7.お風呂ぐらい入りたいよねぇ?
湿気を含んだ重い水音が浴屋に響く。すくった小さな手の隙間からお湯がなめらかに零れ落ちて、入浴剤の甘い香りがドア越しに伝わってくる。
「お湯が白い、です……!」
鈴の音のような声が壁の間で反響する。心なしか浮いた様子の美少年は、濁ったお湯の上で手を跳ねさせて、ぴちゃぴちゃと水音を立てて楽しんでいるようだった。
「湯加減はどう?」
ほのかな塩素の匂いを背に、私はお風呂のドアの前で膝を抱え、握りしめた新品のトランクスと古い花柄のワンピースをじっと見つめている。
何も考えてはいけない。今後ろで美少年が一糸まとわぬ姿でいるなんて、いやいや、そんな。
「きもちいい、です。ありがとう、ございます」
「よかった。ゆっくり入ってね」
普段通りの声を意識して呼びかける。え、余裕そうだねって? 今あがってもらうと、ちょっと……いやかなり困るだけだよ。
ああ、どうしよう……。
昨日出会った白銀の髪の美少年に食事は提供できたものの、有休申請をすっかり忘れ今日は彼を一人で家に置いていってしまった。心細い思いをしていないか心配でたまらなくて、仕事中アイト君のことばかり考えていた。
きっかけは帰り道に立ち寄ったコンビニだった。
二人分の弁当を手に取り、お菓子コーナーをちらりと覗いたときだった。横の売り場に堂々と置かれていた男性用下着が目に入った。ブリーフ、トランクス、ボクサーパンツ……。モノクロだったがバリエーションもそこそこ豊富だった。
下着でにぎわう売り場を前に、地べたに横たわる昨日の姿がありありと脳内で映し出される。
もしかしてアイト君、ずっとお風呂入ってないんじゃ……? あれだけ酷いことする親(かどうかは分からないけど)がシャワーを浴びさせるわけ、ないよね。
下唇をぐっと噛む。薄皮が剥がれて、口先に生臭い味が走る。
一日中ずっと考えていた。どんな気持ちであんな傷を負わせたんだろう、暴力を振るうとき何も感じなかったんだろうか、と。
可能性に頭を巡らせるほど腹の奥で怒りが煮立つのを感じた。人を、しかも抵抗できない子供を痛めつけるなんて、絶対にやってはいけないことだ。
そんな奴が近くにいるかもしれないと思うと、自慢の笑顔も歪んでしまう。でも同時に、最悪の事態を防げたことに安堵してもいた。
今まで苦しかった分、せめてあったかいお湯に浸かってリラックスして欲しいな。
黒のトランクスをから揚げ弁当の上に乗せたせいで、会計のときチャラ男店員に引かれたのは内緒だ。
後方にははしゃぐ全裸の美少年。前方には勢いよく回転する洗濯機。
そして手持ちは、新品のトランクスと、若気の至りで買った派手な長袖ワンピース。白地に赤い薔薇が全体にあしらわれており、丈はかなり短い。クローゼットを必死で漁ってみたが、スーツが普段着と言っても過言でない私は、めぼしい服を何も持っていなかった。
ほかに着るものないのに、なんでアイト君の服洗濯しちゃったんだろう……!
大きく深呼吸をするが、都合よく案が湧いて出てくるわけでもない。今から服を買いに行こうかとも思ったが、子供服を売っている店なんて知らないし、運よく見つけられたとしてもそのころにはアイト君が凍えてしまう。
だが、これを着せてもいいのか? ぶっちゃけ超見たいけど。ああ、セルフ美少年警察が警報を鳴らさなければ、なんの躊躇もなくこの服を渡せるのに。
「あの、キョウコ、さん?」
「どうしたの?」
後ろは振り向かない。それぐらいの常識は持ち合わせている。ワンピース渡そうとしてるのにって? うるさいヲタクでも戸惑うときがあるんだよ。
てか上がるの早すぎる。考える時間もうちょっと頂戴、君のためにも。
「体、拭きました」
「あ、うん」
ぎこちない動きで下着とワンピースを渡す。現状手持ちがこれしかないから仕方ないんだけど、これで本当にいいのかな。
「えっ、これ」
声が詰まる。何を渡されたのか理解してしまったようだ。胸に刺さる小さな棘が、次第に多く鋭くなっていく。
「そうですよね、他に、ないですよね」
お風呂上りの甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「ごめんなさい。勝手にあがりこんだ僕が、わがままを言いそうに、なりました」
頭上にぽたぽたと水滴が落ちる。背中に感じる湯気が、彼がすぐそばにいることを証明する。
「ないの、当たり前、なのに。よくしてもらって、調子に乗りました」
ごめんなさい、と彼はもう一度口の中で小さく呟く。
「何言ってるの。わがままなわけないでしょ」
私はおもむろに立ち上がり、クローゼットから一番いいブラウスをひったくると、彼に背を向けたまま腕だけをぐっと突き出した。アイト君を困らせてまで自分の欲を突き通すほど馬鹿じゃない。
「むしろ私が謝らないといけないね、ごめん。女物だけどこっちのほうがましでしょ」
「でも、いいんですか」
「いいの。早く着て、風邪ひいちゃうよ」
しばらくして指先がふっと軽くなり、代わりに衣服と素肌が直接擦れあう音が私の鼓膜を震わせ続けた。見てもいないのに、袖に細い腕を通す姿が目に浮かぶ。自分の欲望に忠実すぎるのは悪い癖だ。もっと、相手のことを思いやらないと。やけに長く感じる待ち時間で、お得意の反省会を行う。
「着れました」
その言葉に振り向くと、ぶかぶかのブラウスを着た美少年が、青い瞳に涙をためて俯いていた。若干透けて見えるボディラインからは、久しくまともな食事をとっていないことが容易に分かる。
「あ、あの……」
ブラウスの裾をぎゅっと握りしめ、視線を泳がせる。何を言おうというよりは、自分の意見を言ってもいいか迷っているようだった。ずっと、こうして我慢してきたのだろうか。
「アイト君」
頭にそっと手を置き、ゆっくり撫でる。彼は一瞬体を震わせたが、すぐに身を預けてくれた。水分の残った髪が、私の手の下でふわふわと動く。
喉元までやってきた、名前のつけられない想い。それを無理やり飲み込んで、適切な言葉を探す。
「明日は、一緒に服を買いに行こうね」
「……はい!」