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「姐さん。派手にやられたな」
駅前で買ってきたのだろうパイナップルとリンゴ、皮を剥いたグレープフルーツの串を持って李は病院に駆けつけた。
「本当に、そう。空手部にいた頃主将を寝取ってリンチされた時を思い出したわ」
李は冗談だと思ったらしく、小さく笑った。フルーツの串にかぶりつく。
「俺は無駄口が多いと言われるが、今回ばっかりは仕事の話だ」
「いいわ。話して」
「日本国親衛隊が暴発した。中華料理屋を襲ったらしいが、そこのオーナーも店主も完全に日本人だったんだ。奴ら、日本人も中国人も区別が付かないからな。日本国親衛隊の中でも混乱している。先走ったのは一部の過激派だが、コトは中枢まで及んでいる」
タチアナはリンゴの串を手に取って少しだけ囓った。リンゴに血が付いた。
「マフィアはかんかんだ。いつもの喧嘩とは訳が違う。監視カメラじゃ二十六人いて、嬢も大勢怪我した。逃げたやつら全員をバラすとまで言ってる」
「なんであの店が襲われたの?」
「姐さんが襲われたと言ってただろ。多分そいつか、呑龍の仕業だな。妙に声がでかい奴が跳ねっ返りの中にいたらしい。そういえば姐さんは俺に嘘をついてたな」
「……なんだっけ」
「姐さんはロシア人だろう。ロシア系クラブだったじゃないか」
タチアナは鼻で笑った。
「チェチェン人とロシア人の区別なんて、みんなつかないわよ」
「……まあいいや。それで、どうする」
「報復する。司令官は誰」
簡潔にタチアナは告げた。
「クラブの監視カメラで確認済みだ。マフィアの尾行も着いてる」
「私たちが手を下しても大丈夫?」
李が蛇のように笑った。
「むしろ、マフィアは俺たちに手を下して欲しいらしい。強い女だとアピール出来れば、あんたはあの店のスターになれる。マフィアも儲かる。ワンダーウーマンが抱ける店ってな」
「なるほどね」
「だが、時間が無い。跳ねっ返りがやらかしたせいで明日の朝には関東にはいないぜ」
タチアナはベッドから半身を起こした。
「言ったでしょ。代謝がいいのよ。腫れは引いた。色はどす黒いけど、動かせるわ」
「あんたに本気で惚れそうだぜ」
「出直して。あたしは韓国スターみたいな顔つきが好きなの。中年太りなんて論外」
入院着から私服にタチアナが着替える間、李はそっぽを向いていた。手持ち無沙汰にスマートフォンを手の中で弄んでいる。
「俺もそろそろ痩せるかな。コレステロール値がやばいんだ」
「いいんじゃない。スマホの画面を鏡にしてこっちを見るのはやめてね」
「日本人はそういうのを『センリガン』って言うんだぜ」
「その日本語、知ってるわ」
タチアナのポルシェに乗り込んで、車を走らせる。
「……誰だっけ。その司令官の人」
「馬場卓也、三十四歳、会社勤め、独身。ナショナリズムに目覚めたきっかけは分からないけどな」
「どうせ外国人は不当に優遇されてるとか、そんな感じでしょ」
タチアナは慣れた手つきでギアを切り替えた。「あるいは外国人の女に振られたか」
「その程度でそこまでいくか?」
「頭が緩くないとあんなことしない」
住宅街に乗り入れる。壁が薄い軽量鉄骨のアパートが多い。どこかで大学生が飲み会しているような喧噪が遠くに聞こえた。
「あたし一人にやらせて」
李は煙草を持って右手を一瞬、虚空に彷徨わせた。灰が太腿の上に落ちた。
「……大丈夫か? 病み上がりだし奴は……」
「大丈夫。あたしが死んだら、あなたの手で馬場を殺してね」
「そう言われて落ちない男はいねえよ。くそ」
けらけらとタチアナが笑った。
意外にも馬場の自宅は地味なアパートだった。ナショナリズムの権化の根城とは思えない。ここまで尾行して情報を流してくれたマフィアの男が乗ったセダンが見えて、運転手が軽く会釈をした。
「行ってくるわ」
「おう」
階段を上って、言われた通りの部屋に向かう。二〇三。チャイムを押して、努めて柔らかに微笑む。
「こんばんはー、レディバグ・ウーマンの者です」
適当なデリヘルの名前を言いながら、身体と顔をのぞき穴から隠す。
「なんだよ、忙しいんだ――」
タチアナは手を伸ばした。両手で馬場の顔を包み込むように指先で側頭部に触れ、親指で目を抉った。
ぎゃあと悲鳴を上げて顔を押さえ怯んだところで、タチアナは踏み込んで右ストレートを馬場の左胸に叩き付けた。ボクシングでいうハートブレイク・ショット。一時的な不整脈が生じて馬場が青い顔で膝を突く。
「かかってきなよ。男でしょ?」
馬場が唇を噛んで顔が赤くなった。雄叫びを上げて低い姿勢で突っ込んできた馬場に、瓦割りの要領で拳を落とす。馬場は地面に叩き付けられて鼻血を噴く。
タチアナの冷静な部分はどうやったらこの男に報いを与えられるか、考えていた。頭髪を掴んで持ち上げると、一見無害そうな大人しい顔が見えた。
おそらく日本国親衛隊の活動も、この男にとっては善意なのだろう。普段は一般企業に勤めて、中学高校時代はちゃんと勉強もして、まともにやってきたのだ。
そういう男が一番嫌うこと。
『一般』、『普通』、『常識』というレールを外れること。
タチアナはキッチンに置きっぱなしの包丁を取りに行った。高飛びの為か、ぱんぱんに膨れたスーツケースが居間に転がっている。包丁を見て這いずって逃げようとした馬場のふくらはぎの裏をハイヒールで踏み付ける。
まだ逃げようとしたので、サッカーボールのように頭を蹴り上げる。脳振盪を起こして虚ろな目になった馬場に、包丁を突きつける。
顎の付け根から、唇にかけて、ゆっくりと刃を動かした。痛みに馬場の表情が歪んでも、身体に力が入らないのだろう、抵抗らしい抵抗はなかった。七回ほど刃を動かして、浅く、深く、また浅く、また深くと、汚い傷跡を刻み込んだ。
「顔は……顔は、やめてくれ」
最後に一回、額に切っ先を叩き付けた。頭蓋骨に当たってかつんと乾いて手応えがした。
「報告でもファックでもどっちでもいい……そう言ったんだけど、そういえばあなたどっちをされたの?」