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誰かが付いてきている気配がした。自然な素振りでタチアナは自分の地毛の白いロングヘアを書き上げる仕草と一緒に確認した。
タチアナは繁華街の夜道を歩きながら、手に持っていた黒皮のハンドバッグをたすき掛けにした。中には化粧品と煙草だけ。失っても痛くはないが、ハンドバッグは夜の店の客がくれたブランド品だ。クロコダイルのロゴが付いている。
水商売用のワンピースの丈はひどく短い。横道に逸れたとき、急速に足音が近づいてくるのが分かった。
タチアナは一番に、その短いスカートを腰の位置までたくし上げた。ほどよく肉の付いたコーカソイド特有の臀部が露になる。
振り回しやすくなった両脚。タチアナは振り返りざまに、一瞬で相手との間合いを計る。日本の武道はこういうとき便利だ。畳一畳分。後二歩で間合いに入ると格闘技で培った本能が告げる。
襲いかかった日本人の男は些か面食らっていた。タチアナのワインレッドのショーツに目を惹き付けられて、振り上げた特殊警棒は虚空を彷徨ってからやや袈裟に振り下ろされる。
タチアナはハイヒールのまま一歩迎えに行くように踏み込んだ。タチアナの華奢な二の腕が男の肩に触れて、特殊警棒を一瞬だけ無力化する。その一瞬で十分だ。タチアナはムエタイ風の内側に絞るような左の膝蹴りを男の脇腹にねじ込んだ。
膝を曲げた時に出来る、内側の盛り上がる部分。一説では頭蓋骨に比肩するほど堅いと言われる部位。そこを使って抉るように蹴る。男は汚ならしい呻きを上げて身体を折る。
タチアナの二撃目は平手打ち。狙うのは耳だ。甲高い音と共に急速な圧力が生じて男の鼓膜が破れ、一瞬平衡感覚を失う。だらりと手が垂れ下がって、ガードが落ちる。
ハイヒールの底が軋んだ。タチアナは急速に腰を回転させ、やや伸び上がり振り上げるような回し蹴りを男の脇腹に見舞った。使うのは堅いハイヒールのつま先、切っ先だ。タチアナのハイヒールはつま先が硬くなっている。使いようによってはスエードの外見からは想像出来ないほどの殺傷力を発揮する。
呼吸困難で男が倒れ伏す。瞳孔が収縮したり、散大したり。
「……貴様」
男が呻いた。「ふざけるなよ。ここは日本だ……日本人の国だ……本部に報告するぞ」
「報告でもファックでも、好きにしなさいな」
タチアナは皮肉っぽく、投げキッスを送ってやった。
便利屋として組む新しい相棒とのミーティングは昼前だった。タチアナは便利屋兼風俗嬢だから、あまり気が合わないことが多いのだ。少し不安なまま旧型のポルシェを走らせて駐車場に乗り入れ、どうやら先に着いたらしいと気づいたタチアナは先に店に入る。インドネシア料理屋。特産だという香りの良いコーヒーをすすっていた。
店の前に車が停まる。店の中を覗き込んでいるのは派手な赤いジャージの男。タチアナを見て、そのアジア風の風貌が笑った。車は田舎の金持ちが見栄を張って乗るような旧い旧い、シルバーのセンチュリーだった。
「よう、あんたが俺の新しい相棒?」
「そういうことになるわね。便利屋仲間として、よろしくね」
一見すると日本人にも見えるが、妙にファッションセンスが派手だ。赤いジャージに金の刺繍、その下のTシャツは黒と緑のサイケな柄。下はだぼだぼの太いジーンズ。身長が低く、中年で太っているから、あまりジーンズは似合っていなかった。
「ASL?」
「うん?」
「エイジ、セックス、ロケーション」
タチアナは白い地毛のロングヘアを揺らして少しだけ笑った。まるでインターネット上の口説き文句だ
「二十五、女性、東池袋」
「いいね。俺は三九、男性、巣鴨」
「肝心の名前は?」
「李、でいい。日本人は姓で相手を呼ぶからな」
「……私は、タチアナ」
李は小さく笑った。「訳ありだな。源氏名か?」
「そう。本名はスリーサイズの次に大切な秘密」
タチアナは唇に指先を当てる。
「たいした姐さんだ。綺麗だし、強そう」
李はカットソーから覗くタチアナの二の腕を見た。格闘技経験者、あるいはまだやっている人間特有の筋肉の張り。指先の固さ。それから骨張った手の第三関節。
