に開花する野クリサンセマム、犬の、聞き耳を立てる敬虔な親子、毛づくろいとともに幾世代の毛並みを渡る羽虱、その跳躍

 驚く巣の子の鳥、辻風に

  口移しされる芋虫が

 ガストリックな海の奥に夢想する

  広大な小麦畑

     ばぃる ばぃる

 その上空

      一羽の

 無数の

     放し飼い

          目を開け

            吠える

      空に

 そして、











 そして、目の前を蝶のように横切った香りに、思いがけず足を止める。顔を左右に振り、首を傾げて鼻から空気を吸う。

 脳裏を走ったのは不鮮明な像、乱立した線の細い暖色の揺らぎ、意識に定着する前に崩れてしまう脆い輪郭が一瞬間だけ閃いて消失する。

 僅かに漂う痕跡を頼りに路地に入って隣の通りへ移り、見渡し見つけるパン屋に入る。

 暖かみのある照明に満たされた店内には数名の客、刺激的な色づかいのポップで名指される愉快なパンを選別するトングの銀色、その眼光に見向きもされないシェルフ最果ての際、岩壁の土塊のように朴訥としたパンを手に取り、それに見合うだけの硬貨を置いて店外に出た。

 空腹ではない。どちらかというと満たされている。満たされた場所に余剰を探す徘徊、どこで食べようか、ぶらぶらと歩いていると、パン屋から二区画ほど離れた場所に公園を発見し、そこで食べることにした。

 決意は足早に昼過ぎを亡命、公園の入り口付近まで行くと、道を塞ぐようにして雑談している二人組。会話の内容は聞き取れないが、その足元で退屈そうに伏せている一匹の犬を見る限りは、たいした内容ではないのだろう。

 少し躊躇いながら近付くと、気配を察して道を開けてくれる。そこを通過するとき、犬がさっと頭を上げ、買ったばかりパンに熱心な視線を向けていることに気付く。手を小刻みに揺らしながらその注意を引きつけ、公園のベンチに腰掛けるとこれ見よがしにパンにかぶりつく。

 ふた口で吐き気がして地面に放り出す。

 その瞬間は犬にしか見られなかったので、このパンが地面に落ちている理由を知っているのは犬とぼくだけだった。

 日射しは穏やかにコップの底を注ぐようにして公園を浸し、滑り台やブランコ、砂場と街路樹が屈折して見せる白のまほろば、すべてが少しずつ動いていて、すべてが少しずつ変わっている。毎日伸びている髪の毛よりも緩慢で物静か、見違えるほどの変貌を経てはじめて、もうどこにも現れないと知ることになる。



 こまかく

 ゆれている



 目の奥に痛みを感じ、深くベンチに座り込むと背もたれが背中に食い込む。どこからともなく飛んできたハトが物欲しそうにパンの近くをうろつきはじめる。その一方で、リードに繋がれた犬が公園の入口からパンを注視している。

 このパンはどちらの手に渡るのか。やはり距離の近いハトに分があるだろう、しかし、あと一歩でもハトがパンに近付けば、犬はそれを見逃さずに鋭く吠え立てるだろう。ハトは驚いて飛び去り、犬はパンにあり付ける訳だ、あの首輪から伸びるリードがなければ。どうすれば飼い主の隙をついてパンに駆け寄れるだろう、勘案を巡らせているうちに樹上まで逃げていたハトが再び舞い戻ってきてパンに近付こうとして吠えられる、飛ぶ、考える、戻る、吠える、飛び考え戻り吠える。

 状況はその周期を折り目正しく維持し、時間だけがただ無為に過ぎていくうちに、


 雨が降る

  すぐに止む

 汗をかく

  すぐに止まる


 瞬く間の乾湿にパンはあっという間に原形を失う。あれをパンだと知っているのは、犬とぼくとハト。犬は視覚に頼らずとも持ち前の嗅覚であれがパンであったと確信をもっているはずだ。ハトだって間近で見たのだからあれは間違いなくパンだったと主張するだろう。どれだけ変形して異なる見た目になろうとも、信頼のおける自身の感覚がそう述べるのであれば、それがパンであることは疑いようがない。

 ベンチから立ち上がり、膨張してパンを手に取る。

 しかし、唯一パンとの接触を持つぼくが、これはパンの味ではなかったと言ったとき、犬とハトは自らの感覚を投げ打ち、どこの誰とも分からないぼくの、信憑性のない言葉を信じてくれるだろうか?


 パン!

  パン!


 どれだけ精力的に言葉を尽くしたって、いや、それを真剣に熱っぽく語れば語るほど、犬もハトも、ぼくの舌が狂っているとしか思わない。

 突き詰めてしまえば生まれ持ってのこの境涯、だからぼくもパンと言おう。

 パンと言って、パンと思って、パンと誓おう。

 リードに繋がれた男が立ち去り、風に乗って女が飛び去って誰もいなくなったあとも、手に残されたパンが絶え間ない熱視線に曝され、到底パンとは程遠い風采に腐り落ちてなくなったあとも、手のひらにある空白をパンと呼び、それがパンではないと告げられるまで、ぼくはパンと言い続けよう。



 オラァ!

 パンパンパンパン!



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