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邂逅~父娘へ ◎

『マリコ』さんに挿絵を描いていただきました。


可愛いです。

     《突然ですが、娘ができました。》

挿絵(By みてみん)


「お父さんに会いなさい。」

それが、お母さんが私に残した最後の言葉だった。


  【1.邂逅】


「あの・・・、すみません。」

どこか懐かしいと思わせる容姿。

澄んだ鈴の音のような声。

振り返ると中学生くらいの女の子だった。


「ん。どうかした?」


梅雨時の晴れ間、夕暮れに染まる自宅マンションの前。

その子はセーラー服を着、両手にはバッグを持っている。

この辺りは幹線道から少し入っており、ほぼ住宅街と言ってよく辺りに遊ぶ

場所も、買い物をする場所もない。

友達か誰かを訪ねてきたのだろう・・・。


「本間、伸朋さんですよね?」


面食らった。

どうやら、尋ね人は私自身らしい。

しかし、38歳にして独身の自分に中学生の心当たりは全くない。


「うん。本間だけど、君は?」


「はい、・・・あの・・・八月朔日といいます。八月朔日梨桜。」


ほづみ・・・

たった一人思い当たる女性がいた。前の職場の同僚で、・・・そういえば面影

がある。

この子をパッと見た瞬間に妙な懐かしさを感じたのはそのせいなのだろう。


『八月朔日唯』さん・・・


3年間お世話になった会社の、当時惹かれていた女性だ。

出社初日の朝礼で、横に並んだ時の感覚は今でもはっきり覚えている。

デジャブのような、兄妹のような、親戚のような・・・

そんな不思議な感覚が襲ってきたのだった。

その時の私は、恥ずかしながら

 『あ、この人と結婚するのかも』

などと思ったものだ。


「八月朔日さん・・・八月朔日唯さんの?」

「はい。娘の梨桜です。」

「あぁ、よく似ている。

 それじゃあ、立ち話もなんだからそこでお茶でも飲みながら。」


そう言って私は、彼女を行きつけの喫茶店に案内した。

自宅マンションのすぐ目の前にあり、おいしいコーヒーを入れてくれる専門店

『浅琲』

生豆から仕入れて客の好みに合わあせて出してくれる、落ち着いた雰囲気の店

だ。


 (カランコローン)


「いらっしゃいませ。」


私はいつものように奥のテーブルに向かい、少女に促して自分も座る。

「とりあえず、何か飲もうか。」


きれいな手書き文字の並んだメニューを彼女に差し出す。

「あ、・・・・えーと・・・カフェラテで。」


そっと手を挙げて、ウェイトレスの紫桜理さんを呼ぶ、

「ブレンドと、カフェ・ラテで」

「はい。」


ウェイトレスをやっている紫桜理さんは、この店の看板娘というやつだ。

気立てが良く、とても気配りができる、この店のオーナーの娘さんである。


私が少女の方へ眼をやると、緊張しているのが手に取るようにわかる。

俯き、だが何か強い決意のようなものを感じた。


唯さんからの頼まれごとだろうか・・・


「それで、唯さんから何か言伝かな?」


わずかな沈黙・・・そして・・・


「あの・・・、お父さん・・・、だと、聞きました。」


思考が一瞬止まる。


 (お父さん・・・?

       ・・・私がこの子の?)


理論的にあり得ない。

なにせ、私はこの子の母親である唯さんとは付き合ったり、いたしたりした

ことはないのだから。

ひょっとして、なにか科学的?生物学的な手段により私の細胞をもとに生ま

れたのが、この子という事なのか?

いやいや、人に対するクローン技術はいまだ使われてはいないはずだ。

未だというより、今後も一切そういった研究は倫理的になされるべきではい。


・・・混乱しているのかアホな思考に入ってしまった。


唯さんが父親でもない(はずの)私を父親だと言い、会いに行けと言ったの

にはそれなりの理由があるはずである。

だから、この子に対して『そんなことはあり得ないよ。』などと伝えることは

私にはできなかった。


一方、この子の方は、父親の顔を見に来ただけにしては、少々雰囲気がそぐわ

ない。

興味本位という感じではないのだ。


そうすると、この子が私に会いに来たのはひょっとすると・・・


 (私は嫌な予感を感じたまま少女に尋ねた。)


「唯さんがそう?、彼女は元気なの?」

「・・・なくなりました。三日前に。昨日お葬式をすませました。」


嫌な予感は当たってしまった。

唯さんは一人娘を私に託して亡くなったらしい。


そして、多感なこの年頃の少女が、いくら父親だと聞かされたからといって、

今まで見たこともないおっさんに会いにここまで来たということは、ほかに

行く当てがなかったということだろう。


たった一人の母親を失い、

いったいどれほどの思いでここまで来たのか。

それをどうして放っておくことができようか。


「そう・・・・・か。それは、辛かったね。

 すまなかった、・・・私を恨んではいないかい?」

・・・唯さんの面影を濃く残すこの子を見ていると、自然と涙がこぼれていた。


(これではまるで本当にこの子を捨てた父親のようではないか。)



  【2.お母さんの言葉】


「梨桜・・・、あのね、お父さんは生きているの。

 今まで嘘をついててごめんね。

 それから・・・、こんなに苦労させてしまって・・・

 本当にごめんなさい。

 私がもうちょっと・・・。

 だけど、ね。これが・・・お父さんだから・・・。

 お父さんに、会いに行きなさい。」


 お母さんは、そこまで言うと静かに目を閉じ、息を引き取った。

本間伸朋、それが私のお父さん(仮)らしい。

ただ、本当に父親なのかは半々くらいだと思う。

だけれど、お母さんが亡くなった今、私に行くところはない。

だから、生きるために会いに行かなければいけない。

たとえ本当の父親でなかったとしても。


 お坊さんと私一人っきりの簡単なお葬式を終えて、お母さんが残してくれた

手帳をもとにその住所を探して歩いた。


やっと見つけたその住所は、私の暮らしていたアパートから駅3つ分のそう遠

くないところにあった。

スマホを持たない私にとって、駅3つ分の距離と、その駅からわずか徒歩10

分くらいの住所を探すのはそれなりに大変だった。


アパートを片付けて、大家さんに挨拶して出てきたのが午後1時頃、そして今

は4時になろうとしている。

救いなのは梅雨時には珍しく晴れていて、それほどムシムシしていなかったと

いうことくらいだけど、それでも背を伝う汗が気持ち悪い。


お父さん(仮)の若いころの写真は持ってきたけど、仕事が終わるのは何時頃

だろう、7時か8時か、あるいは深夜か・・・。


それまでここでぶらぶらしていたら、通報されて警察に連れていかれそうな気

がする。

そう考えて、私はまた駅へともどり構内のベンチに腰を下ろした。


持ってきた本を読んでいるうちに、いつの間にか眠っていて、気づいたら6時

になろうとしていた。


駅の外は夕焼けに染まっている。


一つ伸びをして、改めて考えてみる。

お母さんは、どうして父親の存在を隠していたのか。


一番ありそうなのが、言いたくないような人柄の場合だとおもう。

ただ、そんな人のとこに今更預けようとは思わないだろうから、この場合は今

日会いに行くお父さん(仮)の本間さんは体よく押し付けられた偽父というこ

とになりそう。


だけど、頼るほうも頼られる方も、身に覚えはあったのだろうから、無為に拒

絶はしないだろうし、そんな冷たい人なら今わの際に娘に伝えたりもしないだ

ろう。

だから、この場合はたぶん受け入れてはくれる。生きていけるということだ。


もう一つの場合。

本当のお父さんだった場合は、どうして今まで隠していたのか?


今、娘を預けようというくらいだから、お母さん的には信頼はしていたのでは

ないかと思う。ただ、そうならなぜ今まで援助なりを申し出なかったのか?

あれだけの苦労をしながら・・・という疑問がわく。

だからこの場合は、すでに妻帯者なのだろうという想像がつくのだけれど、そ

れじゃどういう顔で会えばいいのかわからない。

奥さんだけならまだしも、子供がいたらどんな顔をすればいいんだろう?

・・・。


だけど、他に行く当てがない。

だから、会いに行くしかない。


 電車から降りる人も増えてきた。そろそろ向かったほうがいいかもしれない。


マンションの前まで歩いて戻り、近くのバス停のベンチに腰を下ろして、行き

かう人を眺めていると、不思議と心が落ち着いてくる。


近くから聞こえる虫の音。


会社帰りらしい家路を急ぐ人たち。


『みんな疲れた顔をしているなぁ』、自分のことは棚に上げてそんなことを思

った。


ふと、塀の上を三毛猫が歩いていくのが目に入った。かなりのデブ猫だ。

そう思ったとたん、チラッとこちらを向いた猫と一瞬目が合ったが、すぐにス

ッと顔を戻してトテトテと歩いていき、体つきに似合わない動きでストッと塀

から飛び降りて行ってしまった。


野良ネコでもあれだけたくましく生きているのに、私の体は貧相だ。

特に胸なんて寂しいことこの上ない。小学生以下かも?


