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ハイヒールの血液  作者: 相原
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 タチアナが思うに、ハイヒールは筋トレ用具だ。

 タチアナが学んだ格闘技の中で踵を地面にべったりつける格闘技はなかった。ハイヒールを履き、重心は気持ち前に掛ける。やや前掲でつま先に力を入れると背筋が伸びる。慣れれば背筋も鍛えられる。あとはプランクで体幹を鍛える。これで完璧だ。あとはバランス感覚さえあれば、ハイヒールの細い踵は槍のように使える。

 件の中華バーで、飲みながら襲撃を待っていた。仕事前にアルコールを入れられるのは便利屋の特権だ。

「この店は初めてかい」

「まあね」

「どうだ? 姐さん的には、この店」

「動物園で飲んでいるのと変わらないわ」

 李が鼻で笑って、タチアナの持ったウイスキーグラスの琥珀色の水面を覗き込んだ。

「姐さん、そんな強い酒飲んで、大丈夫なのか」

「大丈夫よ。慣れてるし、ウイスキーの酔い方はそんなに気分悪くならない」

「そういう意味で言ったんじゃ無いんだが……」

「高校の頃、キックボクシング部だったの。合宿に酒を持ち込んで、徹夜で飲んで、そのまま練習なんてザラだったわ」

 李は呆れたように目を細めた。「いかれてんな」

「あなたもお酒は飲むでしょう」

「そりゃな。だけどウイスキーは苦手だ。紹興酒は臭い。焼酎は酔う。ウォッカやジンはきつすぎる。ワインはブドウがダメなんだ。日本酒やマッコリは辛い」

「今飲んでるビールはどうなの?」

「苦い」

「意外に好き嫌いが多いのね」

「鶏の脳みそは食えるぜ」

「どんな味がするの?」

「魚の(ハラワタ)の味がする」

 下らない話をしながらたちまち煙草を三本灰にする。頭が冴えてきたら負けだ。金にもならないのに好きでもない男と飲む。タチアナの哲学では考えられない。

 ドアが破られるような勢いで開いた。すぐに日本語のスピーカー越しの怒号が飛んでくる。

『日本からー、出て行けー』

「出て行けー」

『日本人の土地を、汚すなー』

「汚すなー」

 たった三人のシュプレヒコール。全員目出し帽。アメリカだったら射殺されても文句は言えないのに、この日本ではそういうことが平気でできる人間がいる。この小さな日本の異物として暮らすタチアナは世界の広さを皮肉にも知ってしまった。中国人の客や、コロンビア人娼婦を口説いていた日本人が嫌な顔をする。すぐにバーの日本人通訳が飛び出してきた。

「お客様、困ります。この店は」

「やかましい。お前は日本人のくせにシナ人の味方をするのか」

 スピーカーを口から離して、先頭の長身の男が喚いた。日本の警察は現行犯逮捕しなければ、暴行などの軽犯罪を起こしても、書類仕事で終わってしまう。舐めきった態度だった。

「お前もシナか、いやチョンかもしれない」

 二人目の紺色の目出し帽が唾を飛ばして決めつけるように叫んだ。いかれたヘアスタイルをしている。男のくせに長い髪を結んでポニーテールにして後ろに流していた。

 最後の一人は威嚇するように木製のバットで掌を叩く。目と口の開口部に赤の縁取り。一番体格が良くて、太っている。

 長身が凄まじく汚い音で喉を鳴らして、日本人に痰を吐きかけた。

「まだ?」

「まだだぜ」

 ポニーテールが日本人の胸ぐらを掴む。「パクりしかできない無能が、肉は何を使ってる、犬の肉だろう、酒は無水エタノールか」

「ぶっちゃけ、無水エタノールは飲めるんだぜ。ライムと炭酸水で割るんだ。犬の肉は臭みを抜けばイケる。ジビエみたいなもんだ」

 李が囁いた。

「あなたって好き嫌いが多いのか馬鹿舌なのかどっちなの?」

 日本人通訳を突き飛ばして、バットの男が腹の辺りに振り下ろした。踏み潰された蛙のような声を上げて通訳の男がえずく。

「まだ?」

「いいんじゃないか?」

 タチアナが反撃しようと立ち上がったところで、長身の男がタチアナを指さした――あたし?

「露助、お前はいくらで売ってるんだ」

 こういう時気の利いた一言を言えるようになりたい。とりあえずタチアナは本当の事を告げた。

「オプション全部盛りで六万」

 男たちがあっけにとられたように硬直した。よく分からないが、チャンスだ。

 タチアナは鋭く脚を引いて左半身になりつつ、膝を抱え込み打ち出す強烈な横蹴りを男の腹の中心に見舞った。尖った踵が腹にめり込んで、押し出されるように消化しかけの焼きそばが吹き出してくる。タチアナはすぐに脚を引いて、身体を折ったところで肘打ちを側頭部に当てる。

 悲鳴があがる。人が一斉に動き出す。店員が電話に飛びつく。

 李がポニーテールに躍りかかった。中段を狙った正拳突きをポニーテールは身体を捻ってなんとか回避。追い打ちをかけるようにして中段蹴り。

 奇声を上げてデブが木製バットを振り回した。タチアナは無理せずさっきまで自分が座っていた一本足のストゥールを引っこ抜いて武器にする。バットを受ける。鈍い音と共にバットが弾かれる。

 そのまま相手の攻撃を受けて、袈裟に振り下ろしたバットにストゥールの足を絡める。鍔迫り合いのようになったところで、タチアナは下段蹴り。膝関節に踵を突き刺す。

 一瞬力が抜けて前のめりになったので渾身の力でストゥールを男の頭に叩き付けた。額を切って血を流す。

 当たり所はあまりよくなかった。衝撃でバットを取り落として、それでもタチアナがそのまま手に持ったストゥールにつかみかかってくる。目が血走っていた。

 タチアナはぱっとストゥールから手を放す。肩透かしを食らったように一瞬混乱した男に抱きつくほどの近距離まで踏み込み、相手の頭をつかんだ。そのまま首相撲の体勢に持って行く。つまり、相手の頭をつかんで身体の前に抱え込む。

 身体のバネを使って次々膝蹴りを当てていく。顔面、脇腹、頬、鳩尾。六発目で男は戦意を失った。放り投げると激しくむせて折れた前歯を血と一緒に吐く。

 李の方は一本背負いで投げてポニーテールを地面に叩き付けたところだった。そのまま腕十字固めを決めて片腕を折り、顔面にサッカーボールキック。

 店の前まで騒動が知れ渡っているようだった。日本国親衛隊の三人が倒されてようやく客が外に逃げ出した。その流れに従ってタチアナと李は逃げる。

「やっぱり中国人ってカンフーやってるの?」

 不満げに李が答えた。

「住民全員がカンフーやってんのは香港島の連中。俺は北京生まれだ。都会なんだよ、一緒にすんな!」

「そういえば、この後は?」

「あそこは中華マフィアのシマだ。後で俺たちに謝礼が来る」

「ちょっとやり忘れたことがあるんだけど」

 李が慌てた。

「どうした」

「インドネシア料理屋でミー・ゴレンを食べるのを忘れたわ。さっき長身の男が吐いた焼きそばのゲロを吐いた男を見て思い出したの。ずっと食べようと思ってたのに、話してて忘れちゃった」

「……」

「どうせ暇でしょ。食べに行きましょう」



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