デカルト着岸
ジョンキエルツ少将の乗った巡洋艦デカルトはサイゴンを出港して翌日に順調に500km北東のカムラン湾に入港した。カムラン司令部のカールマン大尉は上司に当たるサイゴン司令部のオズワルド大佐にバルチック艦隊に対してのの過分なもてなしを熱く語るのであった。
巡洋艦デカルトがサイゴンを出港した翌日、昼
「閣下、左に半島が見えてきました、その奥がカムラン湾です、湾の後方にアンナン山脈が見えます。そして右の島がビンバ島です」
デカルトの艦橋にてジャック航海士がジョンキエルツに報告する。
「そうか、やっと到着か。ピエール艦長の言ったとおりの時間になったな」
ピエールが笑顔で親指を立てる
「よし、航海長速度を落とせ。駆逐艦2隻を先に行かせろ。本艦は微速にて湾内の第二桟橋に接岸する」
熟練のピエール艦長の指示が飛ぶ
「了解、総員に告ぐ、ただ今より入港準備に入る。両舷半速、とりかじー」
「よーそろー」
今まで規則ただしいいエンジンの音のみで静かだった艦内が各部署にあわただしく走り出す将兵の靴音で一変した。
先導する2隻の駆逐艦が門のようになった2つの半島の真ん中を通過する。1.8キロの幅をもつこの門を入ればそこがカムラン湾である。湾内には大型艦の停泊できる桟橋が2つある。海から見て向かって右手にあるのが第一桟橋でその左手が第二桟橋だ。この第一桟橋を挟むようにして駆逐艦2隻が着岸した。
デカルトがそのあとに続き湾内すべてを見渡せる位置に来たとき。
「艦長、見たところ北国からのお客さんはまだ来ていないようだな」
ジョンキエルツがほっとしたようにつぶやいた、
「ええ、そのようですな閣下。何とか彼らより先に着いたようで安心しました。航海長、駆逐艦の左の第二桟橋に着けろ。機関停止、惰性航行。あとはパイロット(水先案内船)に任せろ」
艦長の言ったパイロットが2隻近づいて来てデカルトの前後を挟んで手馴れた作業で第二桟橋まで誘導する。
「よし着岸完了。航海長碇を下ろせ!」
「ガラガラガラ、ドブーン」
「投錨完了」
「タラップ下ろせ、総員上陸用意!」
小銃を肩から下げた水兵たちがタラップを伝ってぞろぞろと第二桟橋に上陸してきた。
「ようし、全員上陸したな。整列!各員そのまま右手にある司令部まで行進!」
桟橋からわずかしか離れていない司令部までフランス水兵の行進が続く。道中でノンラをかぶった農夫たちや真っ黒に陽に焼けた漁師たちとすれ違った。行進する200名は例外なく「いったい何事か?」というベトナム人の好奇の目にさらされた。
行進が営門をくぐり司令部の大きな中庭に到着するとピエール艦長が叫んだ
「よーし、総員整列!航海長、兵を2つに分けて指示をしてくれ」
「はい、艦長わかりました。みんなよく聞け、今から全員を陸戦隊として100名づつの2つの中隊に分ける。聞いての通り近日中にロシアの艦隊がこの村にやってくる、みんなの任務は7500名の荒くれたロシア水兵たちからこの村の婦女子と治安を守ることだ。特に酒を飲んだロシア人は凶暴になると聞いているから注意するように。第1中隊はカムラン村北部の治安維持を命令する、第2中隊は南地区だ、総員バルチック艦隊が到着してから出港するまでの毎日銃を携帯してこの任務を遂行するように。今日は艦隊がまだ到着していなので仕事はない、当直以外は司令部の宿舎で休むように。以上、解散!」
※
同日、夜
サイゴン司令部からデカルトに乗って来たオズワルド大佐とカムラン司令のカールマン大尉は酒場「カニの手」で酒を酌み交わしていた。長身のオズワルドは陽気な海軍でも人一倍陽気で豪放磊落な男と言われており痩せて小柄なカールマンの体型と性格はその対極に位置する。
「オズワルド大佐、石炭の補給に関してですが私が明日ズン村長のところへ説明に行く手はずになっています」
「カールマン、カムラン司令として貴様の立場は大変だな、同情する。しかしここだけの話だが、ロシアの連中相手にそんなにも真剣になる必要はないとおれは考える、要は当たり障りなく職務を適当にやっていればよろしい」
