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バルチック艦隊投錨

いよいよバルチック艦隊がカムラン湾にやってきました。

毎朝の日課であるカニ取りをする村の子供たちが第一発見者です。あまりにもすごい数の大艦隊に驚いて収穫したカニを放って親たちに報告に走る子供たち。

艦隊の投錨を不安げに見守る村民たち、それに反して儲け話で心が躍る居酒屋の親父ファット。(悪いやつですね)


「みんなー ちょっときてー!なあにあれ? たくさんの煙が見える」

「どこどこ?」

「ほら、あそこ!」

ミンは早朝から村の友人達と北の半島の先端にある砂浜でカニ取りをしていた時にこの光景を見た。この村の子供たちにとってカニ取りは決して楽しい遊びではなく各家庭の苦しい家計を支える貴重な労働であった。ミンは小さいときからすばしっこいカニを取るのが上手でいつも年下の子供たちに「今の位置にいるカニを取ろうとしてもだめ、動くカニの未来の位置に手を出すのよ」が口癖であった。

かぶっていたノンラを脱いだミンが指差す方角のはるかかなたの水平線から幾十もの煙が上がるのをほかの子供たちは確認した。

「ほんとだー すごいたくさんの煙が見える」

昔から仲良しのチャンのその声に周りにいた友達もカニを取る手を止めて

「なんだ、なんだ」

と全員集まり、その中でも一番背の高い年長のヒューがもっとよく見えるよう近くにあった背の高い椰子の木をするするっとサルのように器用に登っていった。

「高いところからぼくが見て確認してくる」

彼が椰子の木を登っている間にも、水平線上ではどんどん黒煙の数は増しており、最初は煙だけしか見えなかったが、時間が経つにつれて水平線の下からマストや艦橋や砲身までが姿を現し最期には艦上で豆粒のようにうごめく人の姿までがはっきりと見える距離に縮まった。

「1・2・3・4・・・すごい数の軍艦が近づいてくる!昨日お父さんが言ってたロシアの艦隊だ! 間違いない・・・

名前は確か・・・・そう、バルチック艦隊!」


1905年4月13日 帝政ロシアが日本帝国海軍に雌雄を決するために本国から送られた当時世界最強と謳われた無敵艦隊が今まさに仏領インドシナ、カムラン湾外に到着した瞬間であった。

この物語の舞台のカムラン湾はサイゴンの北東500キロにある小さな漁村で現在ベトナムの有名な観光都市ニャチャン市に隣接する。カニの両手のように伸びた大きな半島とその入り口をふたをするように配置された島によって構成された湾である。遠浅の海岸が多いベトナムでは珍しくこの湾は水深が深く、当時の15000トン級の戦艦や巡洋艦等の大型船舶が停泊できる良港である。現在でもベトナム海軍カムラン基地として使用されている。

「すごいぞ、ロシアの大艦隊がこっちに接近してくる!」

村長の息子のヒューが椰子の木から滑り落ちるように降りてきて叫んだ。

「ロシアの船?」

「今から戦争が始まるの?」

子供たちにとって外国の船が来たときの記憶はいい思い出が無かった。数年前にフランス海軍が初めて来たときも接岸後は威圧的な態度をとる兵隊で街があふれかえったいやな記憶がある。

大勢の子供たちが不安げに見守る中、この日到着した艦隊の規模は、中将旗をはためかせた旗艦スワロフを筆頭に戦艦6隻、巡洋戦艦7、駆逐艦10、水雷艇10、その他病院船、工作船を含む合計約40隻からなる大艦隊であった。