・・・などとつまらないことを(本当に久しぶりに)考えていると、目の前を

お父さん(仮)が通り過ぎて行った。


鼓動が跳ね上がる。


体温が上がる。


足がすくむ。


それでも、思い切って声をかけると、思いのほか柔らかな物言いに、凄くほっ

とした。


ただ、こうして会うまで、『もし本当の父親なら会ってすぐにわかるはず!』

などと勝手に妄想していたけど、実際にはよくわからなかった。

血がつながっていればすぐに分かるとかいうのはどうやら物語の中の事だけら

しい。


喫茶店に案内され、父親だと聞いていると伝えたところ、出てきたのは疑いの

言葉などではなく、ねぎらいと謝罪の言葉と、とても奇麗な涙だった。


『間違いない。本当のお父さんだ。』


私は確信した。

私はお母さんもお父さんも恨んでなんかいない。

ただただ、ほっとした。

ほっとして涙があふれてきた。



  【3.梨桜】


恨んでいるかとの私の問いに、少女は


「いえ・・・」

と、嗚咽交じりに答えた。


何がどうであろうと、この子を守らねばならない、そう思った。

7月も間もなく終わりのこの時期、学校は休みのはずだが、不幸に見舞われた

この子の雰囲気は限りなく沈んでいた。


荷物はボストンバッグとカバンの二つのみ。これが全部だという。

住んでいたアパートは今日引き払い出てきたらしい。

まさか追い出されたわけではないだろうが、この年頃の子の無謀ぶりに冷や汗

が流れる。

私の帰りが遅かったら?出張だったら、どうしたのだろう?と。


体つきは見るからにほっそりしており、顔色もよくない。

制服もきちんと皴こそ伸ばしているものの、くたびれ感が見て取れる。

並々ならぬ苦労をしてきたのだろうと思われた。


珈琲店『浅琲』で少女の気持ちが落ち着くまで少し時間を使い、向かいにある

自分のマンションへ連れて帰った。


「すぐ飯にするから、先に風呂使ってきて。5分くらいでお湯が張れるから。」

「あ、はい。」

「あー、好き嫌いやアレルギーはある?」

「あ、いえ、ないと思います。」

「了解、じゃ、ごゆっくり」


梨桜は返事をして脱衣所に入っていった。

さて、と。オムレツ、スープ、サラダ、そんなとこだな。

冷蔵庫の中身と、手早く作れそうなメニューを考え材料を取り出した。

一人暮らしも18年もやっていると殆どなんでもできるようになる。

こう言うとプロに怒られそうだが、中華はかなり味のごまかしがきくし、魚は

3枚におろすところから刺身まで行ける。


一番得意なのはカレーだがこれは30分や1時間ではできない。

卵料理は実は奥が深いと言われるがそれなりにはできる。


「お風呂、おさき、いただきました。」


一通りの切り出しが済み、さてオムレツにとりかかったところで、梨桜がバス

ルームから出てきた。ずいぶん早い。


「ああ。あと10分くらいだから、髪を乾かしてゆっくりしていて。」

「お手伝い、しましょうか?」

「ああ、座っていて座っていて。」


キャベツ、バターで茹でたニンジン、ブロッコリーを盛りつけた皿にオムレツ

を載せ、これで二人分が出来上がる。スープとごはんと一緒にテーブルに並べ

たところで梨桜に声をかけた。


「じゃ、いただこう。」

「はい、いただきます。」


箸の持ち方も、食べ方も今どきの子には珍しくとてもきれいだ。

その表情から、味はそれほど外してはいなかっただろうと考えていると・・・


「っ!。とても、おいしいです。」

と、褒めてもらった。


「で、今日会ったばかりとはいえ、親子だからね。ざっくばらんに行こう。」

「はい。」

「いや、そこは、ウンで!」


すかさず軽く突っ込みを入れると、少しだけにっこり笑った。

「本当に、知らなかったとはいえ、苦労をかけてすまなかった。その分これか

ら甘やかすから。」


  (これは相手をだます悪い嘘なのか?)


話しかけながら、頭の隅にこびりついて離れない思考を何とか追いやろうとす

る。第一に考えるべきはこの子の幸せ、唯さんから託された大切な宝物のこれ

からの幸せであるべきだ。そのためにはたとえ嘘をつこうと、舌を抜かれよう

と、この子の父親であるべきなのだ。


「それで、明日は買い物に行こうか?」

「買い物?」


梨桜は箸を止めて、『ポカン』という擬音が聞こえてきそうな顔で頭を少し傾

ける。

「うん、持ってきたものはカバンと、着替えはボストンバック一個分だろ?

 とりあえず、着替え用の衣類一式ある程度と、部屋着、制服も少しくたびれ

 てるみたいだから作ってもらって、あとはまぁ、店を回りながら見繕って。」


私がそういうと、少しだけ恥ずかしそうに俯く。


そして、静かにしゃべり始めた。


「本当は、学校に行ってる間もちっとも気が抜けなくて・・・。

 匂わないかとか、制服変じゃないかとか、

 靴下の繕いに気づかれないかな、とか。

 お母さんが体調崩してからほんとにあれで、

 せっけんや洗剤もちょっと大変で、

 お風呂とかもあんまり・・・で、・・・

 あ、ちゃんと毎日タオルを濡らして拭いてはいたんだけど・・・

 それでも学校ではそういうのが気になって・・・」


とつとつと話しながら、静かに涙が流れ落ちている。


「そういうちょっとしたことがきっかけで、すぐ苛めみたいなのになっちゃう

 時もあるし・・・、そうはなりたくない、きちんとしなきゃ・・・

 って、ずっと気が抜けなくて。

 ・・・でも今、すごく、すごくほっとしています。」


「ごめんな。本当に。」

「ううん。ぜんぜん、私も死んだって聞かされてたし。

 お母さんも何か理由があって、言いたくなかったんだと思うし。

 あ。一つ聞いていいですか?」


「ほらまた敬語!」


すると、泣いたままで『くすっ』と笑った。


この笑顔を守る。何としてもだ。


「で、何が聞きたい?」

「お母さんのことは、好き、だったんだよね?

 付き合ってはいなかった、の?」


「うん。唯さんのことは大好きだった。ただ、俺がチキンだったんだな。

 結局そう言い出せないまま会社を辞めてしまった。

 付き合ってたわけでもない。ただ、やめる前にそういう事があって、

 本当に情けなくて、言い訳もできない。」


どう申し開きをしようが、当の本人にしてみれば、男女の関係を持ったにも

かかわらず、責任も取れない不純な男に映るだろう。また、事実付き合って

いないわけだから、『付き合っていた』と嘘を言ってもその先をつなげるこ

とはとても困難だ。だから、できるだけ嘘の範囲を狭めた言い方を、私はし

た。


「そうなんだ。あ、責めてるわけじゃないよ。

 『お父さん』知らなかったんだし。」


梨桜は『お父さん』の下りで顔を真っ赤にした。

私も、とてもいたたまれない気持ちになった。いい年をして。


食事と片づけを終えると、8時半になるところだった。

「それじゃ、俺も風呂に入ってくるから、テレビでも見てて。」

「うん。」


 湯船に体を横たえ、静かに思考の海に潜る。


私が退職する直前の金曜日、営業所のみんなが送別会をしてくれた。

当時の私は若く、どれだけ仕事をしても『何か足りない』、そんな思いに囚わ

れてていたような気がする。


そして、退職を決めた。


所長もみんなも、強く慰留してくれたのがなんともありがたいやら、申し訳な

いやら、本当に残ろうかとも思ったくらいだった。

ただ、やはり若かったのだなと、今になって思う。

もちろん、今の職場も嫌いではない、が、あの頃のようなアットホームさとは

無縁だ。


そして、送別会の日、唯さんは私の横に座り、何やら飲み比べっぽい雰囲気に

なっていた。

彼女は結構お酒が強く、暑気払いで飲んだ折も危うくつぶされるところだった。


あの日、『今日はつぶれてもいい』・・・何となくそう思いながら、潰れるま

で飲んだ。


そのあとの記憶はなく、次の日起きると頭はガンガンし、天井はまわっていた。


ただ、服は脱いでハンガーにかけられており、我ながら酔いつぶれてもなかな

かやるじゃないか、などと思ったものだったが・・・


果たして、そうだったのだろうか?