「しかし本国のデルカッセ外務大臣の打電とポール提督の話では露仏同盟のよしみで丁重に迎える必要があるとありましたが?」
「それが開戦当初ならともかく、国際世情に鑑みて今のロシアにそこまでする必要があるかどうかが怪しくなってきたのだ。今のロシアはわが国が真剣に力を貸すに足る相手かどうかがおれには疑問だ」
「大佐、わが国フランスとロシアは同盟国ですよね、相手のピンチはこちらのチャンスといいます、困ったときに貸しを作っていたほうが何かと後々のためにいいのではありませんか?」
「まあまあそういきり立つな、この戦争の序盤は確かにそうだった、なにせロシアは世界一の陸軍を持っている国だからな。しかしクロパトキン将軍率いるロシア陸軍は満州で行われた日本陸軍との奉天大会戦で絶対的多数による優勢にもかかわらず大負けを蒙ってしまった。その結果この戦争の帰趨は両国の海軍の総力戦にもちこまれたのだ。世界中は今から行われる両国の大海戦の行方を見守っているのだ。フランス政府の偉いさん方は負けるとわかってるほうにわざわざチップを張りたくはなかろうよ」
「しかしわが国の植民地、このカムラン湾での充分な支援が無かったためにその艦隊決戦に支障が出て最悪、日本海軍に大敗を喫した場合には我々は責任の一端を迫られるのではないでしょうか?」
「カールマン、お前も海軍士官だ。常識で考えて長距離移動に不向きな戦艦たちを3万キロも引っ張ってきて休養と訓練が十分な日本の艦隊とまともにやりあって勝てると思うのか?」
「ですからなおのこと兵員の治療と迅速な要求物資の積み込みを協力してやって日本の艦隊に勝たせないといけないと思います。これはアジア人種が白人種に勝てないことを見せつけるためにも我々は総力を上げてロシアに協力するべきです」
「アジア人種と白人種か・・・・それも一理ある。しかしあの艦隊ときたら母港のリバウ港を出港した途端にドッガーバンクで同じ白人種のイギリスの漁船たちを日本の艦隊と見間違えて誤射をしたばかりか何隻かを沈めてしまった馬鹿者達だ。イギリスはこの件に関して現在も本気でロシアに抗議しており日英同盟があろうとなかろうと戦争も辞さずという態度に出てきていることは貴様も知っているであろう」
「ええ、もちろん新聞は毎日欠かさず読んでいますから知っています。そのための報復としてイギリスはバルチック艦隊の寄港地でかずかずのいやがらせを行ったと聞いています、その結果として艦内では病人または死人さえも出ていると聞きました。相当の長旅とイギリス政府のいやがらせと、石炭補給の重労働で心身ともに疲れ果てた姿は同じ海軍軍人として見るに耐えません!私も海軍軍人のはしくれであります、また海軍軍人である前に一人の船乗りでもあります、船乗りは困っている船乗りを助けるのは海の常識です。彼らの治療と補給を万全にして日本との戦いに送り出してあげるべきです。これは劣等アジアの人間に対するイギリスを除くヨーロッパの諸国の総意だと信じます」
いつになく熱く語るカールマンを前にして腕を組んだオズワルドは目を開いて語った。
「よかろう、ただしひとつだけ条件がある、戦艦と巡洋艦だけは桟橋への接岸は許さん、石炭の補給は海上にて石炭補給船を使用して行うように。これは諸外国に対してのフランスはロシア艦隊を全面的には支援していないというぎりぎりの意思表示である」
「ご理解いただけてありがとうございます。しかし戦艦と巡洋艦の補給を海上でやれと・・・これはますます重労働と時間を要求します。桟橋補給と海上補給ではおよそ5倍も効率が違います。彼らは早急に日本と戦う必要があります。大佐のお言葉ですがこの条件も現地司令官として却下させていただきたい」
「強情だな、カールマン」
「はい、強情です!大佐」
「わかった、そう熱くなるな。それではここは現場司令官のおまえの強情さに譲るとするか。なあカールマン、仕事をもっと気楽にやれないものか?」
「いえ、これが私の心情ですから」
「よし、カールマン、貴様の決意はよくわかった、その熱い気持ちはポール・ボー総督にも伝えておくことにするので明日からは貴様の思いの通りやるがいい。いずれにしても人員の確保だけは早くするようにな」