「みんな見て、白い服を着た兵隊さんが大勢手を振って何か叫んでる・・・」

「あ、右手の港のほうからフランスの白い大きな船が出て行くよ、3隻いる。一番大きい船の横にデ・カ・ル・トと書いてある」

「フランスと戦いがはじまるのかなー」

「でもロシアのほうが船は大きいし、第一数が多すぎるよ!」

前述のジョンキエルツ少将が座乗する巡洋艦デカルトが白い波を蹴立てて歓迎の意を表するために湾の入り口にあるバン・バ島を背にしてバルチック艦隊の到着を待った。

双方の距離がお互いの顔が認識されるまでに縮まったときに

「ドーン、ドーン」

巡洋艦デカルトから耳を裂くような大きな大砲の音が子供たちに聞こえたのはそのしばらくあとのことであった。

「大砲の音だ、いよいよ戦争がはじまったんだ」

「これは大変なことがおこった、みんな、急いで家に帰って大人たちに知らせよう」

「さあ早く、走って!カニのかごは重いから置いていって」

「せっかく今日はたくさん取れたのに、もったいない」

「今はそれどころではないでしょう、さあ早く早く」

ミンは年下の子供たちの背中を押して家に帰るようにせかした。

海軍の慣習で相手の来訪を称える祝砲の音とは知らずに子供たちは勝手に戦争が始まったと思った。早朝から苦労して取ったカニのかごを置いたまま大慌てにそれぞれの家に帰って行き、両親や隣人たちに今に見たことを告げた。

ミンの家だけは漁師をしているために半島の先にあり、ほかの子供たちと唯一違う方向に向かって走った。

一番家が近かったミンは、大急ぎで走ったのですぐに自分の家が目に入ってきた。家の前ではミン父親のタンが赤銅色した太い腕で破れた網の修理をしている最中であった。この村で生まれ育ったタンはそのころ教師をしていたズン村長によると物覚えがよく村で一番成績がよかったらしい。ハノイの学校に行く事を勧めたズンに対して「生まれた場所でおやじの跡を継ぐよ。」と言い今の漁師の仕事をタイという弟分と一緒にやっていた。体格がよく力も頭脳もあるタンは北地区の漁師仲間からのみならず村全体から「今関羽」と呼ばれ尊敬されていた。

今でもベトナム人は常に侵略を受けていた中国そのものは嫌いであるが三国志は物語として親しまれている。特に関羽の人気は絶大でホーチミン市内でも関羽廟があり常に参拝客でにぎわっている。

「お父さん、大変大変!何十のたくさんの黒い船と、3隻の白い船が戦争を始めたよ。しかも白いほうが先に大砲を撃ったのよ」

網を修理する手を止めて父親のタンは真っ黒に日焼けした顔を、娘に向けた。

「何だと?黒い船と白い船?大砲を撃った?さっき大きな音が聞こえたのがその音か。昨日村長の息子のヒューがうちに来てロシアの船が来ると言っていたな。そして今日の夕方、若い衆を全員広場に集めてくれといったのはこいつらのためだな」

「お父さん、早く逃げないと大変なことになるよ」

「どこの国の船かは知らんが、俺たちの海を我が物顔でうろつくってのは気に入らんな。よしミン、一緒に丘に上がって一度どんなやつらかを確認しよう。」

2人は家の裏手にある小高い丘の頂上を目指して走り出した。頂上は湾の内外ともによく見渡せる位置にあった。

「これはおどろいた、こんな数の船は見たことが無い。しかもとんでもない大きさだ。やつらの煙のおかげで空が真っ黒になってる。ミン、家に帰っていろ、いいか決してやつらに近づくんじゃあないぞ。今からお父さんは若い衆を連れて広場に行って来る」

「わかった、気をつけてね」

「ああ、大丈夫だ。お父さんが帰るまで決して家の外に出るなよ。母さんと、弟たちを頼んだぞ」

一方、ミンとは反対方向に走ったチャンは相当の距離を全速力で走ったので「はあはあ」と荒い息を吐いたまま彼女の家に飛び込んだ。

チャンの家は昔から村で唯一の雑貨商を営んでいる。食品や雑貨品が山のように積まれた店の隣には仕事を追えた漁師やフランスの水兵たちが毎日飲みに来る居酒屋も経営していた。