と疑問を感じたところで、頭の中に、誰かの声が浮かび上がった気がした。


『唯ちゃんそいつをよろしく。』


同期の祐一の声らしかった。

ふっ。都合のいい記憶のねつ造かもしれないな。

と、そのとき、


「お父さーん、お背中流しますよ~」


脱衣所から梨桜の声がした。

びっくりし過ぎて起き上がって叫ぶつもりが、尻からずるっと湯船に沈んでし

まった。


『ざっぶん!』とお湯から顔を出して、脱衣所に向けて叫ぶ!

「こらーーー!」

「アハハ」


という声とともに、足音が遠ざかっていった。

からかわれたのか?中学生の娘に?


 ゆっくりと風呂を使い、部屋着に着替えてリビングに出ると、テレビを見て

いた梨桜はこちらを振り返り、ニコッと微笑んでまたテレビへと視線を戻した。

今人気になっている恋愛ものの(?)ドラマのようだ。


私は冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに腰かけると一息に半分ほど飲んだ。


「ふぅーーーーっ。」


すると、3人掛けソファの右端に座っていた梨桜が距離を詰めてくっついてく

る。

あまりに自然なその流れに、思わず私はその頭をなで、もう一口ビールを飲む。


そしてまた、頭の隅で考える。

今日会って、この距離感なのは本当にこの子が私を父親と認識・・・

いや、もう確信しているということだろう。

私もまた、あまりに抵抗なく受け入れている自分を、別の自分が冷静に見つめ

ている。

今日会ったばかりの中学生と隣り合い、頭をなでながらビールを飲んでいるこ

の図柄は、それだけ切り取ると犯罪者に見えるだろう。


だが不思議と違和感がない。

普通の親子だと注釈がつくならば、この図柄はありふれている。


この子は今までどれだけの苦労をしてきたのだろうか。

制服すらクリーニングに出さず手洗いし、アイロンをかけ、

だからよく見るとかなりくたびれている。

持ってきた着替えはほんの僅かばかりで、ほかの衣類はほとんどない。

年齢に相応しくない華奢な体つきは、栄養状態の悪さからきているようにも思

われる。


「ふわぁ」


梨桜が欠伸をする。


ドラマは、ちょうど盛り上がったところで、次週へと持ち越しになったようだ。

時刻は9時50分、まだ遅い時間ではないが、梨桜は少しとろんとした目をし

ている。

今日、私を探してここまでたどり着き、昼過ぎから夕方まで待っていたのだ。

疲れも相当たまっているのだろう。


「そろそろ寝るか?」


私は声をかける。

「うん。」

「じゃぁ、布団はこっちに敷くか?それとも一緒の部屋のほうがいいか?」


「一緒に寝る。」


一緒に、とは・・・文字通り一緒のベッドでという事なのだろうが、さすがに

躊躇い少しの間ができる。


「・・・14年分、甘える。」

梨桜は続ける。


そうか・・・14年分・・・本来あったはずの時間を埋めるため。

どれほど寂しい思いをしてきたのか、その思いが頭の中を通り過ぎて行ったよう

な気がした。


「それじゃ、寝るか。」


ゆっくりと腰を上げ、隣の寝室へ向かう。

押し入れから少し低めの枕を取り出し、自分の枕の横に置き、ベッドに入る。

すると、まるでいつもそうしているかのように梨桜が横にもぐりこんできた。


「おやすみ。」

「おやすみなさい。」


ほどなく、寝息が規則的なものに変わる。

やはり相当疲れていたようだ。


 さて、今後の必要な手続きについてサッと頭で整理しつつ、唯さんのことを

考える。


もし、送別会の後で私を家まで送ってくれたのが彼女だとして、

もし、酔いつぶれている私と、そういう事をしたとして、

なぜ?彼女は私にそれを告げなかったのだろうか?

しかし、もっともこれは、何の根拠もない空想の中の話であり、本人が聞いた

らふき出されそうな気もするのだが、仮にそういう前提であるとして、私に対

してどういう感情がそこにあったのだろう。

そして、この子は何を依り代にこうまで私を信頼し、父親と確信し、気を許し

ているのだろう?


そんなことを考えながら、眠りに落ちて行った。



  【4.初めての、朝】


『トントントントン』

リズミカルな包丁の音で私は目を覚ました。

時計を見ると7時。


とても清々しいさっぱりとした目覚めだ。

昨日はベッドに入るなりあっという間に眠ってしまった。

いっぱい話したいことがあったというのに、なんてもったいない。

さっそくベッドを抜け出して、リビングを開ける。


「お父さん、おはよう。」

「おう、おはよ。ゆっくりしてていいぞ。まだかかるし。」

「顔洗って手伝うよ。」

私はそう言って、洗面所へ向かい手早く用を済ませた。


今朝は、パンと目玉焼き(卵焼き?)と、サラダとウィンナーのようだ。

お父さんは千キャベツを切り終えてキュウリを切り出している。

私は横に立って、ラックからペティナイフを取り出すと、まだカットしていな

いトマトに取り掛かる。


並んで調理していると、とても不思議な、温かな気持ちになり、切っている最

中も顔がにやけてきて困った。

お父さんはサラダの切り出しが終わると、目玉焼きを焼き始めその横でウィン

ナーを炒めている。

私は、カットした野菜を皿に盛りつけ、パンをトースターで焼き、コーヒーを

落とした。(私はココアだ)


「「いただきます。」」


「お父さん、料理上手だよね。」

「ん?ありがとう。独身も18年やっているとな。

 まぁ、これは自慢だが、たいてい何でもできるぞ。

 和食、中華、イタ飯、洋食はちょっとやったことないけどな。」

「じゃぁ、今晩は中華で!」

「おし、任せなさい。」


たぶん、お父さんの言葉に嘘はなく、相当料理はうまいと思う。

それに手早い。昨日聞いてみたところ、一番の得意料理はカレーだそうだ。

カレーってだれが作っても同じじゃないのかな?と思わなくもないのだけど、

試しに今度リクエストしてみようと思う。

私は辛いのでも結構大丈夫だ。


朝食を終え、後片付けも二人でする。

終始ニヤニヤが止まらない私は、お父さんからどう見えているかちょっと不安

だ。朝のニュースとかを二人で適当に見ながら、お父さんに仕事の事とか気に

なっていることをいくつか聞いた。


仕事はコンピューター関係だそうで、生前お母さんがしていた仕事と同じとの

ことだ。

付き合っている人はいないらしい。


娘の私が言うのもなんだけど、モテそうなのに。

いや、きっと本人が気づいていないだけで、アプローチは受けているんじゃな

いのだろうか?


お母さんもひょっとして、アプローチしていたにもかかわらず、この人は気づ

かなかったとか?


そう思ったら、チョットだけ残念なお母さんが頭をかすめて行った。


9時を回り、そろそろ支度をするかということになったので、着替えようとす

ると、お父さんはスッとリビングの方へ抜けて行った。


娘に気を使わなくていいのに・・・。


私が私服に着替え終わると、お父さんも白のデニムとストライプのシャツに着

替えていた。


うん。とても38歳には見えない。

ひょっとしたら、私と兄妹で行けるかも?


「じゃ、いくか。」

「はーい。」

マンションを降り、駐車場へ向かう。


そこではたと気付く。

昨日は当たり前のように、電車通勤だと思っていたけど、車だったら会えなか

ったかも?などと思った。


お父さんの車は、2ドアのスポーツタイプだった。

助手席に乗り込み聞いてみる。


「カッコイイね。なんていう車?」

「日産のフェアレディ・Z

 妻も子もいないと思っていたから、自分勝手なチョイスだな。」


「娘はできたけど、妻は死んじゃったからぎりぎりセーフだね。」

 (なんとこの車は後ろに座席がない、だから二人乗りだ。)


「いや、ぎりぎり妻じゃないけどな。」

「「あはは。」」

二人して笑った。


「悪い。」

「ん。平気だよ。」


そして、今日の買い物についてあれこれ話をしながら、車は流れるように

進んでいく。


 お父さんはとても運転が上手い。

加速減速、信号待ち、交差点、etc.

