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ハイヒールの血液  作者: 相原
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 李は唐辛子がダメだと言って料理を半分以上残した。

 タチアナはミー・ゴレン(インドネシア風焼きそば)、李はナシ・ゴレン(インドネシア風チャーハン)。辛さはどうするかと聞かれて「インドカレーは好きなんだ」と言って同じ感覚で大辛にしたくせに――結局タチアナは李の分のナシ・ゴレンまで食べた。

「姐さんはよく食うな。女の割には食いしん坊だ」

「昔から言われるの。代謝が良すぎるって。キックボクシングの時も痩せすぎて階級が軽かったから。最近はちゃんと食べてる。肉付きが良い方がもてるから」

「それだけ食ってあんたは痩せてるのに、なんでなんで俺が太ってるんだろうなあ……」

 李はビール腹をぴしゃりとTシャツの上から叩いた。「まあ、それはいい」

 スマートフォンを抜いて、李はテーブルの上に置いた。

「呑龍が襲撃されたとさ。日本人以外の犯行だと。警察でもないくせに言いたい放題言ってやがる。あいつら、中華マフィアにいくら払うことになるんだろうな」

「興味ないわ。そろそろ店が開くから、帰って良い?」

「そう言うなよ。祝勝会といこうぜ」

「身体目当てでしょ」

「そうじゃなかったら、なんなんだ? 俺がゲイだったら満足か?」

「まさか、あたしを狙ってるなら、ご飯のお金くらいは払ってくれるよねってことよ」

 タチアナは立ち上がって椅子を戻した。呆れたように李は首を横に振った。

「あんた、そういうのを日本語で『セイカクブス』っていうんだぜ」

「そんな日本語知らないわ」


 ロシア系クラブでタチアナは働いている。

 日本人の男の酒を勧め、胸を押しつけ、おだてて、褒める。男の習性はどこの国に行っても変わらないと他の嬢から聞いたが、日本人は特に褒められると喜ぶのだという。タチアナは日本生まれだから分からないけれど、『スゴイデスネ』は風俗を始めたばかりの頃からしょっちゅう使っていた。

 基本は出来高制だ。高い酒をたくさん飲ませる。酒が弱い男に気を遣ってピッチャーを勧めるのはもっと飲ませるためだ。

 アルコールには媚薬のような作用があるという。しかし飲み過ぎると逆効果になる。タチアナはこの通説を信じていない。性欲があるうちは飲めて、性欲がなくなると飲めない。順序が逆なのだ。客は心配してタチアナが胸を押しつけて覗き込んでやったりすると『大丈夫、大丈夫、酔ってない』とまた飲んでくれる。タチアナは心の底から(酒を飲んでくれて)嬉しいから笑う。客はもっと飲む。

 風俗はチームプレーだ。話を振る役、心配する役、飲ませる役。それらが凄まじい勢いで開店する。頭を使う。男が煙草を取り出せばアドリブで火を付けてやったりもするし、吐きそうな時はトイレまで連れて行って背中をさすってやる。『オモテナシ』の精神だ。

 ロビーの方が騒がしい。団体客が暴れ出したか何かだろう。タチアナはそう思った。そのうちマフィアの連中が飛んでくる。

 ボーイ達の包囲網を突き破ったのが見えて、タチアナは異変に気づいた。咄嗟にテーブルの上の堅いショットグラスを掴む。

「俺たちは日本人だ。ここは日本だ。日本人の国だ。国に帰れ」

 嬢たちが目を見開いた。今までの嬢や関係者への襲撃は帰り道の深夜や朝方だった。ここまで強健な態度を示すとは日本国親衛隊も思い切ったことをした――タチアナ以外は他人事だった。

 真っ先に包囲網から飛び出した一人が生卵を嬢に投げつけた。ベルトに挟んでいた角材を振り回し、テーブル上のグラスをたたき割っていく。

 数人の酔っ払いが嬢を守ろうと立ち上がったが、人数の差に押しつぶされた。軽く二十人はいるだろう。全員鈍器で武装している。

 狙っているのは――あたし? タチアナは自問する。いや、呑龍なんて下っ端の筈だ。どうしてこんな思い切った行動に出た?

 男達――いや、女も混じっている。ボーイの制止を突き破った男に、タチアナはショットグラスを投げつけた。とにかく、他の嬢を守らなくてはいけない。タチアナのようにやむなく嬢になった女もいれば、近所の大学の留学生だった混じっているのだ。

 雄叫びを上げて突っ込んでくる男に、カウンターのタイミングで前蹴りを合わせる。吐き戻した胃液を胸に浴びた。前蹴りでは完全に勢いは止まらず、そのまま勢いのままに押し倒される。

 素早く立ち上がろうとしたところで、タチアナが反撃したことにバレた。振り下ろされた角材を腕を十字にして守る。ボクシングのクロスアームブロックだ。痺れるようにいたい。両腕で分散させなかったら折れていたかも知れない。

 何とか立ち上がったところで大男に両肩を捕まれた。タチアナは迷わず鍛えた指先で目を突き、肘を振るう。

 圧倒的な体重差。目を真っ赤に充血させて、大男は膝蹴りでタチアナの細い身体を打ちまくった。短い丈のワンピース越しに臓腑が揺れる。苦しい。息が出来ない。身体が自然に丸まる。

 うずくまったところで腹を蹴り上げられる。でたらめに背中を殴る拳。白く、長い美しい髪を乱暴に引っ張る。引き寄せられたところで後頭部を木製バットで殴られる。頭がふらふらする。キックボクシングをやっていた頃側頭を殴られすぎた時のような感覚。

 倒れ伏した後はひたすらに足蹴にされる。痛みより屈辱が勝った。臭い革靴と腐ったスニーカーばかりが視界に映る。

 こいつらが求めているのは女じゃない。暴力だ。タチアナはようやく気づく。コミュニケーションの方法が、暴力と悪意しか知らない人間なのだ――

 ――ひょっとしたらそれがマジョリティなのかもしれない。

 女がタチアナの耳元で何か叫んだ。知らない日本語だが、少なくとも侮蔑の言葉だと分かった。

 どれくらいの間殴られていたか分からない。笛のような音が鳴ったと思ったら、一斉に日本国親衛隊の男女が一斉に駆け出す。顔を上げると大型バン四台に飛び乗って、ふかしすぎたエンジン音とともに遠ざかっていくところだった。

 呆然とした。何も、出来なかった。

 今更になって体中が熱くなってくる。顔が濡れて泣いているのかと思って触れてみたら、ただの血だった。額が切れていた。

 こんな時に泣けない自分が悲しかった。報復の手段を練り始めた自分の冷静な頭が憎い。

 ――こういうときに思い切り泣けたら、私が流す血も、私のせいで流れる血も、もっと少なくなるのにな。



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