三鷹駅→異世界。
早朝六時の静かな三鷹駅ホームに、ガラガラとキャリーバックを引きずる音が響き渡る。
中央線東京行きの電車に乗り込んだ乗客は、明里ひとりだった。
「はぁはぁ、ギリギリ間に合った。この時間なら山手線の通勤ラッシュ前に、浜松町のモノレールに乗れる」
アカリはスマホを開き、飛行機搭乗券のQRコードとリゾートホテルの予約を確認。
これから朝八時五十分発、羽田発沖縄行きの飛行機に搭乗予定だ。
三年の間、一日十二時間以上働かされた会社を二週間前に辞めたアカリは、九州の実家に家財道具を送りアパートを引き払った。
今、アカリの全財産は足元に置いたキャリーバックひとつ。
そのキャリーバッグの仲から、ジャラジャラと重たい金属音がする。
「小銭貯金箱まで持ってきたけど、せっかくだから旅行のお土産に使おう」
独り言を呟きながら席に座ったアカリは、三年間惰性で続けるスマホゲームにログインする。
制作者が夢で見た世界を再現したという、人間とファンタジーな生き物が共存するゲームで、始めた頃はSSレアキャラや武器が欲しさにかなり課金した。
でも最近は一日一回ログインボーナスと、時々イベントに参加する程度。
噂では来月VR化の発表あると、廃課金ゲーマーの友達が騒いでいた。
五分ほどスマホを操作したが、旅行準備で徹夜したせいで睡魔に襲われる。
アカリの指がスマホに触れるとゲーム画面のルーレットが回り出し、力の抜けた手のひらからスマホがすべり落ちる。
パリンッ。
ガラスの割れる乾いた音がしてスマホから白く眩い光があふれだし、その瞬間、電車が大きく揺れ……。
***
ポツン、と冷たいしずくが頭の上に落ちる。
「つ、冷たい。しまった寝過ごした……って、私どこにいるの?」
自分の大声で目を醒ましたアカリは、周囲の景色を呆けたように見つめた。
電車の中で居眠りしていたハズなのに、何故か木の切り株に座っている。
アカリの周りにはうっそうとした木々が生い茂り、足元は苔の生えた柔らかい地面で、後ろをふりかえると、山のように巨大な木がそびえ立っていた。
薄く緑色を帯びた硝子の木の葉からしずくがしたたり落ち、卵大の実がみのり、白壇のような爽やかで甘い花の香りがする大輪の赤い花が咲く。
「これってどこかで見覚えがある。そうだ、ゲームの世界樹!」
世界樹の実は水晶のように透明で、中心にオレンジ色の炎が燃えている。
「赤や紫に発光する葉っぱに、屋久島杉みたいな大きな樹。これはスマホゲーがVR化さたのね」
思わず立ち上がったアカリは足元のキャリーバッグにつまづくと、慌てて伸ばした手が滑って顔面から地面の苔に突っ伏す。
鼻をしたたか打ち付けて、ぬめっとした緑の苔が顔に張り付いた。
じんじんと痛む鼻を拭うと、手のひらに濡れた感触があり、赤い鼻血がついている。
「痛いし血が出てるし、苔のねとねとした感触とか、ゲームのVRでここまで表現できる?」
苔で汚れた自分の腕を思いっきりつねると、とても痛い。
「いたたっ、これって現実だよ!! もしかしてラノベ小説とかアニメでよくある異世界召喚」
アカリに心当たりがあるとすれば、去年年末はクリスマスも無いほど忙しくて、社長を罵りながらゲームの世界に逃げたいなぁと思った時ぐらいだ。
「やっと社畜辞めて沖縄旅行を楽しむ予定だったのに、今更ゲームの世界に召喚されても迷惑だよ。そうだ、スマホスマホ」
しかし持っていたはずのスマホは見当たらず、慌てて周囲を探すがどこにも無い。
「嘘でしょ、昨日推しの新曲をダウンロードしたばかりなのに。それにスマホが無いと飛行機のチェックインできないし、メールもSNSも位置情報も分からない」
キャリーバッグの中身も全部ひっくり返したが、スマホはどこにも無かった。
