題名のない物語(もう1つの『貴女の為の物語』)
おもえば、僕の世界に始まりはなかった。
光も音も色も、何もなかった。
僕が作られた日の事ですら、僕は何も知らなかった。
その世界が、ある時突然白黒になり、僕は世界に色がある事を知った。
その白黒の世界は、塗り絵に少しずつ色を重ねていくように、みるみる内に色鮮やかな色彩に染まっていく。
抱き締められる度に、目には見えない温かさの心地よさを知った。
僕を抱き締める温かい腕、空の碧さ、桜という花の美しさ、見るもの感じるもの全てが美しかった。
教えてくれたのは小さな男の子だった。
男の子が僕を抱き締めて話しかけてくれる度に、不明瞭な僕の世界にまた一つ光や色が加わって、より豊かな世界になっていく。
温かい純粋な愛情を注がれて、僕は僕が何物なのかを理解した。
白くて小さな犬のヌイグルミ。
それが僕だった。
動く事は出来ないけれど、毎日はとても楽しくて、とても幸せだった。
男の子が大きくなっても、ずっと一緒にいられたらいいな。
そう思っていた。
だけどそうじゃなかった。
「僕を殺さないで。」
それが男の子の最期の言葉だった。
涙を流しながら言った最期の言葉を、僕は男の子に強く抱き締められながら聞いた。
ママは戸惑いを隠そうとして失敗し、大粒の涙を流した自分をそれからずっと責める事になった。
男の子の言葉の意味が分からなかったのは、僕だけじゃなかった。
パパもママも、お医者さんもみんながビックリして言葉を失っていた。
長い戦いのせいで、男の子の身体は疲れ切っていた。
戦い続けた小さな身体のあちこちで、白旗を揚げる兵士達が現れ、ただでさえ小さな身体は日に日に細く、更に小さくなっていった。
ママもパパも必死だったけれど、男の子の身体の中で行われている戦いの渦中に行ける訳じゃない。
男の子も必死だった。
痛さを堪えて、ただ生きたいと願った。
ママとパパを悲しませたくなかったから。
やがて男の子が戦いに敗れると、ママとパパは笑う事を放棄した。
家の中に重く暗い空気が流れる。
外で気持ち良さそうに吹く風も、家の中に入ると悲しみという重さに負けて澱み、暗く重い空気に変わった。
僕に出来たのは、見守る事だけ。
僕の世界に色を与え、人の温かさを教え、光を与えてくれた誰よりも大切な人だったのに、何も、何も出来なかった。
今は、ママやパパが苦しんでいた。
それなのに、また僕には何も出来ない。
初めて何も出来ない自分をもどかしく思った。
暖かい季節や寒い季節が訪れては去り、訪れてはまた去っていった。
でもそんな事には気付きもせず、男の子の服や写真を見ては涙を流して泣く声だけが家に響いた。
ママの事も心配でたまらなかったけど、何より僕は男の子の最期の言葉が忘れられなかった。
痛みも苦しみも辛い事もない場所に行ったはずなのに、男の子が今も苦しくて泣いているような気がして仕方なかった。
そんなある日、聴こえるはずのない声がした。
とても小さくて途切れ途切れにしか聴こえなかったけれど、どれだけ時が経っても間違えるはずのない、懐かしくて大好きな、あの声だった。
気のせいなのかもしれない。
だけど、気のせいであったとしても、キミの声がまた聞けてすごくすごく嬉しいよ、と、僕は心の中で話し掛けた。
声は時間と共に少しずつ大きくなっていった。
そして僕は、その声が泣いている事を知った。
どうしてまだ泣いているの?
何がそんなに悲しいの?
お願いだから泣かないで。
僕は必死に話し掛けた。
声は答えず、ただ泣き続けた。
泣かないで、泣かないで。
願う事しか出来ない僕は、どこまで役立たずなんだろう。
ママには男の子の声が聴こえていなかった。
自分の泣き声しか耳に入らなかったから。
『ママ…ママ…僕を…』
ねぇ、ママ。
泣き声の合間に、悲痛な言葉が聴こえているでしょう?
最期の言葉の意味を、どうか分かってあげて。
どうか自分の悲しみだけに捕らわれないで。
お願いだから、あの声に耳を傾けて。
神様、もしも貴方が本当にいるのなら、どうか願いを叶えて下さい。
僕に魂があるのなら、喜んで差し出します。
男の子の泣き声を聞かなくて済むのなら、何でも差し上げます。
だからどうか…。
それとも神様は、人間のお願いしか聞いてはくれないのだろうか。
長い夢から覚めたようだった。
気がつくと、僕は何もない白い小さな四角い部屋の中にいた。
僕は何も出来ないヌイグルミではなくて、男の子の姿をしていた。
部屋の真ん中で、ママが男の子の服を抱き締めて泣いている。
「ママ。」
その声に、ママが気が付いた。
真っ赤な目で『僕』を見ると、両手を広げて『僕』を強く抱き締めた。
名前を呼んで、呼んで、呼んで、呼ぶ。
胸に込み上げてくる感情に名前をつけられないまま、『僕』は話し始めた。
「ママ、時間がないからよく聞いてね。」
『僕』を抱き締めるママの両手の力が少しだけ弱まった。
「『僕』は幸せだったよ。
誰が何て言おうとも。
ママやパパにたくさん愛して貰えて、『僕』は本当に幸せだった。
毎日とても楽しかったよね。
怒られた事もたくさんあったけど、でも毎日温かかったよね。
いっぱい一緒に笑ったよね。
嬉しくて泣いた事もあったよね。
なのにどうして楽しかった思い出までもが悲しみに染まってしまうの?