「はい、早速明日の夕方、カムラン村長のところに出向き荷役用の人数の確保をさせます。そして急ぎロシア艦隊の要望どおりの補給を済ませるように手配いたします」
「うむ、すべて任せたぞ」
「了解しました」
立ち去るオズワルド大佐に海軍式の答礼をした後にカールマンは残っていたビールを一気に飲み干した。
「おやじ、勘定だ」
「はいはい、毎夜ありがとうございます。今日は珍しく上官が来られたようで。いつになく難しい話をなさってましたね」
「そうだ、サイゴンから来たおれの上官にあたるオズワルドという大佐だ。先週のこの店での乱闘騒ぎは不問に付された。おやじ、それよりいよいよ今週中にでも例のロシアの白熊が大勢やって来るぞ。準備はちゃんとできているのか?」
「もちろんです」
「それはよろしい」
「ところであの・・・カールマン大尉殿に折り入ってお話があるのですが。少しお時間をよろしいでしょうか?」
笑顔で揉み手をするファットの質問に
「何だ、急にあらたまって」
「その・・・艦隊がきたあとですが、ロシア海軍の軍人さんを大勢この店に引っ張ってきてはもらえませんでしょうか?」
「なに、この私がか?」
「もちろんタダでとは申しません、紹介手数料をしっかりお支払いさせていただきます。それともお国のフランスではこういう習慣はございませんでしょうか?」
「紹介手数料か・・・悪くはないな。なにしろ大尉に昇任したとはいえ軍の給与だけでは本国への仕送りがこころもとないところではあった。で、白熊たちを引っ張ってきたらどのくらいの紹介料がもらえるのか?」
「売上の20%でいかがでしょうか?」
「ファット、お前は商売をしているからもっと頭がいいと思っていたが売上の20%では話にならんな。考えてもみろやつらはこの世の最期の金だから相当ふっかけても飲み食いするんだぞ。まして大人数が入る店は村にここしかないだろうが。そうだな利益の折半ではどうだ、悪い話ではなかろう」
「わかりました、さすがのカールマン大尉には勝てませんや」
「ところでお聞きしますがロシアの水兵の支払いはどこの国の通貨でするのでしょうか?」
「さあ、普通はロシアの通貨ルーブルだろうが場合によってはロシア軍票の場合もありうるな」
「軍票といいますと?」
「正式には軍用手票といってその軍隊が戦地や占領地での支払いや艦内での給与支払いの場合に切る手形のようなものだ。おそらくロシアのやつらは艦内の今持っている軍票全部を使い切って決戦に臨むはずだ。あの世まで金は持っていけないからな」
「軍票ですか・・・しかしそんなものもらっても換金できなかったら何の意味もないじゃあないですか?」
「心配するな、そのときは私の司令部に来い、その日のレートでフランにでもベトナムの金にでも換金してやるから安心しろ」
「それは便利だ、安心しました。ではそれでいきましょう。よろしくお願いします」
「ああ、毎晩のように大勢の客を連れてきてやるから安心しな。それより酒と材料をしっかり調達しておくんだぞ。あとは給仕に若いベトナム女性を大勢用意する事だな、これでやつらは毎晩ここにやってくる。またそのようにロシアの担当官に私から念を押しておく」
「そこは商売です。わかってます」
「よし、ではこれで商談成立だ。うまくやれよ」
「ありがとうございます。酒、材料、給仕の女の調達すべてまかせてください」
密談が終わったカールマンは司令部へと続く道へと出て行った。
この夜ファットは村のみんなから虐げられていた自分の人生の中でやっと大きなツキがめぐってきたことを確信した。カムラン村は貧しい漁師の町である。昔からここの漁師の不文律では単純に腕力のある人間を評価するならわしがあった。背が150センチと低く腕力も学力もないファットは子供のころからカーやシンなどの力自慢の子供たちにとってかっこうの『いじめ対象』にされていたのである。
唯一『いじめ側』とのあいだに入って彼をかばってくれたタンを除いてファットはこの村の漁師達全員に抱く気持ちは恨みしかなかった。しかしロシアの艦隊のおかげで今は彼らを見下せるような富が短期間で入ってくると計算したのである。