アカリは切り株に座り直すと、ポケットに入っていたのど飴をなめながら、現状を確認する。
「ツンッとしたのど飴の味が分かるから、これってやっぱり現実ね。そしてここは世界樹のスタート地点で間違いない」
アカリはゲームを始めた三年前の、おぼろげな記憶を必死に思い出す。
「えっと、最初にやることは世界樹のほこらで願い事をする。それから世界樹の実を拾って、始まりの街に届けれはお金がもらえたはず」
山のようにそびえる巨大樹の幹には太いツタが階段状に絡みつき、幹の中腹、ビル七階ぐらいの高さに小さな祭壇のような建造物が見えた。
きっとあれが世界樹のほこらだ。
アカリは巨大樹の幹側に体を寄せて、キャリーバックを下に落とさないように気をつけながら、階段をのぼりはじめる。
風に揺れた枝葉がシャラシャラと美しい音を奏でるが、周りを眺める余裕はない。
途中二回ほど階段から落ちそうになりながら、二十分かけて目的地にたどり着いた。
「ぜぇぜぇ、やっとのぼりきった。これが世界樹のほこらね」
巨木のウロを利用して建てられた小さなほこらには、可愛らしい極彩色の花々の絵が描かれ、正面に青い大理石で作られた祭壇があった。
アカリはキャリーバックを開き、中から筆文字で『十万円小銭貯金』と書かれた金色の缶を取り出す。
缶切りが無いので缶をひっくり返して上下に揺さぶると、ジャラジャラと音を立てて五百円と五円玉が出てきた。
「普段お賽銭は五円だけど、今日は大奮発して五百円にしよう。世界樹にどんなお願いをすれば良いかな」
アカリはすこし考えて、五百円を祭壇に置いて両手を合わせる。
「半年前に親知らずを抜いてとても痛かったから、怪我の痛みを感じないで、すぐ治りますように。それと引っ越しの時タンスを運んで筋肉痛になったから、もう少し腕力をください。ついでに電車に乗り遅れない脚力もお願いします」
異世界の宗教は良く分からないけど、気持ちは伝わるだろうと、二礼二拍手一礼して頭を上げた。
「あっ、祭壇に置いた五百円が消えた。それに体がほんのり温かくなって、寝不足で重たい頭がスッキリしている」
この時アカリがお供えした五百円は、現代最先端の造幣技術で作られたモノで、異世界では完全にオーパーツだった。
従ってアカリには、オーパーツの価値にふさわしい力が授けられる。
歯が抜かれるほどの激痛も感じず、瞬時に怪我が治る不死身の体。
重たいモノも軽々と運べる腕力と、電車(中央線 時速五十キロ)に追いつく脚力を手に入れていた。
しかし願い事を終えて軽々と世界樹の階段を降りる当人は、身体強化に気付いていない。
「次は世界樹の実を拾って始まりの街へ持って行く。キャリーバッグに木の実を詰めればいいね」
ゲーム設定では世界樹エリアから出ると二度と立ち寄れない。
世界樹の実を拾わないで始まりの街に行くと、アイテムを買うことも装備を揃えることも出来ず、ゲームをリセットして最初からやり直しだった。
「異世界で無一文なんてしゃれにならない。出来るだけ木の実をたくさん拾わなくちゃ」
脚力の増したアカリは、三メートル以上ジャンプして世界樹の実を次々と叩き落とし、さらにキャリーケースを踏み台にして上の実も落とす。
一個二キロ以上あるずっしりと重たい世界樹の実を軽々と拾い、合計五十個総重量百キロをキャリーバッグに放り込んだ。
作業を終えたアカリは額の汗を拭いながら空を見ると、太陽の位置は右斜め下くらいで、今は昼三時頃だろう。
もしここがゲームの世界なら、夜になるとモンスターが現れて人々を襲う。
「日が沈む前に次のエリア、赤レンガの外壁に囲まれた始まりの街に行かなくちゃ。どこかに始まりの街へ続く道があるはず」