九噺「理由なんて適当に付ければいい」
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「『唇』、『砂糖』、『後ろ姿』」
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踏切で起こった事件から数日。
今日は金曜日。
隣の席に居る淑と噺はあれ以来一度も喋っていなかった。
…否、喋っていかなかったと言う言葉には語弊がある。
彼が喋りかけても、彼女が反応しないのだ。
聞こえていないのではなく、聞こうとしていない。
きっと、今すぐにでも半年前の自分に戻れたら……
そう思ったが、どうやっても戻ることが出来ない。
慣れと言うものは恐ろしく、ちょっとやそっとじゃ何も変わらない。
…何か劇的な変化がなければ。
「……はぁ。」
「兄さん?ため息なんてどうしたの?」
「……いやぁ、自分を変えるって中々難しいなぁって。誠袈に言った言葉が馬鹿みたいだよ。…なりたい自分になるのが、こんなにも難しいなんて。」
そこに普段の朗らかな笑顔はなく、自嘲気味に笑う噺の──兄の姿があった。
それは、誠袈にとって到底見ていられるものではなかった。
…兄がいつも正しい人だと分かっていた。
自分がどんなに落ち込んでいても、絶対にその手を離さず導いてくれる。
名も知らぬ誰かの為に全力になることが出来る。
それが兄である噺の美点であり……汚点でもあった。
いつも見るのは後ろ姿ばかりだった。
前に立って導いてくれる、そんな兄の後ろ姿が大好きで──大嫌いだった。
大好きなのは兄の後ろ姿で、大嫌いだったのは後ろ姿しか見えない自分。
でも、今は違う。
少しだけ成長出来た。
今だったら後ろから背中を叩くのではなく、隣で手を繋いで歩くことが出来る。
それくらいには──
(私は強くなれたから……。落ち着いて、私の心。今は、今だけは、この感情なしで、ただの妹である浅井誠袈として──)
噺の手を繋ぎたい。
「…私知ってるよ。兄さんの後輩さんのお話し。」
「話した事、なかった気がするんだけどな〜。」
「話さなくても分かるよ。クリスマスの辺りから、目に見えて元気がなかったから。……兄さんがどんな気持ちで、私やお母さんたちに接していたかなんて分からないよ?でもね……今、兄さんが苦しんでるのは分かる。」
「お説教?」
「違うよ……。私は導いてもらってばかりだったから。今度は私が兄さんを導いて──ううん。助けてあげたい。」
導いてたのは兄としての役目だったからやったのだ。
それ以外にも、純粋に誠袈を助けたかったから……
そう言おうとして、ナニカが喉に突っかかった。
(……あと少しで、あと少しで……答えが出そうなんだ。)
昔のように純度一〇〇%の善意じゃ足りない。
真剣に誰かを助けたいと思うだけでは、淑を納得させられない。
……ナニカ、それが分かればきっと──
(答えが出せる!)
自分を犠牲にする善意ではなく、自分を感じさせない善意でもない。
「……何で、誠袈は僕を助けたいって思ったの?」
「兄さんのことが好きだから。理由なんでこれだけで十分ですよ。」
噺の笑い方を真似て、朗らかな笑顔を作る。
……それを見た彼はクスリと笑った。
(そっか、僕は忘れてたんだ。助けたい理由何てどうでもよかったんだ。僕は──)
一〇〇%の善意で助けた後に見られる、誰かの笑顔が好きだったのだ。
理由なんて適当に付ければいい。
助けられた誰かの笑顔が──堪らなく大好きだったのだ。
瞳から涙が零れて、唇が震える。
お礼の言葉が言えない。
誠袈の好きだから助ける、と言う理由に気付かされた。
少年も昔から、助けられた誰かの笑顔が大好きだから、人助けをしていたのだ。
「ホンットに、僕は馬鹿だ。」
「はい、兄さんは馬鹿です。……でも、私はそんな兄さんが大好きです。」
「妹に慰められるとか…兄失格だな。……ありがとう、お昼休みなのに。」
「別にやりたくてやっただけですから。お礼なんていりませんよ。」
少年が数日かけて出せなかった答えを、たった一人の妹が教えてくれた。
学校じゃなかったら、抱きしめてやりたいぐらいだ。
だが、そんな気持ちを抑えて、その場を後にする。
…学校の屋上というものは、人が来なくて便利だと噺は初めて知った。
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「清水さん。一緒に帰らない?」
「……分かりました。下駄箱で待ってて下さい。私は掃除がありますので。」
「りょ〜かい。」
間延びした言葉を残して教室を出る。
すれ違い様に会う人の何人かには挨拶をする。
……この学校には、彼に助けられた人が大勢いる。
些細なことから、重大な事件まで。
噺は案外にも、この学校の有名人だったりするのだ。
下駄箱で淑を待つこと十数分。
到着した淑を連れて、前回行けなかった駄菓子屋を目指した。
その間に、彼はある話をした。
…トラウマと言っても過言ではない後輩の話だ。
それを彼女に漏れなく話した。
相槌が続く中……問題の踏切に着いた。
「ここが……。」
「そっ、ここ。ここで、事件が起きた。……多分、僕が初めて助けられなかった人。本当に嘘が上手い子だった。あそこまで自然に嘘が付けると、逆に感心するよ。」
「浅井くん、聞いていいですか?…答えは出たんですよね?」
「僕が人助けをする理由、ようやく思い出したよ。助けられた誰かの笑顔が大好きだから、僕の理由はそれだったんだ。」
その理由を聞いて、淑ら呆れたように笑った。
けれど、彼のことを馬鹿にする感じはない。
「でも、人助けは自分の命を捨てていい理由にはなりませんからね?」
「そこら辺はちゃんと理解したよ。……そうだ!この前のお礼も兼ねて、土曜日にどこか遊びに行かない?」
「遊びにですか?…別にいいですけど。勉強の方は──」
「大丈夫!清水さんに言われたことはしっかりやってるし、応用問題も解けるようになってきたから!」
子供のように笑う噺を見て、淑はまた笑う。
崩壊の兆しは何処え……
今の彼らは砂糖を吐きたくなる程の、甘く緩い雰囲気を出していた。
駄菓子屋からの帰り道、彼は踏切の隅にそっとキャラメルを置いた。
……よく光が食べているのを知っていたから。
その日は少しだけ、砂糖をいつもより甘く感じた。
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