始まりの街。
アカリは大量の世界樹の実が入った総重量百キロ超えのキャリーバッグを軽々と引っ張りながら、世界樹の周囲を歩く。
すると突然、足元が柔らかい苔の土から灰色の石畳に変化した。
驚いて顔を上げると、目の前にそびえ立っていた世界樹がこつぜんと消え、広い平原の中を真っ直ぐ伸びる石畳の街道が現れる。
道の遙か彼方にうっすらと見える背の高い建物は、きっと始まりの街の教会だ。
エリア切り替わったという事は、もう世界樹のある場所には戻れない。
「沖縄でバカンス予定が異世界バカンスになったけど、これはこれで面白そう」
脱社畜の開放感とポジティブな性格のアカリは お気に入りのゲームに似た世界を楽しもうと思った。
***
少し足早でガラガラとキャリーバッグを引きずりながら、アカリは道の左右に白樺に似た木が植えられた街道を歩きだす。
「始まりの街の教会の神官なら、私がこの世界に来た原因を知っているはず」
しばらく歩いていると、大きなカゴを背負った中年の農夫が道の端で休んでいるのが見えた。
「いよいよ初村人と遭遇、挨拶をして情報交換ね。こんにちは村人さん」
アカリはぎこちない笑顔で農夫に声をかけるが、相手はちらりと一瞥しただけで興味なさそうな顔で立ち上がると、アカリを無視して歩き去った。
NPCならプレイヤーが話しかければ挨拶を返してくれるのに、ゲームの時と態度が違う。
「もしかしてこれって、見ず知らずの怪しい女に声をかけられたパターン?」
恥ずかしくなったアカリは、急いでその場を通り過ぎようとした、その時。
ドコンッ!!
突然背後からなにかがアカリに勢いよくぶつかってきて、前方に1メートル吹き飛ばされ、石畳の地面に顔面から落ちる。
「ぎゃあっ、急に突き飛ばされたっ。あれはいったい」
突っ伏した地面から顔を上げると、大きな水の塊がゴムボールのように弾みながら通り過ぎる。
そして街道の前方から、人々の慌てふためく声が聞こえた。
「逃げろぉ、水スライムだ!!」
「無理に攻撃するな。水スライムを潰したら、積み荷が水浸しになる」
「誰か、聖水を持ってないか」
あれはゲーム序盤に出てくるモンスターのスライム。
でもゲームのスライムはナメクジみたいな形だけど、今見たスライムはまるで水の塊だ。
「あのスライム、何かによく似て美味しそう。そうだ思い出した、水信玄餅!!」
水のように透明でほのかに甘い信玄餅に、香ばしく煎ったきな粉と黒蜜をかけて食べるととても美味しい。などとアカリは不謹慎なことを考えてしまった。
街道の先から水信玄餅スライムとバトルする数人の騒ぎ声が聞こえ、やがて静かになり、アカリは恐る恐るその場に近づいた。
水信玄餅スライムの姿は無く、道の中央が大きくへこんで、中に水が溜まっている。
腰に剣を下げた男たちが、全身びしょ濡れの状態で荒い息をつきながら道の脇に座り込んでいた。
アカリは声をかけたら悪いと思い、そそくさと男達の前を通り過ぎる。
それから一時間ほど歩き街道を歩く人の数は増えるが、ゲームのNPCと違い誰もアカリに話しかけたりしない。
こっちの世界の人々はアカリより少し色が白く、半数が黒髪で他に赤やオレンジや紫の髪、服装はパーカーにジーンズ姿のアカリと大して変わらない。
この時アカリは世界樹から始まりの街まで、徒歩一日はかかる距離をわずか二時間で歩く。
目の前を瞬く間に通り過ぎるアカリに、街道の人々は誰ひとり声をかけることができなかった。
始まりの街への道中、キャリーバッグの車輪が石畳の割れ目に挟まるアクシデントに見舞われたが、やっと目的地の全容が見えた。
「ゲームと全く同じ、赤いレンガが高く積まれた塀で囲まれた始まりの街だ」
立ち止まったアカリの背後からひずめの音が聞こえ、艶やかな栗毛の馬に乗った甲冑姿の騎士が真横を通り過ぎる。
よく見ると馬では無く、上半身は甲冑を着た人間、下半身は馬のケンタウロスだ。
ケンタウロスが走り去った直後、始まりの町の中心にそびえ立つ教会の鐘が鳴り響き、それを聞いた周囲の人々が小走りになる。
擁壁で囲まれた始まりの街は、モンスターの襲来を防ぐために夜には門が閉まる。
