4.自己紹介しようぜ!
彼の指先がパーカーの裾を力なく握る。吸い込まれそうなほど透き通った瞳は涙に濡れ、私の視線を掴んで離さない。
「誰、ですか。また僕を傷つけるんですか」
こちらを睨みつける視線が痛々しい。正確な年齢は分からないが、とても子供が出来ないような苦渋に満ちた表情だった。想像を超える苦難を何度もくぐり抜けてきたのだろう、信頼など微塵も寄せていないことは容易に分かった。
「違うよ、そんなことしない」
なんとか安心させようとするが、私の言葉など聞き入れていないようだった。
彼は呼吸を荒くし、横たわった体を引きずってなんとか私から離れようとする。手負いの野生動物が敵と遭遇したときと遜色ないような警戒心が、細く小さな体から滝のように溢れ出ていた。
体が後ろに下がるたび掛け布団が少しずつ背中の下に巻き込まれ、全身が露わになる。
ぶかぶかのパーカーから伸びる足が蛍光灯の元に照らされた瞬間、思わず息をのんだ。
どうして。そう思う事しかできなかった。
しなりをつけた鞭でぶたれたような一本のみみず腫れは右足を支配し、敷布団と擦れるたび嗚咽が漏れる。
加えて下半身全体を蝕む打撲痕。根性焼きのような円形の傷。それらは薄くなったものや赤黒さの引いていないものまで様々だった。
「動かないで! 痛いでしょ!」
私が叫ぶと彼はぴたりと動かなくなった。言葉が通じたというよりも、「命令に従わなければならない」という強迫観念がそうさせたのだろう。どんな生活を送ってきたか今の私には知る由もないが、幸せでなかったことだけは確かだった。
彼の指に一層力が入る。白銀の髪が頬にかかり、その上から一筋の涙が滑り降りた。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
美少年見つけてラッキーだと思ったけど、考えれば冬に薄着で子供が倒れてたら普通に警察案件じゃん。やばいやつじゃん。
とにかくまずは警戒を解かなきゃ。警察に連れて行くにしても、暴れられたらこっちが不審者だと思われかねないし。でも話通じるかなぁ……?
「そのままでいいから聞いて。人に名を訪ねるならまず自分から、って言うでしょ? 安心して、危害を加えるつもりはないから。もしその気なら君が寝ている間にいくらでもできた、でも私は何もしなかった。これが証拠」
彼は目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
「私は平田京子。こないだ30歳の誕生日を迎えたばかりだよ。趣味は読書とお絵かき。ネットの底辺に生息してる。好きな食べ物はいちごと梅干し! 」
膝に手を当てて胸を張り、堂々と自己紹介をする。何をやっているんだと言われそうだが、この子にはこれが一番効果的だと思ったのだ。
だって考えてみてよ。名刺をくれない取引先とは仕事したくないでしょ? それと一緒で、相手のこと何もわからないのに、信頼しろなんて土台無理な話じゃん。
名前と趣味、あと好きなものとか教えてもらった方がずっと仲良くなりやすいはず。相手のことを知りたかったら、まず自分をオープンにしないとね!
え、ヲタク趣味? 同族以外には禁句だよ、き・ん・く(はーと)。
彼は小さく首を傾げる。私の長ったらしい自己紹介で少し現状を把握する時間ができたようだ。完全に信頼されたとは言えないかもしれないが、ずっと浴びせられていた燃えるような敵意は感じない。
「ほんとうに、痛い事、しません、か?」
疑いながらも縋るように彼は尋ねた。
「しないよ。約束する」
私の自信に満ちた返答にほっとしたのか、血の気のない頬に淡い桜色が染み込んでいく。ぴくぴくと機嫌よさげに動く猫耳は控えめに言って世界一可愛くて、危うく目が潰れるところだった。
思わず顔面がだらしなく溶けそうになるが、やっと解いた警戒が一層強くなるぞ! と自分に言い聞かせなんとか押しとどめる。危ない危ない、せめてこの子の前ではきちんとしたお姉さんでいないと。
ん、この子……?
そういえば、大切なことをまだ聞いていなかった。
「ねえ。名前を聞いてもいい?」
警察に届けるまでの短い間かもしれないが、ずっと『君』呼びは流石によそよそしいだろう。私が訪ねると、可愛らしい小さな頭が微かに頷いた。
彼は体をゆっくりと起こし、青い飴細工の瞳で私を見上げた。蛍光灯の明かりが乱反射して、横になっていたときとはまた違った美しさが私を虜にする。
「キョウコさん」
鈴の音のような澄んだ声が部屋に響く。
「はじめまして。僕、ベニオアイト、です」