ことのは Wait For You.
「先生。結婚してください」
「前にも言ったと思うけど、僕が教授になったらね」
誰かと誰かのお話。
*21歳。春。
大学四年に配属になった研究室で、その人に出会った。
困ったように眉を寄せて笑う笑顔に。
高くもなく低くもない、よく通る心地の良い声に。
私は一目惚れをしたのだと、思う。
気が付くと、既に体は動いていた。
「蓮見先生!」
初めてのゼミを終えた後で、去っていく後ろ姿を呼び止める。
呼び止めた相手は振り返り、その笑顔を私に向ける。
その笑顔に少しだけ怯む。
「さっきのでわからない事でもあった?」
「先生。結婚を前提にお付き合いしてください」
まずいことを言った、と思った。
いくらなんでも、初対面の相手に言うことじゃない。
その証拠に、先生がフリーズしてる。
いきなり(しかも初対面)そんなことを言われたら、無理もない。
言ってしまった後になって、自分の仕出かしたことに恥ずかしくなる。
俯いて、抱きしめた教科書にいっそう力を入れる。
「え…と、保田くん、」
ためらいがちに呼ばれる名前。
弾かれたように顔を上げる。
何か思案しているような先生の顔が目に入る。
「さっきの返事なんだけど」
かぁっと顔が熱くなる。
いっそのこと、笑い飛ばして欲しいような気さえする。
そのほうがマシかもしれない。
「……僕が教授になったら、ってことで」
先生の口から出たのは、ただただ優しい言葉で。
困ったような笑顔が、先生の気持ちなんだと悟った。
*24歳。春。
あれから、3年が経った。
大学を卒業し、そのまま大学院へと進学した。
大学院修士課程も、今日の学位授与式をもって終了。
今春からはここではなく、H大の博士課程へと進学する。
一目惚れは憧れと恋になっていた。
「蓮見先生!」
学位授与式の後で先生を探す。
この日の為に用意した袴のままで。
研究室棟へと向かう先生の後ろ姿を捕まえる。
「あ、保田くん」
いつもの笑顔を向けてくれる。
それが、担当した学生へと向けられたものでも、喜んでしまう自分が悔しい。
「おめでとう。綺麗だね」
「先生。結婚してください」
懲りないな、と自分でも思う。
でも、ちゃんと伝えたいと思った。
「前にも言われたね。あぁ、ちょっと待って」
先生がおもむろに持っていた紙袋から、ラベンダーの小さな花束を取り出す。
そして、そのラベンダーの花束は私の手の中に収まった。
「前にも言ったと思うけど、僕が教授になったらね」
「結婚してくださるつもりもないでしょ? 先生?」
上目遣いで少しだけ睨んでみる。
どうせ、冗談としか受け取ってもらえないのはわかっているつもり。
「ははっ。どうだろう?」
そう言って笑った先生の眉が、困ったように下がる。
それが先生の心情なんだと、その時の私は感じた。
*27歳。春。
なんとか無事に、H大の大学院博士課程を終える事が出来た。
この春からは、母校であるC大工学部の建築学科の助手として採用してもらえることになった。
自分でもこの3年間、よくやったと言えるほど、頑張ったと思う。
競争率の高い研究者の職にも着く事が出来た。
それもこれも、ただ一つの目標の為。
深呼吸を一つ。
目の前に立ち塞がる小さなプレートが掲げられたドアが、こんなにもプレッシャーだとは。
『蓮見和尚准教授研究室』
意を決してノックする。
「どうぞー?」
懐かしい声がした。
会うのは3年振りのはず。
「失礼します」
申し訳程度に言いながら開いたドアの中は、相変わらずの場所だった。
「やぁ、久しぶり。まぁ、座っていて?」
「あ、はい」
先生はそう言いながら、こちらに目もくれずにコーヒーメーカーからカップにコーヒーを注ぐ。
応接セットに促され、幾分くたびれた様子のソファに腰を下ろす。
そして、部屋の中を見回す。
本棚に紛れ込む、明らかに研究には関係のないだろうオブジェ。
いつからあるのかわからない、育っているのかすらわからない観葉植物。
相変わらずの雑然さが先生らしい。
「何? ニヤニヤして。なんか面白いものでもあった?」
目の前にコーヒーカップが置かれる。
「いや、変わってないなぁと思いまして」
テーブルを挟んだ向かいに先生が座る。
卒業生一同で贈った先生専用のマグカップを手に。
「そうそう変わりはしないさ」
目が合う。
微笑む先生につられて笑った。
「何はともあれ、おめでとう。これから、よろしく頼むよ」
「こちらこそ、ここに戻って来ることが出来て嬉しいです。若輩者ですが、よろしくお願いします」
「でも、なんだって伊勢になんか推薦を頼んだんだ? 担当教官は僕だったんだから、僕に頼めば良かったのに」
珍しく不満そうに唇を尖らせる。
いつも落ち着いた印象なだけに、なんだか可愛らしい。
「伊勢先生には夏に学会でお会いした時に薦められたからですよ。でも、蓮見先生だって推して下さったんでしょう?」
残念ながら、蓮見先生には卒業以来、会うことはなかった。
それはもう、避けられてるんじゃないかと思うほどに。
「そりゃ、そうだけどさぁ」
どこか恨めし気な上目遣いで私を見る。
学生の頃には見ることのなかった仕草。
これだけでも大学の職員になった甲斐はあるかも知れない。
「蓮見先生、」
「ん?」
「私が准教授になれたら、結婚してください」
これで拒否されたら、もう諦めようと思っていた。
もう思い続けるのはやめようと。
「僕、今年34歳なんだよね」
「知ってますってば」
今度はこちらが唇を尖らせる番だ。
今更、歳の差でなんて、断らせたりはしない。
「いいよ。わかった。約束するよ」
「……はい!?」
今までとは違う反応に、声を上げてしまう。
「だから、保田くんが准教授になったら結婚しようって言ってるの。……って、おい……」
先生の返事を反芻してやっと意味を理解した途端、目の前が滲む。
泣き顔なんて見せたくなくて、両手で顔を覆う。
「……泣くなよ。困る」
耳元であの心地好い声が囁く。
顔を覆う手を払われ、その大きな手で目元を少し乱暴に拭う。
そして、その大きな温もりに抱きすくめられた。
「……悪い。泣かせるつもりはなかったんだ」
子供をあやすように背中をぽんぽんと叩かれる。
中々、思うように涙が止まらない。
「……先生、ごめっ」
「……そのごめんなさいは、どういう意味で? 今更冗談でした、とかやめてね?」
悪戯っぽく言われる。
「……先生こそ、冗談でしたとか」
「おいおい。僕は随分信用がないんだな。三年前には意思表示してたと思うんだけど?気付いてなかった?」
そう言いながらも、先生は優しげな笑顔で。
もう一度、耳元に唇を寄せて囁いた。
「ラベンダー、の意味はわかった?」
*ラベンダーの花言葉……あなたを待っています