とても気持ちの良い運転をする。


まずは、制服を扱っている店で、改めて採寸してオーダー。

担当してくれたのが女の人でホッとしたが、自分のスタイルに改めてため息が

漏れる。


お父さんにお肉料理をたくさんリクエストしよう。


次に大型のデパートで、衣類を必要分揃えたあと、これから夏に着る洋服を見

に来た。


今まで全くおしゃれと縁がなく生きてきた私は、テンションが上がりまくり、

あれこれとお父さんに感想を求め、

店員さんに感想を求め、楽しく悩んでいた。


と、そのとき・・・


「あれ?梨桜?」


急に名前を呼ばれ振り返ると、クラスメイトの紗奏がいた。


私はあまり友達が多くないほうだと思う。

家のことがあったから、どうしてもクラスメイトに対して壁を作っていたし、

遊びにも行く余裕もなく、家に呼ぶことも呼ばれることも避けていた。

そんな中で、紗奏は交流こそ少ないものの、他のクラスメイトとはちょっと違

う位置づけに私の中ではなっていた。


「あ、紗奏、こんにちは~。買い物?」

「うん。というかブラブラしてただけなんだけど、梨桜も買い物?」

「うん。あ、紹介するね、うちのお父さん。」

「で、お父さん、この子がクラスメイトの紗奏ちゃん。」

「どうも、梨桜がいつもお世話になっています。」

「あ、初めまして、白石紗奏といいます。」

二人が軽く挨拶をした後、『それじゃまた明日』、と買い物の続きに戻った。

ウチが母子家庭だったということを、どれくらいの人が知っているか私は知ら

ない。

ただ、ウチの経済状況が厳しかったということを、おそらく紗奏は気づいてい

たと思う。それが性格の悪いA子に漏れることを内心気がかりにしていたのだけ

ど、幸いまだ彼女に漏れてはいないようだ。

もし、ウチが母子家庭だと紗奏が知っていたなら、お父さんを紹介されてどう

思ったのか少し気になった。



  【5.紗奏】


 梨桜の父親は小学校のころから一度も見ていない。

親の事が話題になる子もいるけど、ならないほうがはるかに多いから、仕事が

忙しくて学校に来られないのか、母子家庭なのかはあまりわからなさそうだ。

本人が言わない限りは。


事実私もクラスメイトの両親の存在など全く意識してはいなかった。

ただ、梨桜の家庭が経済的に十分じゃないということは感じていたし、それを

知られまいと頑張っているのも感じていた。


梨桜はとてもまじめで、しっかりしている。

だから変なことをするとは思えないのだけど、初めて見た『お父さん』の姿と、

その横で見たこともないくらいの笑顔を振りまく梨桜を見るとどうしても不安

を感じてしまう。


モールをブラブラしながら、やっぱり確認したくて、友達の美沙に電話してみ

た。


「もしもーし、あたし。いまいい?」

「はーい、いいよー、なになにー?」

「梨桜のお母さんってさ、具合悪いとかそういう話してたっけ?」


話の切り出し方は大切だ。お父さんいたっけ?とかそういう方向性じゃだめだ。

相手の反応を待って疑われずに切り返すことも考えたうえで、私は母親の方の

話を振ってみた。


今の梨桜の行動がもし思わしくないものであるとするなら、それは母親の何か

が原因のような気がする。


病気とか・・・。


そうすると、それでなくても厳しい家庭環境ならそれは死活問題のはずで、

その結果の援助・・・それは考えたくない。


「あ、紗奏聞いてなかったんだ。梨桜のお母さんこの間亡くなったんだって。」

「エッ・・・。そう・・・だったんだ。」

「うん。たまたま昨日会った先生から聞いたんだ。なんで?」

「なんか元気なさそうに見えたから。」

「そういえば梨桜って、お父さん何してるんだっけ?」


と、続けた美沙に一瞬言葉が詰まる。


「知らないけど、今、お父さんも一緒だったよ。」


そのあと、少し話をして電話を切った。幸い、梨桜の家庭環境については何も

気づいていないようだった。

その後も私は梨桜のことが気になって仕方なかったけど、考えても仕方がない

とあきらめてうちに帰ることにした。



  【6.お父さんとお買い物】


 衣類、日用品、雑貨、あれこれといっぱい買って車に積み込む。

下着類を買うとき、『俺は外に出てる』とかいうので、「恥ずかしがらないで

ちゃんと選んで。」と引っ張って入った。

私のスタイルをしっかりと認識してもらって、ご飯のリクエストにちゃんと答

えてもらうのだ。


買い物は結構な量になり、トランクがいっぱいになってしまった。

バックミラーで後ろが見えないくらいに。


帰りの車の中で、私は今日初めて買ってもらったスマホをいじっている。

もう嬉しさと好奇心とでいじり壊してしまいそうだ。


買う時にお店の人から大体の使い方を教えてもらったけど、まだよくわからな

い。


今、私たちも犯罪に巻き込まれることが多くなってきているせいか、学校も持

ち込み禁止にしてはなく、持ってくる子も多い。

ただ、学校にいる間は電源を切っておくよう言われてはいるけど、みんな普通

に休み時間も使っていたりした。

ただ、私は持っていなかったので、休み時間はもっぱら読書だ。


と、隣でお父さんがにやにやしているのが目に入った。


「なーにー、お父さん、なーんで笑ってるのー?」

と、我ながらちょっとあざとくかみついてみた。


「いや、楽しそうでよかったなと。」

「ちょ~楽しいですよ~~、・・・

          お父さん、ありがとね。」

「あぁ。」(ちょっと照れてるっぽい。)


車を止め大荷物を手にうちへ帰ってきた。

デパートで買った私用のベッドとクローゼットは今日の夕方には届くそうで、

もう自分でもどれが楽しみなのかわからないくらいに、そこら中が楽しみで

あふれている。


その気持ちをとりあえず傍らに置き、お母さんの位牌に一礼する。

『お母さん、お母さんが生きている間に3人で暮らせたら、どれだけ幸せだっ

 たかな?どうして、お母さんはお父さんと一緒にならなかったのかな?

 ・・・私は、こんなに幸せでいいのかな?』



  【7.伸朋】


 ベッドとクローゼットは、寝室でいいだろう。

エチケット用に簡易パーテーションを置けばとりあえず問題はない。

今日の梨桜は終始笑顔で、見ているこちらも思わず頬が緩んでしまっていた。


改めて思う。


守るものがある、ということの責任と生きがいを。


そして、亡き唯に話しかける。

『任せておけ。』



  【8.梨桜】


 『リリーン、リリーン』


5時過ぎに呼び出し音が鳴った。


 「お届け物でーす。」


荷物が届いたようだ・・・


宅配の人がベッドとクローゼットを寝室に運んでくれた。

真ん中にアコーディオン式のパーテーションも置かれる。

10畳ある寝室もさすがにちょっと手狭な感じになった。

私が衣類をクローゼットにしまっている間に、お父さんは晩御飯の支度にとり

かかったみたいだ。

今日は、昨日のリクエストに応えて、中華を作ってくれるらしい。


晩御飯を食べながら、お父さんの話に耳を傾けている。


「明日半休をもらうから、一緒に市役所に行ってこよう。

 まずはちゃんと親子ということを届け出ないとな。」

「どうなるんだっけ?養子とか?」


「いや、俺がお前を認知して、お前が同意して出すだけで、立派な親子だよ。」

「そうなんだ。」


認知・・・聞いたことはある、不倫ドラマとかでよくあるやつだ。

そっか、そんなに簡単に親子になれるんだなと思った。


「それから、会社に届けを出して、保険証を更新して、あ、梨桜、保険証はあ

 る?」

「うん、あとで渡すね。」


健康保険証、気にも留めなかったけど、お母さんが亡くなって行くところが無

かったらどうなったんだろうか?


「今日会った友達は、梨桜が母子家庭だってことは知ってたの?」

「どうだろ?言ってはいないけど、気づいてはいたかも?」

「聞かれたらちゃんと説明しような。

 うやむやにしておくと変に思われるしね。」

「うん。」


紗奏なら今日のことを変な噂にしたりしないと思うけど、出来ることなら早め

に話しておきたい。そういえば、お母さんが亡くなったことも言いそびれてい

たし、紗奏も知らない様子だった。

たぶん担任と数人の教師しか知らないだろう。


あ。そういえば。

「そういえばお父さん、私苗字変わるんだよね?」

「うん。そうなるな。愛着のある苗字だったと思うけど、良いか?」

「うん。親子だもんね、全然平気だよ。」

苗字が変わるというのは何となく不思議な気がした。


晩御飯を食べ終え、昨日と同じようにソファに並んで座ってテレビを見たあと、

買ってもらったばかりのベッドにもぐりこんだ。

シーツはさらさらで、布団は夏用の薄い掛布団で、とても寝心地がいい。


30分くらい右へゴロゴロ、左へゴロゴロしてみたけど、なんだか寝付けない。

寝心地は凄く良いんだけど。


昨日いっぱい寝たからだろうか?