居酒屋の準備をしていた父親のファットに

「お父さん、大変大変!海が見えなくなるくらいのたくさんの外国の船が湾に入ってくるよ、しかも港から出てきた白い船がやつらに大砲を撃ったの」

「何、外国の船だと?しかもたくさんと言ったな?そいつぁロシアから来たお客さんのことだ。ついに宝船の到来だ!」

「もう、いつも商売のことばっかり考えて、少しはまじめに考えてよ。戦争が始まるのよ!」

「フランスの海軍さんはいつもうちのいいお客さんだ。彼らが言ってたのはこの艦隊のことだな。今回はロシアのお友達がたくさん来たんだろう、これは大もうけができそうだな」

「大砲の音がしたのよ!私たちはっきり音を聞いたもの」

「ありゃあなあ、礼砲と言って海軍さん同士の挨拶だ。仲間の船が来たときには必ず挨拶代わりに空砲を打つ習慣があるってフランス海軍さんの水兵たちから聞いたことがある、安心しな」

「へえ・・・そうなの。戦争じゃあないの、もしそれが本当ならみんなに知らせて安心させてこなきゃあ」

「それより、すぐに母さんと伯母さんを呼んでくれ。大急ぎでとなりのニャチャンの町からたくさんの酒と食料を買い占めてくるように言ってくれ。急いでだぞ!俺は桟橋にその大艦隊とやらを見に行ってくるからな。とにかく今日からは忙しくなるぞ!」

身長が150センチと小柄なファットはタンのひとつ下でズン村長にいわせれば小さいときから頭はよくない割りに調子がよく、立ち回りのうまい小ずるい子供だったそうである。



そのころカムラン湾では湾の入り口で待機している巡洋艦デカルトの横をバルチック艦隊がゆっくりと通過していた。その姿はまさに王者の風格であった。デカルトの艦上ではフランス海軍の将兵たちがそのあまりの数と威容さに度肝を抜かれた。

「これが最新鋭戦艦スワロフか・・・・うわさどおり大きいな」

中将旗をなびかせた旗艦スワロフの勇姿にピエール艦長がつぶやいた。

「あれが自慢の30センチの主砲か・・・本当にこんなやつらと日本海軍は戦うのか・・・・」

日本海軍に詳しいジャン航海長が唸った。

「しかし恐れ入ることはない諸君。ここに見えるほとんどのロシアの大型艦はわがフランス海軍の設計だ。相手の日本海軍の船はイギリス海軍の設計だがな」

ジョンキエルツの説明にジャン航海長は目の前を威風堂々と通過するロシアの艦艇の特徴と武装を詳細をメモに書きつけながら

「そうなると今回の海戦はさしずめわがフランス海軍とイギリス海軍の技術の代理戦争ということになるわけですね」

「そういうことだ。どちらの国の技術力が勝っているかがわかる貴重な海戦となるだろう。今のうちにやつらをよく見て目に焼き付けておく事だ」

ジョンキエルツのその言葉に、全員がまた艦隊のほうに目を向けた。

フランス海軍の将兵たちが見守る中、ロシア艦隊の各艦の甲板上では多くの将兵が整列して敬礼をする姿が見える。目の前を過ぎ去った艦隊は難しい湾内の航行でも巧みな操作でこなし、それぞれの艦が第一、第二桟橋に横付けにされていく。

喫水の関係で桟橋につけない戦艦などの大型艦は湾内の沖合いでの停泊を選択したようでにわかに艦隊全部の動きが止まった。40隻のロシア艦の進入によって湾内はにわかに黒一色に染まったようだった。

「ウラー!」

「ウラー!」

とマダガスカル島以来の久しぶりの陸地を目の前にした喚起で上がる大歓声の中、甲板上では早くも上陸準備をしている水兵や彼らに指示を出す海軍将校がいたるところで走りまわる姿が見える。

「ガラガラガラ、ザブーン、ザブーン」

投錨の音が各所で聞こえた。

一方港の周りには先ほどの子供たちの報告を受けて何事かと集まったカムラン村の村民が幾重にも取り巻いていた。カムラン司令部の敷地の回りは金網が張り巡らされており一般のベトナム人は入れないようになっているので村人はその金網に張り付くようにしてこの一大事を見守った。