アカリも重いキャリーケースを引きずりながら、慌てて走りだす。
本人は小走りのつもりだが、車輪のついた黒い箱を引きながら猛スピードで人々を追い抜く姿は、とても悪目立ちして周囲の注目を集めていた。
大きな赤レンガが四階建てアパートの高さまで積まれた始まりの街の壁は、頑丈そうな黒い金属の扉の前に槍を構えた二人の門兵が立ち、中に入る人物をチェックしていた。
大きなスーツケースを抱えたアカリを、何故か門兵達は警戒する。
「そこのお前、見かけない顔だ。どこから来た、身分証と通行料を出せ」
この会話はゲームと同じなので、テンプレの返答をすれば良い。
「私は教会に用があって来ました。通行料の代わりに、コレを差し上げます」
アカリは世界樹の実を渡すと、いかつい顔をした門兵が「おおっ、これは」と驚きの声をあげる。
そして態度が百八十度変わると、アカリに親し気な笑みを浮かべながら話しかけてきた。
「これはどうも失礼しました。教会の信者なら遠慮無く街へお入りください。俺が教会まで案内しましょう」
「ありがとうございます。ここから見える、あの高い塔が教会ですね。自分で行けるので大丈夫です」
「そうか、兄さん、この街で楽しんでくれ」
アカリは門兵に愛想笑いを返して、始まりの街に入ってゆく。
「兄さんって、久しぶりに男に間違われた」
170センチ近い長身でスレンダーなアカリは、ショートヘアだった学生時代はよく男子に間違えられ、ついでに女子にもてた。
社会人になって髪を伸ばし化粧をして、さすがに男に間違われなくなったが、この世界は普通に長髪の男を見かける。
朝急いで家を出て化粧もしてないし、黒のジーンズに迷彩柄のパーカーを着たアカリは、男に間違われても仕方ないかもしれない。
「そういえばこの世界の女性って、ロングスカートか、超ミニスカね」
アカリは街の中心へと伸びる大通りを歩く。
道の左右には商店と屋台が並び、ふと目にとまった綺麗な青い服が飾られた店を覗くと、汚れた服のせいで店番の女の子に追い払われた。
あれ、今の店員、左右の髪の毛が盛り上がっていたけど、もしかして猫耳?
側の屋台では、料理人が吊した巨大肉をナイフで切り落とし、鉄板の上で肉が踊るように焼かれている。
アカリは朝早く家を出て、寝ている間に異世界につれて来られ、世界樹からここまで数時間歩きっぱなしだ。
お腹はグウグウ鳴って、屋台から美味しそうな匂いが漂ってくるけど、この世界のお金は一円も持っていない。
そしてさっきから、街道で見かけたケンタウロスがアカリの後ろを付いてくる。
ケンタウロスの顔は兜に覆われて確認できない。
「どうしてケンタウロスが私を追いかけてくるの? それよりも早く教会に行って、世界樹の実を換金しなくちゃ」
アカリはキャリーバッグのハンドルを握りしめると、教会の方向へ走り出した。
後ろからケンタウロスが追いかけてきたが、馬より速く、電車並みのスピードで走るアカリはどんどん距離を離し、ケンタウロスは途中で姿を見失った。
ケンタウロスを振り切り、始まりの街の教会前にたどりついたアカリは、電波塔のように高くそびえ立つ教会を仰ぎ見る。
しかし教会の壁はひび割れ所々穴が開き、周囲に崩れたレンガが転がって、観音開きの薄い扉の蝶番が外れ老朽化でボロい感じだ。
アカリは世界樹の実を買い取ってもらえるか不安になりながら中を覗くと、白装束の神官の姿がみえた。
「あのう、すみません。ここは始まりの街の教会ですか」
灰色の法衣に細長い帽子をかぶった神官に声をかけると、驚いた様子でこちらをふりかえる。
その途端、祭壇に灯されたろうそくが火花を散らしながら煌々と燃え上がり、薄暗い教会の中は眩い光で満ちあふれ、どこからか荘厳な音楽が流れてきた。
まぶしい、顔が輝いて一瞬よく見えなかった。
始まりの街の地味でボロい教会に、ギリシャ像のように鼻が高く彫りの深い顔立ち。
輝くブロンドの髪に瞳は深い蒼い海の色、ハリウッド映画の美形俳優のようなイケメン神官が立っていた。
「どなたですか。祈祷や懺悔なら、明日の朝来てください」
イケメン神官は少しとげのある冷たい美声で、アカリに告げた。