結局、私は自分のベッドを抜け出して、お父さんのベッドにもぐりこんだ。



  【9.伸朋】


 ベッドが新しいせいか、枕が新しいせいか、梨桜は寝付けない様子だ。

新しいものをいろいろ買ってもらったので、気分が高ぶっているのかもしれな

いし、スマホをいじっているのかもしれない。


と、そんなことを考えていると、梨桜がパーテーションを開けて、ベッドにも

ぐりこんできた。


頭をなでて寝かしつけてやると、すぐに眠りに落ちて行った。


昨日、『14年分甘える』と言っていたが、甘えたいというよりも『守られたい』

という感情からきているように感じる。


唯は末期のすい臓がんだったという。発見からわずか半年でこの世を去らねば

ならなかった。


梨桜にしてみれば、その半年間とはどんなものだったのだろう。

母の世話、家事、学校、わずか14歳の子にはあまりに過酷だ。


だが、この子が言ったように、子供というのはとても残酷な一面がある。

家庭の事情などというものがクラスメイトに知れれば、同情はおろか攻撃の対

象になってもおかしくはない。


この子はそれを感じ取り、努めて強く振る舞ってきたに違いない。


その結果、心が悲鳴を上げ、折れる寸前まで達していたように見える。

それゆえ、年相応しくないほどの『甘えたい』、『守られたい』という欲求が

顕在化しているように感じられた。

平日の昼間は家を空けねばならないが、それがとても恐ろしい気がする。


一人で大丈夫だろうか・・・。


 目を覚ますと、梨桜はまだ夢の中のようで、心地よさそうに目を閉じている。

起こさないようそっと抜け出して顔を洗い、朝食の準備を始める。


 今朝はごく一般的な和食にするつもりだ。

アジの干物と、卵を焼くだけなので20分もかからない。

ちなみに私は厚焼き玉子にはなにも入れないのが好きだ。

みそ汁のだしイワシと昆布は裂いたり切ったりして昨日のうちに入れてある。


わずか2,3分の仕事で翌日に大きな効果が期待できるならやらない手はない。


梨桜はとても美味しそうに食べてくれ、作った方としても満ち足りた気持ちに

なる。自分にもこんな母性のような感情があったのかとあらためて思う。


 後片付けを二人でやり、お昼代を渡して家を出た。


今月の小遣いをと考えたが、中学生くらいのお小遣いが幾ら位か分からなかった

ので、とりあえず今日のお昼とお茶の分のつもりで2千円渡しておいた。

後で平均的なところを調べてみよう。


 娘を一人残す不安を感じつつ家を出る。


電車の中で今日提出する書類について確認する。


家族状況の異動届、扶養、保険、それから部内への周知もした方がいいな。

と、そこで、課内で積極的にアピールしてくる女子社員の顔が目に浮かんだ。

私とは下手をすると親子ほども年が離れているのだが、なんともはっきりと好意

を向けてこられている。


あるいはきちんとした意思表示を、言葉でする必要があるかもしれない。


 会社の扉を開け、皆に挨拶してからデスクに着く。

いつもの事ながら月曜日は週の初めらしい独特の空気がある。

若いころから、この月曜日の空気は決して嫌いではなかった。


今日の予定、今週の予定を確認していると、部長の『おはよう』という声に皆が

答える。

私は、改めて部長席に向かい、挨拶をして奥の会議室に部長を案内する。


この週末の出来事をかいつまんで説明すると、『そうか、それは大変だな。

何かあったら声をかけてくれ』と、特に深く詮索することもなく、社交辞令的な

ねぎらいを言うと自分のデスクに戻った。


部課係長による月曜ブリーフィングを終え、課内のミーティングの最後で私は話

を切り出す。


「ところで、個人的なことで恐縮だが、みんなに伝えておきたいことがある。

 実は、事情があって子供を引き取ることになった。

 今までは母親が育てていたんだが。

 私の判断が必要なときは、いつでも呼び出してもらって構わないが、定時で退

 社させてもらうことが多くなると思う。

 もちろん、仕事への影響はないようにするが、よろしく頼む。」


私の発言に、開発1課、1・2係の10名はほんの一瞬だが完全に固まってい

た。そして、

「あ、今はスケジュールきつくないし大丈夫だと思いますよ。」

と、1係長の青木。

「まぁ、忙しくなってきても俺らがやりますんで、心配しないでください。」

と、2係長の鈴木。

二人とも、30そこそこと若いが、機動力、判断力ともにあり十分任せておける

やつらだ。


「ところで、詳しく聞いてもいいんですか?」と鈴木は続ける。

「あぁ、今のミーティングの通り、今日は午後半休をもらったんだが、飯は食っ

 ていくから、その時に根掘り葉掘り聞いてくれ。」

「了解です。」

「それじゃあ、今週もよろしく。」

「 「 「よろしくおねがいします。」 」 」


とりあえず、朝イチでやるべきことを終えて、人事課へ向かう。


所要の用紙をもらい、その場で記入して提出しながら伝える。

「必要書類は、今日午後役場に行ってきます。明日提出でいいかな?」

「はい、それで大丈夫です。」


こうして、一つずつ手続きを終えていくと、子供を持ったという実感が定着して

くるのを感じる。

ほんの三日前まで、仕事をして家で寝る生活を繰り返し、思考の大部分が仕事と

社内のことにとらわれていたが、今は10時のお茶タイムにも梨桜のことを考え

ている。


 やがて12時になり、みんなに声をかける。


「それじゃ、区切りのいいところでお昼にしようか。

 聞きたいことがある奴は一緒に行こう。」


私はそう言うと、PCをたたみ席を立った。


どうやら、10人全員が一緒に食べるらしい。

自分で思っていた以上に周りは興味があるようだ。


 うちの会社はこの20階建てのビルの9階に入っており、4階には従業員用の

食堂がある。ビルに入っている会社全てが利用でき、値段も味も申し分ない。


11人がそれぞれランチの載ったトレイを持って空いている席についていく。

いつものように混み始めてはいたが、まとまって座ることができた。


 社員食堂ではそうのんびりも食べていられないため、さっそく私は皆が知りた

がっているであろうことを話していくことにした。


「引き取ったのは娘で、今14才だ。週末は一緒に買い物にも行った。今後もあ

 ると思うが、変な誤解はしないように頼む。(笑)」


「中学生の娘さんですか、男で一人じゃ大変じゃないですか?」と鈴木。


「いや、飯も家事もそう問題ないな。ただ、部屋は狭くなった。引っ越しも視野

 に入れるかもしれない。」


「もともと交流とかあったんですか?」


「いや、正直会ったことはなかった。というより、存在を知らなかったんだ。」


「えっ?、それって母親のほうが内緒にしてたって事ですよね?」


「そのようだ。あっちにもそれなりの理由があったんだろう。」


「こういう事を言うと失礼だと思いますが、課長のお子さんなのは確かなんです

 よね?」


「うん。それは間違いない。

 引き取った理由というのが、その母親がなくなり、俺のことを娘に伝えたから

 なんだ。よもや、赤の他人に娘を託したりはしないだろう。

 それに、娘の方が、会ったその日から私を父親だと確信している風がある。

 ひょっとすると、母親から写真なりを見せてもらっていたのかもしれないし、

 子供ならではの直感なのかもしれない。」


皆が少し息をのむ。


「それは、・・・ご愁傷さまでした。」と、口々にお悔やみを述べてくれる。


と、ここで、女子社員の芹野が会話に加わり、

「年頃の女の子が、会ったその日に父親だと受け入れるというのは、よほど確信

 的な何かがあったんだと思います。普通ならたとえ父親だと言われたところで、

 知らない人と一緒にいるなんてとてもできませんから。

 やっぱり、直感が働いたのかも・・・?」


「そうだな。俺もパッと見たときから母親によく似ているとは思ったが、言われ

 るまでまさか自分の娘だとは思わなかったんだ。

 子供にはそういう直感みたいなものがあるのかもしれんな。」


「中学生くらいだと、いろいろお困りのこともあるかと思いますので、何かあっ

 たらお気軽に声をかけてください。」

「あぁ、何かあったら相談させてもらうかもしれない。」


とは言ったが、自分のことを他人に相談されることは、たいていの子供は嫌がる

のではないかと思う。先に『家事は問題ない』と先手を打ったのも、ともすると

今のような流れで手伝いに来ると言い出してはと危惧したからだ。

要らぬ心配かもしれないが。


「ところで課長、娘さんが14歳ということは、前の会社にいたときのお子さん

 ですよね?」と青木。


「あぁ、ちょうど退職するちょっと前あたりの事らしい。あれがなぜ黙っていた

 のかは全くわからないんだが。」

と、ちょっとだけ関係がありそうな口ぶりで話す。

本当は付き合ってさえいないのだが。


「失礼ですけど、母親の方も未婚だったんですか?」

その質問はある意味当然だ。結婚していれば義父が面倒を見ていただろう。


「あぁ、だからなおさら黙っていた理由がわからないんだ。まぁ、俺の先行きに

 不安を感じた、そんなとこかもしれんが。」


その後も、いくつか娘について聞かれ、話をしているうちに少し遅い昼食にな

