交差する光線
――北側秋津はあまり社交的な奴じゃない。
かといって、全く話さないやつでもない。
親しい男友達はいるし、教室でも適度に発言するときはしているように思う。
ただクラスの全員とは話していないように思う。
例えば木島奈々とか。
彼女と話しているところを見た記憶は無い。
要するに、木島奈々は北側のことをあまり分かっていない。
北側の能力のことも、もちろん知っているはずがない。
「北側くんには、変なものが見えてるんだよ。人の背中に星が見えるとか? そんなのあるわけないじゃん」
こんな質問だって当たり前だろう。
彼女は疑問符を投げかける。
それを聞いた北側は少し不機嫌にこう言う。
「嘘なんかついてない」
冗談には聞こえるけどな。
木島の反応は普通なのだろう。見えるとかなんとか信じるわけがない。
木島はそれを噛みしめるように聞き取ってから、こう返す。
「でも、いいセンスだと思うよ。特にこんな星の綺麗な日にさあ」
そう言って木島は教室の窓枠に手を添えた。
顔は窓の向こうを向いていた。
紫っぽい空に一番星が瞬く、遠くで二番星も光り輝いていた。
外の明るさが徐々に消えていく代わりに、星が照らしているような空だった。
「私ね、天文部なんだ。毎週金曜日、日の落ちた後、このくらいの時間にね。屋上に上がって星空を見るの」
木島はそう言った。
「それが一番好き」とも付け加えて。
「ホントは星が欲しいんだ。でも、星は手でつかめない」
「遠いだけじゃないよ。掴みきれないくらい量が多いの。私達人間の住む地球、その地球が属する太陽系が、これまた属している銀河系、これだけで計2000億個の星があるとされている。そして、宇宙には銀河が1000億個以上、絶対に描ききれなんか出来ないんだ。ほんとだよ」
その時、木島がこっちを振り向いた。
「だからさ、私の背中の星空……だっけ。描ききれるなら、描かせてあげてもいいよ」
え。
気がつくと、窓の向こうが完全に深い青い色になっていた。
遠くの町の灯が輝いて、煌めいた。
木島の返事を聞いた北側がどんな顔をしているかも、それを木島がどう見ているかも分からない。
なのに。
「分かった」
男の声が頷いたような声で言う。
「やってみる」
それを聞いた木島奈々が真っ暗な教室の中で――――笑ったような気がした。
暖かな日の光が差し込む気がした。
ここには何もないのに。
濃い青が細かな表情さえ奪っていくのに。
星空の小さな明かりが集まって、スポットライトみたいに二人だけを照らし続けている。
そんな幻想が頭をよぎった。
これでもう北側の中にはびこっていた何かは溶けたのだろう。
何も成し遂げてはいないのに、
鮮明な虹色の風が流れたようなこの空間を、
穏やかなこのワンシーンを。
喜ばしいはずなのに。
僕はなぜか――『気持ち悪い』と思った。
口に手を当てた。
それでも止まらない衝動がいても立ってもいられず、その場から出ていかされた。
廊下に出て僕は駆けて行くしか無かった。
怖い、僕は自分が怖い。
彼らを見て、僕も思い出してしまった。
鮮やかに君との思い出を頭の中で掘り返してしまった。
純粋に染められた何かを。
淡くて甘くて、朗らかな、清らかな美しい思い出を。
それが彼女の取り分だったのに。
花の笑顔を浮かべる少女が僕にとって一番大切だったのに。
君がいた花壇のパンジーも、それを汚した全ても。
もう何も思い出したくないのに。
でも、悪魔が不気味に囁くのだ。
「――貴方は自分が簡単に幸せになれるなんて思わないで欲しいな」
風の声が聞こえた。
雲を切り裂くようなツンとした声。
――でも、それは悪魔の声じゃなかった。
少女の声だ。
それも聞き覚えのある声が、僕の背後で響いた。
立ち止まると、そこは下足室の前だった。
もう誰も残っていないはずだ。
教室に居るあの二人以外は、おそらく天文部だけだ。
彼らは今頃屋上にいることだろう。