体重差で考えた時に、一つの階級の中の格闘家は二種類に分けられる。インファイタータイプの低身長筋肉達磨か、高身長の細い身体か。タチアナは軽量級の中では後者で、ある程度のインファイトもこなせる。つまり肘と膝、フックの扱い。
「で、仕事の話は?」
「ああ、口説く時間もくれねえのか」
「高く付くわよ、あたしは」
李は苦笑してから、切り出した。
「日本国親衛隊は徹底的に海外系の風俗を潰すつもりだ。日本人の遺伝子を汚染する異端分子とか、なんとか。今朝言いたい放題の声明を出したが、お前は見たか?」
タチアナは首を横に振った。
「ヘイトスピーチ団体の話なんて、聞くだけ無駄」
「まあ、それはそうだな」
太ったウエイトレスが注文を取りに来て、李はアイスティーを注文する。煙草の箱を持ち上げて見せるとウエイトレスは不慣れな日本語で愛想良く『どうぞー』と言って灰皿を持ってきてくれた。
「昨日だけでもブルガリア系、ルーマニア系、中国系が襲われてる」
「そう。私も襲われたから、チェチェン系を追加しておいて」
少しだけ好色さを含んで、李が言った。「姐さんはチェチェン人なのか」
「まあ、日本人にはロシア人とチェチェン人の区別なんて付かないけどね」
少しだけ嘘をついた。働いているのはロシア系だ。タチアナの父親はチェチェン人、母親は日本人だ。父親と話すときはロシア語、母親と話すときは英語、学校では日本語を話していた。お前はトライリンガルになるんだ――そうタチアナは期待されて育ったが、離婚するとあっさりタチアナのことを両親は捨てた。身体を売り、たまに身ぐるみを剥がされ、警察に絡まれ――そうして生きてきた。
「ところで、中国系が襲われたならあなたはそっちの筋から派遣されたの?」
「いいや。俺のところはブルガリア系の用心棒だ」
にやりと李は笑った。顎髭が伸びているから、気障な表情がよく似合う。
「わかるだろ、中国人なんて世界中どこにでもいる」
「あなた、変わってる。普通別の国に行くとなんとなく緩いナショナリズムに目覚めるのに」
「その例外が、日本国親衛隊だろ。日本の大多数の日本人であることに過剰な自信を持っている」
「あなたの話をしてるのよ」
李はコーヒーを一口すすって、苦い顔をした。口に合わなかったらしい。煙草に火を付ける。
「生まれは中国だが、、育ちはシンガポールだ。親が心理学者でね。俺を学者にさせたかったらしい」
李はコーヒーにミルクを投入。「だが、幼い頃の俺は軽く知的な障害があったらしい。発達に遅れがあった。今じゃ勉強したおかげでそこそこ頭が回るようになったが、親はあっさり俺を切り捨てた。迷わず一人っ子政策の罰金を払って妹を拵えて、英才教育。俺は虐待まがいの目に遭ってね。見ていられないとシンガポールで暮らす華僑の親戚が引き取ってくれた。今じゃスジモンみたいなもんだけどな」
「やっぱり貴方は変わってる。あたしのことそういう目で見てるくせに、自分の弱さを語るなんて」
「姐さんは日本人が言うところの『ノーチャンス』だ」
ずいぶんスラングに詳しい中国人もいるものだと感心した。タチアナは夜の仕事でそういう言葉を仕入れているが、そうでなかったら知らない日本語だろう。
「だが、油断するなよ。何故中国人が十四億人もいると思う?」
「さあ」
「世界一セックスが好きな民族だからさ」
「傑作。で、仕事の話は?」
甘い甘いコーヒーを李は口に含んだ。「悪いな、俺は無駄口が多いんだ」
前置きしてから、李。
「日本国親衛隊を襲う。目出し帽を被って二十四時間営業の中華バーで暴れてる奴がいる。日本人だからと警察も動いてくれない。警察が来ても『まあまあまあまあ』ともみ合いをするばかりで賠償も無しだ。なんでも日本とアメリカは世界の差別大国ツートップらしいな」
「無駄口」
「分かったよ、分かった」
冷めてきたコーヒーを半分ほどタチアナは飲んだ。自分の分の煙草に火を付ける。夜の店では吸えない分を、昼間吸うのだ。
「日本国親衛隊第六遊撃隊『呑龍』を名乗っている。呑龍なんていっても、三人組なんだけどな」
「やっぱりドラゴンなら火を吐くのかしら」
「残念。唾と痰だけだ。あんたがゲロを吐かせてやってくれ」