ってしまったが、皆おおよそのことは納得してくれたようだ。


 14時、仕事を切り上げ帰り支度をする。

「それじゃ、悪いけどお先に。」

「 「 「 お疲れ様でした。」 」 」


帰りの電車でも娘のことが頭から離れず、

『梨桜はお昼をどうしただろう。』などと考える自分に私も結構親ばかだなと思

った。



  【10.芹野】


 本間課長の「子供を引き取ることになった。」という話を聞いて、私はどれだ

け驚いただろう。


椅子に座っていなければ、確実に膝から崩れ落ちていたに違いない。

それくらいの脱力感を感じた。


私は、高校時代からかなりの年上趣味で、同年代には全く興味を持てなかった。

そんな自分を特におかしいとも思わなかった。


周りの友達も、かっこいい先生についてはワイワイ話すものの、かっこいい男子

についての話題はほとんどしなかった。モテそうな男子がいないわけでもなかっ

たし、私も容姿はそれなりに整っていたから、告白されたりもした。


けれど、もちろんそういう気にならないから、全部断っていて気づけばいつの間

にか『不沈空母』などという不名誉な呼ばれ方をされていたらしい。

大学に入ってからも似たようなもので、この会社に入るまで恋愛感情らしいもの

を感じたことは正直殆どなかった。


だが、私にとっての運命の出会いはこの会社に入ると同時に訪れた。

当時係長だった本間課長の仕事への姿勢や、部下への接し方、上司への態度や礼

儀などは、どこをとっても『まるでドラマの主人公』だった。


だけど、何に惚れたのかと問われたら、やっぱりその声だったのだろう。

名前を呼ばれた時のあの感触・・・は・・・。

と、恋に落ちたきっかけを振り返る。


同期入社は男子が2名、うち一人は彼女がいたようだが、もう一人の方が何かと

私に構って来るので、早々に『係長好きです』アピールをはじめ、同僚を牽制す

るとともにこの恋が実るのを願っていた。


だが、1年が過ぎ2年が過ぎ、3年目を迎えた今も本間課長から特別な目で見ら

れることはない。私のようにあざとい女は嫌いなんだろう・・・そう諦めようと

していたところに、降ってわいた娘。


お昼に、二人の係長がいろいろ聞いてくれたおかげで、かなり細かく知ることが

できたのだけど、一つだけ信じられないのが、『堅物を絵にかいたような』本間

課長が、結婚する気も、子供を作る気もなく避妊せずに事に及んだという事実だ

った。これはまずありえないことなので、『避妊したが失敗した。』という事で

はないかと予想した。

そう仮定して考えてみると、相手の方が意図的にそう仕組んだのではないか?

また、結婚も要求せず、生まれたことも知らせずに子供を育てたのは何か特別な

理由があったのかもしれない、と思った。


娘さんの方は見るなり本間課長を父親だと確信していたようだという。

本当にそうなのだろうか?

あるいは私と同じようにものすごい年上趣味で、父親ではなく『男』として一目

ぼれしたのではないだろうか?

などと、つまらない考えが次々に湧き上がってきて、仕事中もタイプミスを繰り

返していた。



  【11.私と紗奏とスウィーツと】


 「お父さん、いってらっしゃ~い。」

朝7時半にお父さんは会社に出かけて行った。


今日は、午後半休をもらって3時頃にいったんうちに帰り、私と一緒に市役所に

行く予定になっている。


お昼代とお茶代だと言って、2千円手渡してくれた。以前なら1週間は食べていけ

そうだ。

とりあえず、ベッドでゴロゴロしながらスマホをいじくりまわしていると、この

あたりの地図が表示された。


キーワードでお店とかを探せるらしい。なんて便利な。


『スイーツ』と、極めて私らしくないキーワードで検索すると、一つ隣の駅前に

人気店らしい店を見つけた。メニューを見ると値段もそんなに高くない。

 (2千円持っている今なら!)


学校の最寄り駅がここからは2つ目の駅なので、クラスメートもいるかもしれな

い。

 (なので、元居たアパートはここからは学校のさらに一つ先。)


さっそく、昨日買ってもらった涼しげなワンピースに着替えて、姿見の前でくる

くる2,3回回って確認し、出かけることにした。


マンションを出てほどなく、塀の上に一昨日見かけたデブ猫を見つけた。

私の中で、『たまごろう』と名付けてあげよう。


たまごろうは塀の上から落ちそうな体を、上手に横たえて気持ちよさそうに眠っ

ている。


今日も梅雨らしくないいいお天気だ。


そろそろ梅雨明けかな・・・。


 電車で一駅、その駅前にお目当ての店『シャトー・レーヌ』があった。

こういうところに入るのは、小学校低学年以来だ。とても緊張する。


『リリーン』


ドアをくぐるとベルが鳴り、「いらっしゃいませ。」と声をかけられた。


店内をくるっと見回すと、どうやらカウンターで注文をして、席に持っていくら

しい。私はカウンターまで行き、スマホで調査済みの期間限定ケーキと、紅茶を

注文して、窓側の席に着いた。


セットで580円、なんという贅沢か。


窓から、行きかう人を眺める。

平日の10時過ぎ、まばらに歩く人たちはみな元気そうに見える。

月曜日なのに。

憂鬱ではないのかしら。(笑)


ふと、『こういうとこで紗奏に会えればこないだのこともゆっくり話ができるの

に』とか思った。


と、その時!、窓の外になんと紗奏を見かけた!

おいおい!、私は何かの能力者ですか!


私が手を振ると、紗奏も『ハッ』とした表情を見せ、手を振り返してくれた。

入ってきてくれるらしい。


「おはよー、梨桜。ぐうぜーん。」


満面の笑みでカウンター前から私に手を振る。

「おはよう、紗奏、凄い偶然だね。」


紗奏はイチゴの乗ったショートケーキと紅茶を手に隣に座った。


「私ここ初めて。梨桜は良く来るの?」

「ううん、はじめて。

 あ、あのね、ちょっと話があるんだけど、良いかな?」


「うんうん。なになにー?」

「この間、お母さんが亡くなってね、それで今、お父さんと暮らしてるんだ。」

「うん。あの後聞いた。大変だったね。」

「うん。大変だった。知ってたかもだけど、うち、お母さんと二人暮らしだった

 から。」

「うん。そうなのかな、って思ってたよ。」


「やっぱ、気づいてた?人には言ったことなかったんだけどね。

 それで、ずっとお父さんは死んだって聞かされてきたんだけど、亡くなる前に、

 お母さんがお父さんの居場所を教えてくれて、会いに行けって。」

「そうだったんだ。優しそうな人だったよね。良かったじゃん。」


「うん。凄く優しい。

 それで、私のことは全然知らなかったらしいんだけど、すんなり受け入れてく

 れて。」

「こないだ見た感じだと、相当デレデレしてたけど?」

「デレデレ、というか甘えまくってるね。

 信じられないかもしれないけど、私の中ではお父さん確定してますから。」


「それってやっぱ、会った瞬間ピキーンと来たとか、そういう感じ?」

「ううん。会った瞬間はそうでもなかった。話してから、かな。」


「そうかー。良かったじゃん。ちょっと心配だった。」

「うん?なにが~?」


「アハハ。別の意味の『お父さん』だったらどうしよう、って。」

「わぁ~~、それはないって。さすがにそんなに悪い子ではありません。」


「うん。梨桜は真面目でいい子だよね。

 ただ、まじめすぎてそれも心配だった。

 ずっと無理してなかった?」

「やっぱ、紗奏には全部お見通しだったんだねぇ。そんな気がしてたよ。

 私が貧乏なのも気づいてたよね?」


「うん。」


「臭くなかった?服とか変じゃなかった?それがずっと心配だった。」


「そんなこと全然なかったよ。ただ、制服は頑張ってるなぁとは思ってた。」

「あちゃー、やっぱりか。」


「もう、頑張らなくていいんだね。」


 ・・・・・・その一言で、私はどっと泣けてきてしまった。


紗奏はハンカチを貸してくれて、頭をなでてくれた。


「泣いてばっかりだ、私。」

「うんうん。楽になったという証拠でしょ。好きなだけお泣き。」

「あ、気づいてること、いろいろ内緒にしてくれてありがとう。」

「いえいえ。」

「ぶっちゃけ、明美グループには知られたくなかった。」

「アハハ。明美って相手が弱いとみるとすぐ下に見るよね。

 あんなのと、友達づきあいはありませーん。」


「それで今日は、この後お父さんと市役所に行って正式に親子になってきます。」

「おお、ドラマチックな展開ですなぁ。認知された、ってやつでしょ。」

「そうそう。不倫ドラマによくある。」


「『ちゃんと認知位してよ!』」

「『それ、本当に俺の子かよ!』」

「「アハハ。」」

「王道パターンですな。」

「ですなー。」


などと、話は尽きず、気づくともうお昼を過ぎていた。

2時間近く話していたことになる。


「お昼過ぎたね。紗奏、お昼ご飯どうする?」

「何か食べいこっか?」

「うんうん。いこ~いこ~。どこいく?」

「向かいのファミレスが、意外とリーズナブルでボリュームもありましてよ?」

「お~、ボリューム、カモーン。」(笑)

「特にそのお胸に向けて、ね。」

「わぁ~、それは言わないお約束ですよ、お嬢さん!

