カムラン司令部
フランス海軍ジョンキエルツ少将を乗せた巡洋艦デカルトはベトナム中部のカムラン湾に出港した。
一方バルチック艦隊を迎え受けるカムラン司令部では生真面目なカールマン大尉がこれからの作業者集めや忙しさを考える憂鬱になるのであった。
サイゴン司令部から3隻の艦隊が出港した当日早朝、カムラン司令部では大尉に昇進したばかりのカールマンが電話で呼び出された。
「カールマン中尉、いえ大尉。サイゴン司令部オズワルド大佐からお電話が入ってます。」
「なんだこんな朝早くから。まだ6時だぞ。」
「とにかく急ぎの用とのことです。」
「わかった、すぐに降りて行く。」
海軍服の上着のボタンをかけながら階下の司令部に降りていく途中、カールマンは先週カムラン村の村民と自分の部下とのあいだで乱闘騒ぎがあった件でのお咎めと考えた。憂鬱な気分で受話器をとった。
「オズワルド大佐おはようございます。先週の乱闘騒ぎの件ですね、すべては村長を交えて決着がつきましたのでご安心ください。」
「いやカールマン大尉、そんな些細な事はもうどうでもよくなった。実は大変なことが起こったのだ。」
「大変なこと・・・と申しますと?」
一番憂鬱だった事を些細な事と一蹴されるほどの事態が起こったことをカールマンは推測した
「よく聞くんだ、ロシア艦隊40隻がおまえの担当のカムラン湾に1週間以内で到着するのだ。しかも7500名の将兵を乗せてだ。」
「何ですって、ロシアの艦隊というとあの世界最強と言われているバルチック艦隊ですか。」
「そうだ日本海軍との決戦を控えて最後の寄港地に選んだのがよりによってお前の担当のカムラン湾だ。お前もよくよくついてないな。」
「状況はよくわかりました。で、現地の私はこれから何をすればいいのでしょうか?」
叱責を免れてほっとしたカールマンは尋ねた
「カムラン村の治安維持と石炭の補給任務だ。たしかお前のところに10人ほどベトナム人が荷役労働者として働いているな。」
「はい、いるにはいますが連中ときたら毎日時間どおりに来ないしちょっと目を放すとすぐにサボる始末です。しかし唯一飯の時間と家に帰る時間だけはきわめて正確です。正直使いづらいことこの上ない連中です。」
「そうか、石炭の補給効率を知りたい。彼らベトナム人を使って補炭船からわが軍艦に通常1日どのくらい補給が出来ているか?」
「日中の暑い中の作業ですから倒れられても困りますので休み休みやらせています。現在10人で1日20トンが精一杯です。それでも連中は毎日文句を言っています。」
「20トン?それでは話にならんな、ロシア側の要求は1週間で3万トンを積み込めと言ってきている。」
「さ、3万トンですか・・・・桁が違いませんか?」
「違わん、正確な数字だ。40隻の艦隊が消費する量だ、そんなものであろう。単純に1日で計算すると4300トンだ。」
「それでも無理です、今の20倍以上の数字だ。」
「カールマン、戦時中は無理を承知でやらねばならない時がある。とはいえその数字の半分はロシアの水兵が夜間に補給作業をやるそうだから半分の1日2150トンを村から人数を手配して何とかしてくれ。」
「それでも今の10倍以上ですか・・・100人は必要ですね。かなり重労働ですから1日交代として2シフトで最低200人は用意しなければならない。」
「そうだ、司令部でも同じ意見だ。1日100名で作業、2交代で延べ200名は必要だな。なあにこちらもタダで働けとは言っていない、給金も用意しているので人集めの仕事はズンとかいう村長にやらすように。貴様は村長とは面識はあるな?」
「はい、先週の乱闘騒ぎの件もあって向こうはあまりいい印象は持っていないでしょうが話はできます。」
「よし、これは命令だ明日にでも村長のところへ行って以上を説明してきてくれ。」
「了解しました。」
「おれは今からデカルトに乗ってそちらに向かう、9時の出港予定だ。明日の昼にはカムランに着く。詳しくは現地で話そう。」
「わかりました、お待ちしております。」
カールマンは電話を置いた。懸念していた村民との乱闘騒ぎが不問になったことで心の負担は軽くなったが今はその数倍の責任が彼を覆ったのである。
※
その夜
カムラン村で一番大人数が収容できる居酒屋「カニの手」には部下数名を連れたカールマン大尉が飲みに来ていた。ここのカニ鍋は彼の大好物でもあったので毎週一回は必ず部下を連れてきていた。
「カールマン大尉、近々ロシアの大艦隊がここに来るって聞きましたが本当ですか?」
「ああ、わたしも聞きました。なんでもとんでもない数だそうですね。」
ビールジョッキを片手に部下たちがたずねた。