暗くなりかけた青色のこの場所に、他に誰が居るというのだろう。
誰が。
「こんばんは、ってさっきも挨拶したものね。私が誰なんて貴方には分かることでしょう?」
女が口角が上がりきった口から発せられる、独特のひきつった声でこう言った。
「――ねえ、『元』二重人格の水面くん」
振り返った。
そこには少女のシルエットが映っていた。
顔は暗くてよく見えない。
けれども、その体躯に見覚えがあった。
見当をつけて僕が答える。
「――木島奈々だな。お前」
――正確には『ドッペルゲンガー』の。
「さっすがーヒューヒュー」と言いながらも感情のこもっていないぞ、その声は。
感動も何もない無機質な声が余計心を抉る。
目の前の少女は僕を傷つけるのが得意のようだ。
彼女は僕に対して、銀色のナイフを投げつけた。
目には見えない鈍い毒を刃に仕込んだ、見え見えの罠。
それに乗っかる僕は滑稽かもしれない。
愚かな僕は、避けられずに全てを受け止めてしまう。
「ねえ、君には私が誰か分かる? 君が誰かさんに裏切られ、又誰かさんを犠牲にして、安穏を過ごしていることを知っている人間を。君はどこまで知っているの?」
土を掘る音に混じって、胸から血が吐き出された気がした。
真っ当な事を言われた。
目の前の彼女が言ったことは全部真実で、嘘など一つもない。
でも、彼女は僕のことを知りすぎている。
多分あの事件に間接的に関わった一条よりも。
そして、そんなことは絶対にあるわけがないのだが、当の本人である僕らよりも知っているような言い振りだった。
まるで、あの『悪魔みたいな』。
「――『悪魔みたい』とか思った? 残念でした。私は悪魔ではありませんの。うふふ」
心を見透かすような、淡い笑い声が耳に響いた。
彼女は一体何なのだろう。自分を見せびらかすような真似をしているはずなのだ。
僕の目の前で『木島奈々のドッペルゲンガー』として現れたのは、間違いなく彼女であり、僕を挑発するようなことも。ただ僕の過去も全部知っている人間なんて一人しかいない。
でもそれは『あの人だけ』なのだ。
それ以外に知っているやつなんかいない。
木島が知るわけ無い。
北側もだ。
後、ほぼ分かっているであろう人間は、僕らを除けば一条だけ。
でも、あの変態野郎が女だった記憶などこにもない。
ここまでヒントが出尽くしても、目の前のドッペルゲンガーが何者かが分からない。
ただこれだけは分かる。
――こいつは木島奈々とは一切関係のない存在だということ。
おそらく姿かたちを変えられる怪物だ。
シェイプシフターと呼ばれる怪物。
「考えこんでも無駄。だっては私はこの物語には本来登場しない人物なのだから」
それはどういう意味なのだろうか。
僕には計り知れない何か、別のものなのだろうか。
「あえて言うのならそう」
真っ白な月の光が彼女を照らした。
星さえ蹴散らすような勢いで彼女はそこに居た。
異界からやってきたその少女はいつも突然に現れてきてしまう。
こうして彼女はこの幻想的な空間を、たったひとりで作ってしまった。
その時、少女は魔法を囁いた。
戦いの幕はここに切られる。
落ちた幕はどこまで落ちていくのか、いっそ深い谷底にまで繋がっているのかもしれない。
それでも、彼女は美しい声で軽快にこう挨拶をするのだろう。
「――悪魔を狩る者――フレスコ、とでも呼んでくださいな」
彼女こと『フレスコ』は、この日初めて姿を表した。
もしかしたらこれが始まりだったのだろう。
――あの日、悪魔が一人の人間に囁いた。
そのせいで僕ら全員が不幸になった。
花壇の花が咲く前に、エンドロールが流れた物語。
そのせいで僕は君だけがいない世界に連れてこられた。
誰かの独りよがりな夢のせいで、失った代償はあまりに重くて、脆く。
たとえ、彼女が何もかも忘れたとしても。
僕だけは永遠に少女を忘れたりなんかしない。
――そう誓った物語が、また動き始めたのは。




