宝の持ち腐れ
――過去は僕らを縛り付けるものでしかない。
この言葉は誰からの引用でもなく、僕自身の身から出た言葉だ。
木島奈々。彼女にだってほじくり返されたくない過去がある。
僕自身がそうであるように。誰もが知られたくないことを持っており、誰もが傷ついて悲しんで、たくさんの何かを失っていくのだ。
僕はそのことを知っている。北側はどうなのだろうか。
「―――水面」
最初に声を上げたのは、北側だった。
北側秋津は小さく唸る。
考えこむ様に下を向いた。
と思ったら、顔を上げて僕の目を真っ直ぐ見た。
「――――違う」
えっ?
「多分違うよそれ」
北側はもう、迷ってなんか居なかった。
揺るぎない目がその証明だった。
まるで結果だけを見据えたような、安定した雰囲気に焼かれる。
足元がぐらつきっぱなしの僕とは正反対の何かが襲いかかった。
僕はたじろき、後ずさりする。北側に近寄ると生気を吸われてしまうような気がした。
でも、もう手遅れだった。
僕の五感はもうとっくにこいつに侵されていた。
何故か鼻に異様な臭いを感じた。
掃除をした後の、雑巾の臭い。
ホコリと砂の混じった独特の臭いが僕を、美化された世界から現実へと引きずり出す。
北側は容赦なく発言した。
「確かに水面の言うとおり、俺の見ていたものは『人の心』だったのかもしれない」
北側はディベートの始まり文句のような定形文を述べた。
わかっている。
その後は反対意見を述べるんだろ。
もちろん、この後に続くのは反対意見だった。
けれども、その着眼点は僕には想像もつかなかった点で。
「でも、それだと『小さすぎる』だろ」
――小さい。
それはお前の体が大きすぎるからだよとも思ったが。
北側の意見はまだ続く。
「もし俺の見ていたものが心の全体とすれば、水面の存在意義は『二重人格でしか無い』んだろ。でも、俺は今日水面の『二重人格らしいところ』を見た覚えがない」
いや、普通の二重人格に『らしい』なんて無いって。
人間のアイデンティティーはそれだけでは独立しないんだよ。おそらく。
「それはお前が僕とあまり関わったことがないから」
我ながら説得力の無い。
絶対反論されるだろこれ。
「いや関係ないだろ」
ほらきた。
北側は理論たてて説明しだした。
「――仮に『水面の心そのものが二重人格』なら、水面に関わった時点で気がつくべきだ。でも、俺の知る限りそうではなかった。じゃあ、ほとんどの人間は『水面の中の二重人格を知らない』んじゃないのか。俺みたいな能力でも無い限りは」
窓の向こうでは夕暮れが最終を迎える。
オレンジを通り越して赤く照りだし、最後の力を出し絞るかの様に四方八方に散らばった太陽光はなぜか集結して照らしていた。ちょうど北側のいる方向を。
「――よって結論からいうと、『水面という存在は二重人格が全てではない』。なら、『俺がみた文字は全てではない』。一部の何かだ」
北側の顔面が逆光で見えないが、きっとふんぞり返った満足気な表情でもしているのだろうか。案外いつもの冷静な表情なのだろうか。どちらであっても非常に腹が立つことには違いなかった。
「それにだ」
北側は付け加えをした。この付け加えは無駄だったように思う。この言葉は過去の僕にとっては打撃でしか無く、ただ追い詰めるだけの暴力にしかならないからであって。今の自分が。
「――――人はどんなに頑張ったって、心なんて大事なものを失くすことなんか出来ないだろ」
僕は真っ白になった。
ぽっかりと空間が空いた。
次の瞬間、音がめぐった。
懐かしい彼女の声が、聞くだけで癒やしに思えたあの笑い声が、やり場のない何かで溜まった涙で埋まる声が、ザラザラの心に触れて血を流した。
あの時一度だけ一条が僕を叱り、吐き出された声が余計に生々しくも思い出せた。
北側は知らないであろう事件であり、それが僕の中を流れる川をよぎりだした。
『――大好き』
その声で、僕らの運命は狂いだしたのに。
「――どうした水面」
気が付くと辺りは薄紫色だった。北側の声で目が覚めた。
廊下から喧騒が聞こえたような気もするが、こんな時間に誰も居るわけがなかった。
僕は気を取り直した。
「なんでもない」
僕の気のせいだ。
「ならいいが……」
北側は続ける。
「でも、水面。これだけは真実なんだ。俺はドッペルゲンガーを見た。現れたんだ。確かに俺の目の前に彼女はいた」
まだ北側はドッペルゲンガーを信じている。おいおいそれは終わった話では無いのだろうか。
「だからそれはお前の見間違いだって言ったじゃねえか」
僕の反論。続きは北側はこう言う。
「彼女には文字があった。木島じゃない何かだ」
また曖昧な表現が出てきた。
そもそも文字がでてきているのは本来当たり前のことであってだ。普通ではみえるものが木島には見えなかったことが問題だ。
いっそそれが木島じゃなきゃいい。
「そりゃ街中歩けば三人くらいそっくりさんだっているだろうよ。気にしすぎだろ」
顔の似ている人間なんかよくいるさと流した。
けれども、北側はまた黙りこんだ。だめだ、ここに来て聞き耳を持たなくなった。せっかく僕が順路立てて説明したって、この変態筋肉は聞いていないだろうよ。
どうしようも無くなった僕は、とりあえず、教室の天井に挨拶した。こんにちはー、あー、ばからしいですよねー、あははー。
口から二酸化酸素が出そうだ。あー体が重い。あー、もうーやだーー。
「街中なんかじゃない。俺がドッペルゲンガーと出会ったのはこの『学校』しかも、この『教室』で」
北側がまた喋った。
というか新情報だろそれ。
「――教室?」
お前そんなこと言ってなかっただろうが。ああ、もうめんどくせえ。
「いつあったんだ」
「先週の金曜日、このぐらいの時間帯に見た。一瞬だったから、背中の文字を読み取れなかったが」
先週の金曜日って、HR早々帰ったから覚えてねえーよ。
はぁ、段々疲れてきた。
コイツは考えの変えられない頭の固いヤツだしな。
もうどうでも良くなってきた。
能力も理論もこの現実では必要の無いものなのだし、いっそどこかに捨て去ってまっさらになればいい。
というか、思考は諦めよう。
ええい、もうヤケになれ!
僕が叫んだ!
「――じゃあ、それ木島本人だよ!」
「――なんで私?」
――――――ん? 今、ノイズが聞こえたような……。
この後、見知った声が聞こえてくる。
「もう二人とも。教室閉めるからさっさと帰りなよ」
どこからかはわからない。振り向くと見知った少女がいて、その少女が続けてこう言うのだ。
「ん、どうしたの水面くん……ああ、もうさすがにあれが冗談だったって分かってるからね。いちいち気にしてられないんだからね。もう」
僕の心を見透かした風の、ちっともわかっていない回答だった。
その少女は髪の毛を二つくくりをしており、青色のゴムと赤色のゴムが、黒髪の上に乗ってるようにも見えた。
――――木島奈々だった。