 ていうか、そのたっぷりとあるものを半分分けてくれてもいいんです

 よ?」

「あげませーん」(笑)


二人で向かいのファミレスに移動し、お昼を食べながら話題は夏の予定に移って

いった。


「去年はねー、海に連れてってもらったんだけど、今年は仕事で忙しいらしいん

 だよね。」

「家族旅行いいね。お父さんとどこか行きたいけど、忙しいのかすらわからない。」

「可愛い娘のためなら、少しくらい空けるって、海いーよー、海。」

「いきたいね~、海。あ、お父さんがいいって言ったら、紗奏も一緒に行く?」

「いやいや、親子水入らずで楽しみなさいって。」


そんな話をしつつ、2時を回ったあたりでファミレスを出た。


去年の夏もお母さんは忙しそうに働いていた。旅行とかに行く余裕が全くないわ

けじゃなかったと思うんだけど、しっかり者のお母さんはつつましく生活しなが

らも、ちょっとづつ貯金をして私の学費に当てようとしていたみたいだ。

それがなければお母さんが病気になった時点で、うちは経済的に詰んでしまって

いたと思う。


お父さんの仕事が忙しくなければ、遊びに連れてって欲しいな。



  【12.私とたまと杠さん】


 お昼過ぎの電車は空いていた。座席も空いていたけど、私は立って貼ってある

広告を眺めていた。旅行、化粧品、そして、水着の広告。今年は青で花柄をあし

らったものが人気なのかな?


おっと・・・、あっという間に次の駅に着き、私はあわてて電車を下りた。


終札を抜けると、ベンチに腰掛ける猫が一匹。


たまごろうだ。


こんなところまで歩いてきたのか。『意外と行動範囲が広いんだな』と思いなが

ら隣に座ってみる。すると、たまごろうは『ふにゃ?』という目で私を見ると、

その丸々した体を『よっこらせ』という擬音が聞こえてきそうな所作で起こすと、

のっそりと私の膝に乗ってきた。

案外人見知りしないようである。


『よしよし』と頭をなでてやると、『ゴロゴロ・・・ゴロゴロ』と気持ちよさそ

うにのどを鳴らし始め、

「・・・アン・・・」と鳴いた。

『にゃーン』の二が消えてしまっている。

これだけ人懐っこければ餌をあげる人も多いだろう。


それでこんなに太ったのか!などと思いながらヨシヨシしていると、


「あらまぁ、このこはずうずうしく・・・ごめんなさいね、お嬢さん。」


という声が右手から聞こえた。70代くらいのご婦人だ。

どうやら、野良だと思っていたたまごろうは、このご婦人の飼い猫のようだ。


「あ、こんにちは。すみません、前に近くで見かけたので気になって隣に座った

 ら懐かれちゃいました。」

「まぁまぁ、よっぽどあなたが気に入ったのねぇ。こんなにゴロゴロ言って。

 普段はそんなに誰にでも懐いたりしないんですよ。ウチのたまちゃんは。」


   !!!


びっくりして目玉が落ちるかと思った。たまごろうの名前は、「たま」というら

しい。


「あ。たまちゃん、って言うんですね。可愛いです。」

「器量は悪くないのだけれど、最近太り気味でねぇ、重いでしょう?

 今日は散歩がてらにここまで連れてきて、これから帰るところなのよ。」


「あ。私も今から帰るところです。ひょっとして家が近いかもです。

 バス停の前にあるマンションに住んでるんです。」

「まぁ。それじゃぁお向かいさんね。

 私はゆずりは。この子が良く昼寝している塀のある家が私のおうちよ。

 それじゃ、うちまでご一緒しましょうか。」


「はい。私は、八月朔日ほずみといいます。」

思わず今の名字が出てしまった。


杠さんとたまちゃんと、のんびり歩きながらウチの前まで帰ってくると、


「良かったらお茶でもいかが?」


と杠さんから誘ってもらった。

道すがらの会話の中で、この人の品の良さにいっぺんに好意を持ってしまった私

は、


「あ。はい、それじゃぁお言葉に甘えておじゃまします。」

とおよばれすることにした。


お父さんが帰ってくるまでまだ30分くらいはあるし、せっかくなのでもう少し

話をしたい。

家に招かれ、廊下を進み縁側のある座敷に通された。とても日当たりが良い。

それになんだかいい香りがする。


たまは縁側の座布団の上に『ぽてっ』と座ると、毛づくろいをし始めた。

たまのむこうの庭を眺めてみると、とてもきれいに整えられたそこに、一本の松

のような杉のような巨木が目に入った。


「なんていう松だろ。」


「それはね、こうやまきという木よ。300年くらいって聞いているわ。

 葉は松にちょっと似ているし、幹は杉にちょっと似ているけど、種類は一属一

 種なの。

 はい、どうぞ。」


杠さんは、お盆を持って入ってくると、お茶と和菓子も出してくれた。

「いただきます。」

「八月朔日ちゃんは最近引っ越していらしたの?」

「はい。といっても、引っ越してきたのは私だけで。

 母が亡くなったので、お父さんのところに。

 それで、苗字も今日から本間になります。」

「あら、ごめんなさいね。」


杠さんは申し訳なさそうにそう言った。


「本間さんというと、伸朋さんかしら?」

「はい、そうです。」

「あら、まだお若そうなのに、こんな奇麗なお子さんがいたなんて。

 目元が良く似ているわ。」

「あはは。お父さんは若そうに見えますが、あれでも38歳なんです。

 私は14歳の中学2年です。お知り合いでした?」

「えぇ、えぇ、知り合いも何も、危ないところを助けていただいてねぇ。

 あんまりテキパキしているものだから、てっきりお医者さんか、消防か、そう

 いったお仕事をされているのかと思ったら、コンピューターをなさってらっし

 ゃるとか。」

「そうだったんですか、うちのお父さんが。」

「玄関先でちょっと躓いてしまって、ちょうど塀の角に頭をぶつけちゃって、結

 構血が出ちゃってびっくりしたわ。

 ちょうどそこへ通りかかった本間さんが、手当と救急車を呼んでくれてねぇ。」

「大丈夫でした?」

「えぇ、えぇ。頭って切るといっぱい血が出るものなんですってねぇ。

 でも、レントゲンでも異常もなくて、今もこの通りぴんぴん」

「なんともなくて良かったです。」


いつのまにか毛づくろいを終えたたまちゃんが、また私の膝の上に載ってきた。

なでる前からゴロゴロ言ってる。


お茶と和菓子をいただきながら、ずいぶんまったりと話をしてしまった。

壁に掛けられた時計の針はもう3時になろうとしている。


「それじゃぁ、お茶とお菓子ごちそうさまでした。

 そろそろお父さんが帰ってくるので、失礼しますね。」

「はい、はい。またいつでもいらしてね。

 たまも八月朔日ちゃんがとっても大好きみたいだし。

 わたしも、こんな可愛らしい子とお話ができて、とっても楽しかったわ。」


杠さんに見送られて玄関を出ると、ちょうどお父さんが駅の方から歩いてくるの

が見えた。



  【13.梨桜とご近所さん】


 マンションの前まで来ると梨桜が向かいの杠さんの家から出てくるのが見えた。


ぺこりとあいさつした後、こちらを向いてパタパタと手を振ってくる。

「おかえりなさい、お父さん」

「うん。ただいま。」


「駅でたまちゃん見かけたんだよ。杠さんちの猫だったんだね。

 話をしながら一緒に帰ってきちゃった。

 なんか私、凄くなつかれちゃってさ、今まで中で世間話してたの。

 お茶とお菓子もごちそうになって。

 杠さんって、とっても素敵な人だね。」


「それはよかったね。そう、杠さんはとっても純日本的で立派な方だね。

 そっか、あの猫はたまちゃんっていうんだ。」


杠さんとは、小さな縁があってから親しくしている。

物腰も穏やかで、所作がとても美しい日本人女性の鏡といった感じの人だ。

他人の悪口を言うところなど聞いたことがないし、怒ったところも見たことがな

い。

だが、小中学生を家に上げたりもそうそうしないはずで

 (そんなところはここに来て7年一度も見たことがない)