僕は産まれなければ良かったの?
ママやパパを悲しませ続けている僕はそんなに悪い子なの?
どうして思い出の中からも僕を殺そうとするの?
楽しかった事もたくさんあったのに、なぜ泣いてばかりなの?
もうママに抱き締めて貰えないとしても、夢の中では笑顔でまた会いたいよ。
一緒に笑っていたいんだよ。
産んでくれてありがとう。
たくさん愛してくれてありがとう。
僕に注いでくれた愛情のせいで、今、ママが苦しんでいるんだとしても、楽しかった思い出まで悲しみに染めないで。
『僕』を、悲しいだけの存在にはしないで。
楽しかった事を忘れないで。
ママが大好きだよ。
いつまでも笑っていて欲しいよ。
…それを伝えたいのに伝えられなくてずっと苦しかったんだ。
お願い、ママ。
泣かないで。笑っていて。」
ママは震えながら何度も頷いては名前を呼び、頷いては名前を呼んだ。
鼻の奥がツンとした。
ツンとして、ジンジンした。
「それが、人間が泣きたい気持ちをこらえる時に起きる現象だよ。」
後ろから声がして振り向くと、背の高い男の人が立っていた。
「時間だ。」
そう言うと、ママが『僕』を抱き締める感覚が少しずつ朧気になっていった。
砂のようにサラサラと指先から『僕』が崩れていく。
目の前で『僕』にもたれるように座り込んで泣くママの頭を三本の指で撫でながら、僕は言った。
「神様、ありがとうございました。
ヌイグルミの僕の願いまで聞いてくれて。」
ママにはもう僕の声は聞こえないようだった。
「僕は神様なんかじゃないよ。
人間が勝手にそう呼ぶだけだ。
僕が本当に神様だったら…。
君の一番の願いを叶えてあげられただろう。」
あぁ…。
僕も自分の事だけでいっぱいだったんだなと、その時に気が付いた。
神様も、とても悲しそうな顔をしていた。
「僕に使えるのは不完全な奇跡だけ。
その者の望む一番強い望みを力の源にして、二番目の願いを叶えてあげる事しか許されない。
それなのに、君たちは代償を払わなくてはいけないんだ。
僕は、神なんかじゃない。」
砂になってしまった左手の代わりに、右手でママの頭を撫で続ける『僕』に、神様は小さな声で「すまない…」と言った。
「だけど貴方がチャンスをくれました。
願う事しか出来ない僕に、貴方が応えてくれたんです。
僕がどんなに望んでも出来なかった事を、貴方がやらせてくれたんです。
だから、きっと人間は貴方を神様って呼ぶんですね。」
頬に熱いものが流れてる。
あぁ、これが涙なんだと知って少し嬉しく思う僕がいた。
涙が温かいなんて、ヌイグルミだったら分からなかった。
「男の子が命を持たない君に、魂を与えた。
純粋な愛情が、君に生き物の感情を与えたんだ。
そして君は、男の子の病気が治るよう願った。
引き替えに何でも差し出すと。
君が僕を引き寄せた。
僕は君の祈りを知りながら、それを叶えてあげられなかった。
魂を持つ君がヌイグルミとしての生を終えたら、君はまたいつかあの子と一緒の未来に行けたのに。
魂を代償にしてしまった君は、また無機物のヌイグルミに戻ってしまう。」
神様は泣いていた。
人って、生き物って何て難しいんだろう。
「だけど、ママに聞こえないあの子の願いを、伝える事が出来ました。
こんな僕にも出来る事があると知れて、嬉しかったです。
ありがとうございました。」
それが僕の最後の言葉だった。
神様でも出来ない事があるなんて。
それなら、人間が悩んで苦しむのは当たり前な気がした。
僕にはよく分からないけれど。
真っ白な部屋から光が消えていく。
塗り絵の上に塗られた絵の具が、水に流されて溶けていくように、僕の世界も終わりを迎える。
悲しくなんてない。
キミが泣き止んでくれるなら。
いつの日か、家にも笑顔が戻るだろう。
ママやパパの笑い声。
『僕』の世界で一番大好きな声。
お読み下さり、ありがとうございました!!
感想等、お待ちしております♪
『貴女の為の物語』もよろしくお願いいたします!!(笑)