「ああ、お前たち耳が早いな。今朝サイゴン司令部オズワルド大佐から電話連絡があり、彼らは1週間以内にはここに到着するそうだ。艦隊の数は約40隻、兵員数は7500名、まるでひとつの町が移動しているようなものだな。われわれカムラン司令部の仕事は村の治安維持と彼らの停泊中の面倒をすべて見なければならない。しかもよりによってロシアの連中もベトナムにたくさんある港の中からこのカムラン湾を選ぶとはな・・・・われわれはついてないというべきだ。サイゴン司令部は現在こちらに輸送中の水と、食料と石炭の補給作業をわれわれに手伝えとさ。まったく現場の苦労も知らずに気軽なもんだよ。」
「水と食料は桟橋からクレーンで吊り上げてそのまま補給船の倉庫に直接搬入すればいいので難しくはないですね。問題は石炭ですね。」
「そうだ、石炭は各艦それぞれの石炭庫に積まなければならないからな。戦艦の石炭庫は防御の関係で装甲の一番下のほうに位置しているので水、食料のようにクレーンで直接下ろせないので人海戦術に頼るしかない。しかも今回その量は3万トンときた。夜はともかく暑い日中のこの作業は困難を極めるだろう。」
「私も一度だけサイゴン司令部でデカルトの石炭積み作業をしましたけど、はっきり言って死にました。日中は焼けるような温度になった甲板上で、給炭船から俵に入った炭をバケツリレー方式で順次に手渡していくのですがこのときに粉塵が舞って頭からつま先まで全身真っ黒になりました。この作業のおかげで今もで肺の中まで真っ黒になっているのではないかと心配です。」
「そうだな、どこの国の海軍も船乗りにとって一番つらいのは給炭作業だ。事実ここカムランでもこの作業中に何人もの部下が倒れているからな。そのために我々は暑さに強い10名のベトナム人をこの作業のためだけに雇うことにしたのだ。」
「ベトナム人、ああ、あの役立たずの連中か!暑さに強いという割りにしょっちゅう人が入れ替わってますね。」
「ああ、ベトナム人はちょっとしたことですぐに音を上げる。ましてこの作業は本当にきつい労働だからな、今もって定着率が悪い。」
「今回は40隻の艦隊、しかも3万トンですから、今の10名ではとても足らないですね。」
「そうだ、しかも1週間で作業を終えるように指示されている。考えられるか?3万トンを1週間でだぞ。計算では作業を1日おきの2交代として村の若者を200名ほど借り出す必要がある。」
「なあに、ここインドシナは俺たちフランス帝国の領土だ。そんなもの鉄砲一丁で脅せば何百人でも簡単に引っ張ってこれるぜ!」
そうとう酒が回ってきた乱暴な部下からの意見にたいしてカールマンは
「ジャック兵曹長、飲み過ぎだ、おまえは酒には注意しろあれほど言っているだろう。先週もその勢いでベトナム人とやり合ったばかりだろうが。少しはごたごたの後処理をするおれの身にもなってみろ!」
「ち、わかったよ大尉殿、この一杯で終わりにします。しかし植民地の住人たちどもはおれたちの命令を聞く義務があるはずだ。違うのですか?」
「そのとおりだが、知っての通り今ではそうは簡単にできなくなったのだ。」
「お利口、ポールのせいですな。」
「そうだ、今の総督ポール・ボーはすべての植民地の人民に対しては人権を尊重して丁重に扱えという主義だ。」
「け、前のポール・ドメールが懐かしいぜ!」
「同じポールという名前だが全く違う考え方だからな。ころころ方針を変わられると現場は苦労するよ。」
「そうだ、以前のポール総督時代はこの店でも何度もツケを踏み倒してもお咎め無しだったのが、今ではいつも現金払いときた・・・・まったくやってられないぜ」
「植民地の住民に人権など必要なし!」
「昔のポールに乾杯!ポール・ドメールに乾杯!!」
「乾杯!」
「ポール・ポーはくそくらえ!」
「くそくらえ!」
何度もジョッキが重なり合う
「おーい、おやじそろそろ勘定だ!」
「はいはい、カールマンさんいつも御贔屓にありがとうございます。」
もみ手をしながら店主のファットが出てきて答える。
「贔屓も何もこの村には大人数が入るまともな酒場がここしかないだろうが!まあカニ鍋だけは気に入ってるがな。」
「さようで。しかし先ほどのお話をちょっと小耳にしましたがなんでもロシアの大艦隊がこの村に入ってくるとか。それは本当でしょうか。」
「ああ、1週間以内に荒くれた白熊が船に乗って大勢やってくるぞ。やつらはウオッカと女が大好物だ。できるだけたくさん用意しておけよ、うまくいけば大儲けできるぞ。」
「これはこれは、いい儲け話の情報ありがとうございます。」
「せいぜいがんばって儲けることだ。今日の勘定はここに置いていくからな。おいジャック行くぞ!」
「毎度ありがとうございます。」
「おい誰かふらふらで歩けない酔っ払いジャックに肩を貸してやれ。」
大勢のフランス将兵が肩を組んで歌う「ラ・マルセイエーズ」が次第に遠くなっていった。