駅から一緒に帰ってきただけの梨桜を家に上げてお茶まで出してくれたというこ

とは、とても気に入ってくれたということだろう。

自分でいうのもなんだが、梨桜は今どきの子にしては珍しいほど、とても礼儀作

法がしっかりしているし笑顔も可愛い。


なんにせよ、ご近所に好かれるということは得難いことだ。

引っ越すにしてもこのマンションの中での方ががいいかもしれない。

「それじゃ、行こうか。」

「うんっ!。」

梨桜と車に乗り込む。


パーキングを出て、今日の午前中はどうしていたのかなどと、たわいもない話を

していると、右側の路地からタイヤとブレーキを鳴らして車が飛び出してきた。

びっくりはしたが、取り立ててどうということもない。


ただ、その道はこちらからの一通だから『お前は逆走』だ。



  【14.お父さんと警察官】


『キキーッ!!』


右から車が飛び出してきた。私は凄くびっくりしたけど、

お父さんは特に慌てるでもなく、スッとブレーキを踏んで軽くかわす。

まるで来ることが分かっていたかのように。

本当にキレイというか、しなやかな運転だ。


「あぶないね!」


私が言うと、

「だね。まぁ、逆走して慌ててるところを見ると急ぎの用事でもあったんだろう

 ね。」

「お父さん、運転うまいね。プロみたい。」

「アハハ。免許を持っている時点でみんながプロなんだけどな。

 ただまぁ、俺らが若い頃は車というのがステータス性の高い時代でな、

 どういう運転が上手いとか、そういう話もよくしたもんだよ。」

「レーサーとかそういうのにあこがれてた?」

「レーサーの運転技能についての憧れはあったな。なりたかったわけじゃないけ

 ど。事故を起こさないためには、車と自分の限界性能を知っておくに越したこ

 とはないからね。

 だから、ジムカーナとか、走行会とかの自動車イベントにも出たことはある

 よ。」


「え?ジムカーナ?走行会?」

「うん。大きな駐車場を貸し切って、パイロンを立ててコースを作って、ミニレ

 ースみたいにタイムを競うんだ。それがジムカーナ。

 走行会っていうのは、サーキットを貸し切ってアマチュアを集めてタイムを競

 うというより、楽しむ感じかな。レースじゃないし。」


「パイロン?」

聞いたこともない単語が次々出てくる。


「あぁ。コーンって言ったほうが分かりやすい?工事現場によくある赤い三角の

 やつ。」


あ、あれか。『パイロン』って名前からなんか蛇みたいなものを想像した。

とぐろを巻いた大きなニシキヘビが、駐車場にいっぱい!


それをかいくぐりながらタイムを競うスポーツカーたち!


・・・シュールだ。


「へー、やっぱり車好きだったんだね。詳しいし、運転うまいと思ったもん。

 サーキットって、何キロまで出していいの?」

「公道じゃないから、際限なく出していいけど、日本の車は180㎞/hまでしか

 出ないね。そこで燃料カットが働くんだ。」

「へー、そうなんだ。そうだよね、高速だって100キロ制限だし、でも180

 キロってだけでも凄い!」


そんな話をしながら、銀杏並木の続く午後の通りを車は進んでいく。


と、前のほうで警察が棒を振っているのが目に入った。

車を一台一台止めて何か確認している。

交通取り締まりなのだろうか?


「すみません、一斉検問にご協力願います。免許書を拝見させてください。」


警察官がそういうと、お父さんは財布から免許書を出して、警察官へ渡す。

「はい。」

「ありがとうございます。お隣は娘さんですか?」

「えぇ、そうです。」

「ご協力ありがとうございます。結構です。」


警察官は、免許書を確認した後、お父さんと私、車内を見渡してそう告げた。


「関係ないかもしれませんが、不審車の情報をお伝えしても?」


お父さんがそう言ったので私はびっくりした。そんな車いただろうか?


「え?何かありましたか?」


警察官はすかさず手帳にメモを取る。

「この来た道を戻り、右折して15分ほど真っすぐ行った信濃小路の先に信濃駅

 がありますが、その手前信濃町5丁目の通りで、恵比寿小路を逆走して飛ばし

 てくる車がありました。急いでいるというより慌てている風で、車種は白の

 クラウン、ナンバーは*の****です。」


びっくりした。あの一瞬でナンバーまで覚えていたみたいだ。

しかも、説明が簡潔で分かりやすい、私でもわかるくらいに。


警察官は無線で今の情報を仲間に伝えているようだ。

「情報提供に感謝します。少し詳しくお聞きしたいのですが、いいですか?」

「ええ、短い時間なら構いません。」


幸い私たちの車は一番左の車線を走っていたので場所はそのまま、後ろの車は右

車線から流れるよう誘導している。


「大体の時間は解りますか?」

「今から10分ほど前です。」

「その車が慌てている風、というのはどういう点から?」

「その車は、狭い恵比寿小路から飛び出して広い信濃小路に入りましたが、また

 その先の狭い広小路に曲がっていくのが見えました。目的地がその小路の先に

 あるのかもしれませんが、周辺の道路事情を考えると違和感がありました。」


「それはどういった点でそう思われたのでしょう?」

「その車が使った二本の小路とも信濃小路にほとんど並行して走っています。

 なので、急ぐのなら信濃小路を進んだ方が早い。

 だから狭い恵比寿小路から出て、目的地も狭い広小路の先であろうということ

 になるのですが、であれば目的地は近くそんなに急ぐのはおかしい。

 事故でも起こしたら大変ですし、逆走もしていることから慌てているという印

 象を受けました。

 大通りの信濃小路にはカメラも至る所にありますし、そういう理由からかもし

 れないと感じました。」


お父さんの副業は凄腕の探偵だ!きっと。

「なるほど、ありがとうございます。同乗者はいましたか?」

「ええ、助手席に男性が一人、後ろにはいなかったように見えました。」

「ありがとうございます。」


警察官はまた無線でやり取りをしている。お父さんの名前や住所なども伝えてい

るようだ。


そしてほどなく、

「ご協力ありがとうございました。そのレコーダーは動いていますか?」

「ええ。なんでしたら今渡しましょうか?」

お父さんは、ドライブレコーダーをちょいちょいっと取り外すと警察官に手渡し

た。

「ありがとうございます。助かります。

        では、お気をつけて。」


「お待たせ、手間取ってごめん。時間は十分あると思って。」

「ううん。でもすごいね、あんな一瞬でナンバーとか、車の中とか、すれ違った

 後のことまで覚えてるなんて。」

「何気ない日常の中の、ちょっとした非日常だからね、そういう事に注意してお

 くと、事件や事故に巻き込まれる確率はぐんと低くなる。

 それから、交通取り締まりの一斉検問にしては雰囲気が違ったから、おそらく

 何かの事件があっての緊急配備による検問だろうし、一市民としてはできる協

 力はしないとね。」


「お父さんて、実は凄腕の探偵とか?」

「そうそう、SEは世を忍ぶ仮の姿なのだよ、梨桜君。」

「アハハ。」

改めて、うちのお父さんはかっこいいなぁ・・・と思った。


と、その時・・・


『ピリリリリリ...ピリリリリリ』


「お、早速か。ちょっと一旦止めるよ。」


そう言うと、お父さんは車をバス停の横に泊めてハザードを出した。

早速って、相手が誰だか分かってる?警察?


「もしもし、本間です。」

・・・・・

「おー、久しぶり、いやいや大したことじゃないしな、それに事件と関係がある

 かもわからんし、ただの情報だからさ。」


やっぱり警察のようだ。

お父さんの交友関係がとってもアヤシイ(笑)

二言三言話しをして電話を切ると、『お待たせ』といってお父さんは車を出した。


「知り合い?警察の人?」


私はニヤニヤしながらお父さんに聞いた。

「ああ。ちょうどウチの地区を管轄している南署の署長が同級生なんだよ。

 キャリアなんだけどね。上に上がりたくないらしく、いろいろ食って掛かった

 りしてあちこちの警察署長をして回っているという変わり種なんだ。」


上に上がりたくないって、警察署長って相当偉いのじゃないのかしら・・・

と私は思った。



  【15.そして親子に】


 市役所につき、梨桜とともに住民課を訪れる。

窓口で娘の認知と戸籍の異動について尋ねると用紙と書き方を説明してくれた。


どうやら、認知に娘の同意や確認といったことは必要ないらしい。


必要事項を書き込み、梨桜を手招きして、一緒に窓口に出す。


「「おねがいします。」」


・・・照れ臭かった。

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