※
翌日の夕刻
「できるかどうかを問うているのではない、これは命令だ!すぐにやれ!」
カムラン村のズン村長の家の中でカールマンの怒声が飛んだ。
「おっしゃる意味はわかります。そのロシアのバルチック艦隊とやらが石炭補給を早急に必要としていることもよくわかります。しかし現実問題として荷役用に200人の若い労働力をすぐに集めろとは・・・しかも1週間もの間ですか」
「重労働だから交代できるように100人を1つのチームとして2チーム作るのだ。もちろん給金は出す、1人1日1フランだ。3度の食事も出る。これで何の不服があるのか?」
ズンが治めるカムラン村は人口が2500名、約500世帯。明日中に各世帯から力のある若い男性を1週間差し出せと言う要求である。ズンは要求の難易度もさることながらそもそもこの重労働をやる「意義」を疑問視していた。
「しかし給金を出すと言ってもそれぞれが仕事を持っているんじゃあ。それを放っぽり出して来いとは言えんじゃろうに・・・」
腕を組んで考え込むズン村長に
「おい、たしかズンさんとかいったな。ズン村長、あんたには村長としてこのカムラン村民に命令してカムラン湾に停泊する各艦までの石炭の積み込みをを指示する義務があるんだよ。こちらのカールマン大尉がおとなしく言っているうちが華だぜ。」
そばで聞いていたジャック兵曹長が声を低くして恫喝する。
「しかし、無理なものは無理じゃ。」
頭を抱えながらうめくズンに対して
「ちっ、強情なじじいだ!貴様らは我が栄光あるフランス帝国の領民である。貴様に選択の余地など無い!」
体重差は倍はあろうかというほど軽いズンの胸倉を掴んで罵声を浴びせるジャック兵曹長。
「ズン村長、ジャック兵曹長の言うとおりだ、われわれはおとなしく談判するつもりでここに来たが、もしロシア海軍の将校が直接来たならばこんな扱いではすまないだろう。ジャック、さあ行くぞ、もうそのあたりでいいだろう」
カールマンはジャック兵曹長に対して村長への暴力を制し、ドアに向かって歩き始めた。
「とりあえず村長、明日の夕方に市場の横の広場に男衆を全員集めてもらいたい。いいな、命令だぞ!」
「けっ耄碌じじめ!」
「バタン」
とジャック兵曹長が罵声とともにドアを閉めて出て行った。
その乱暴なやりとりを隣の部屋からじっと盗み聞きをしていたズンの息子のヒューがつぶやいた。
「ロシア・・・バルチック艦隊?これは大変なことになりそうだ、村のみんなが借り出される」
「誰じゃ、そこにいるのは?おお、ヒューか。話を聞いておったのか?」
「うん、お父さん。フランスの兵隊にひどいことをされていたね、大丈夫?」
「ああ、わしは大丈夫じゃがこれから大変なことが起きるぞ。覚悟しておくがよい。」
「一体何がはじまるの?」
「わしらの村から力持ちの若い衆を石炭の補給作業のために200名差し出さねばならなくなった。しかも1週間もの間じゃ。」
「みんなその間仕事はどうするの?」
「仕事を放り出して来いとのことじゃ。もちろん給金と食事は出るそうじゃが慣れない仕事には事故がつきものじゃからのう・・・それだけが心配じゃ。」
「断ったらどうなるの?」
「断ったらいつものように暴力沙汰が待っておる。まあ以前のポール提督時代からするとゆるくなったほうじゃが・・・」
「ぼくに出来ることはある?」
「そうじゃな、それでは今から北地区の網元のタンのところと南地区の網元のタイのところへ行って明日の夕方5時に広場にそれぞれの地区の男衆を集めてくれるように言ってきてはくれまいか。気は進まぬが1週間の辛抱じゃ仕方あるまい。」
「うん、わかったよ。今から行って来るよ。」
「ヒューすまんな。」
北地区に向かって走る息子の姿につぶやいた。
「こんなことになるなら村長など引き受けるんじゃあなかった。しかし誰かがこの役をやらねばならぬのじゃからなあ・・・」
先代の村長が海の事故で亡くなった時に当時先生をしていたズンに白穂の矢がささったのであった。ズンは教え子たちの強い推薦を蹴ることが出来ずに安易に村長になってしまった自分を恨むのであった。