1.なんとしてでも定時で帰る!
「定時なので帰ります!」
残業して欲しそうな上司を尻目に、タイムカードを押して颯爽と会社を出る。高めのパンプスで自動ドアを飛び出せば、目に映るのは駅前の華やかな風景。クリスマスで浮かれるカップルやここぞとばかりにチラシを配る茶髪の男、そして目がくらむようなイルミネーションの雪崩。でも私にはどれも関係ない。
走り出したい気持ちを抑え、可能な限り素早く目的地へと向かう。人の波には逆らわず、しかし飲み込まれず!歩きなれた道の先には、我らの書店が穏やかな微笑みで待っている!
制服姿の男女がごった返す入り口。並べられた新刊全てを舐めるように見ると、数日前ヲタ活のヒートアップが原因で別れた彼氏のことはどうでもよくなってくる。俺と本どちらが大事なんだと泣かれた時に本と即答したことは全く後悔していない。奴がいなくとも、ぷにぷにようじょや細身高身長イケメンがいつだって私を癒してくれるのだ。
整然と列をなした本がこちらに誘惑をしかけてくる。どんな魅惑魔法より強力だと思う。あの人新作出してる。これ気になってたけど買ってなかったんだよねー。どれもこれも欲しい。よし、今日は一気買いしよう。
まとめ買い用のカゴを取りに行くことまで考えた矢先、私は自分の頬に両掌を勢いよく振り下ろした。パァンという気持ちいい音が店内に広がり、何人か訝しげにこちらを見た。が、気にしては負けだ。赤い手形がついた両頬をそっと撫で、何度か深呼吸をする。
真に求める物があるのに、簡単に目移りしてしまった。私が恥じるのはそこだけでいい。一度は荒ぶった頭を急速に冷やしていく。冷静さを失ったら折角のいい女が台無しだ。
かっこつけて脳内できめてみたが、お目当ての本が目に入った瞬間仮初の落ち着きは全て吹き飛んでいった。
新刊台のど真ん中、段違いの輝きを放つ一冊におそるおそる手を伸ばす。ああ、ついにこれを読める日が来たのだ!私は体中の血が燃え滾るのを感じながら、全神経を表紙へと集中させた。美しい。見れば見るほど語彙力が吸い取られていきそうだ。
天使の輪が広がるサラサラヘアー。くりっとした目に天を向いた睫毛。つるりとしたほっぺたは食べてしまいたい衝動に駆られるほど愛おしく、ショーパンから伸びる清純と妖艶が混ざり合ったおみ足は私の心臓に的確な一撃を打ち込んできた。うっかりアラサーらしからぬ奇声を発しそうになるが、それはさすがにまずいので腹筋にぐっと力をいれ何とかこらえきる。
神絵師「さーみ」さんの美少年本。今日は三か月ほど待ちわびた発売日なのだ。表紙のひかえめなポーズの彼を見ただけでこれほど呼吸が荒くなってしまうのに、読み始めたらどうなってしまうのだろう。おそらく百回は叫ぶ。中に詰まった宝玉の数々を想像して、見る前から全身が破裂しそうだ。
「さーみ」さんはオリジナル美少年を主に描く年齢性別不詳の超人気絵師だが、同人誌も含めて今まで一冊も本を出したことがなかった。我々「さーみ」ファン、通称「さー民」は気まぐれに更新されるイラスト数枚を有難く頂戴するだけで幸せだったため、単行本化の報告を受けた際踊り狂ってタンスの角に足の小指をぶつける者が後を絶たなかったという。もちろん私もぶつけた。
とにかく早く連れて帰ろう。私は小さくガッツポーズをする。今日は金曜、祝杯を上げながらこの一冊を存分に楽しもうじゃないか。
気持ち悪い笑みを浮かべいそいそとレジに向かう女を、遠目からじっと見つめていた学生たちがどう思っていたのかは知る由もない。