「あれがうわさの宝船か、フランス人が言ったとおりのすごい数だな!こいつぁ間違いなくいい金になるぜ!こうしちゃあいられない」

一人小柄のファットが歓喜の声を上げながら店の方向に去っていった。

ベトナム人が見守る中、大勢の水兵たちがまるで蟻の行進のように次々と桟橋から上陸してくる。重々しく聖アンドリュース旗を抱えた儀仗兵を先頭に、威圧的な態度をとるロシア海軍将校、水兵たちの姿に村民たちはかつてフランス海軍が上陸した日の苦い記憶がよみがえった。

一方陸上では桟橋から上がってくるロシア将兵を迎える純白の海軍服を着たフランス人海軍将校がこれを出迎える。

ジョンキエルツ少将は、自分の乗艦してきた巡洋艦デカルトと比べて大人と子供の違いがあるほどの戦艦を有する大艦隊を見上げるようなしぐさの後、姿勢を正しながら黒い海軍服を着た明らかに艦隊の司令官と思しき人物の前に進み出て

「ロジェストウエンスキー閣下、ようこそ我がフランス領インドシナ・カムランへ!さぞや長旅でお疲れになったことでしょう。わが本国デルカッセ外務大臣からも停泊中の貴艦隊のお世話をするように申し付かっております」と宮廷流の優雅なお辞儀をした。

大艦隊を仕切る司令長官は、帝政ロシア海軍ロジェストウエンスキー少将であるがこの遠征の途中で中将に昇進していたので階級は彼のほうがジョンキエルツよりも上になる。

「うむ ジョンキエルツ少将、フランス国を代表してのていねいな出迎えご苦労である。我が偉大なるロシアと偉大なるフランス両国の友情に感謝する。我が艦隊は知っての通り喜望峰回りの遠路の旅で病人と負傷者がかなり出ておる。先にその者の治療をよろしく願う。その後に7500名の乗組員用の水と食料、あとは3万トンの石炭の補給作業の協力を願いたい。以上の準備が整い次第早々に我々はトーゴーとかいう東洋のイエローモンキーを退治に行くつもりである」

その声が終わらないうちに艦隊の各艦艇からは衛生兵に担がれたけが人や病人たちが優に100を超える数でぞろぞろと出てきたのを見たジョンキエルツ少将はいかに今回の遠征が物理的にも精神的にも過酷なものであったかを実際この目で確認できたのだった。また病人でない者たちもその服装はすすに薄汚れて顔には生気が感じられないまるで亡者の群れのように感じたのであった。

「ロジェストウエンスキー閣下すべて了解しました、今後いまおっしゃられたすべての作業はここにいるカムラン司令部のカールマン大尉が引き受けます。しかしここカムラン村は小さな村で本格的な治療施設がありませんので病人の大半は近くのニャチャンまで馬車で移動していただきます。治療所のほうにはすでに連絡がいっていますがさすがにれほどの大人数とは思いませんでした。閣下にはこのままわが司令部にお越しいただき私の公室でお休みになってください。おいオットー少尉、すぐに馬車の用意をしろ」

「は、了解しました。ロジェストウエンスキー閣下こちらの馬車へどうぞ」

侍従武官のオットー少尉は馬車のかたわらに立って案内をした

「うむ、すべての気配りに感謝する」

ロジェストウエンスキーとジョンキエルツを乗せたロシアとフランスの国旗を翻す馬車は3分ほど北に走り、司令部に到着した。

司令部では営門から玄関まで整列したフランス海軍の将兵たちが敬礼をして2人を乗せた馬車を迎え入れた。

「閣下、お疲れでしょうからまずは2階の部屋で旅装を解いてください。各艦の艦長たちのお世話も同じように私の部下が担当していますのでご安心を」

「うむ、よろしく頼む」

「さあ、こちらが閣下の部屋になります、お疲れでしょうからまずはお休みになってください。今後の話は今夜のディナーのときに詳しくお聞きいたします。それではおやすみなさい」



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