永遠の思い出
「遅いな……」
「そうですね……」
アルと朱里は冷たくなった食事に目を落としながら呟いた。箸一つつけられていない食事はとうに冷め切っていた。普段なら夕食時には帰って来ているはずの明とエドガーは夜になっても帰ってこなかった。隣に座るジルだけは食事を終えて熱い茶をすすっている。
「よくこんな状況で食べられるな……」
「食事をしなければ二人が早く帰ってくるとでも? それに二人が行ったのは帝国一の最重要機密場所。もっとも安全な所ではないですか。それに……」
「それに?」
ジルは眉根を寄せて何かを考え込んだ後こう付け足した。
「明様なら、きっと大災害からこの世界を救ってくださると思ってますから。ただの感ですけどね。だから今も戦っている……きっとね」
ジルの言葉になおも納得のいかない様子のアルが口を開きかけた時、外から騒がしい声が聞こえてきた。勢いよく戸が開くと、帝が部屋に入ってくる。
「母上!」
慌てて朱里が立ち上がると、恭しく膝をついて平伏した。帝国式の身分の高い物に対する礼儀作法だった。
「朱里……かしこまらずとも良い。それよりもここにいる物達に報告があって参った」
「報告……それは良い話か? 悪い話か?」
「両方じゃな。どちらから聞きたい?」
アルは眉一つ動かさない硬い表情で返事をした。
「良い話から」
帝はくすりと微笑んでこう答えた。
「良い知らせは、大災害が終わった。創造神明様がこの世界を救ってくださったのだ」
その言葉を聞いて部屋の外からも歓声の声が上がった。外で聞いていた召使い達だろう。部屋の中にいた三人も驚きながらもわずかに笑顔を浮かべた。しかしアルは喜びつつも、続きを聞く事に恐怖を感じていた。
「悪い話とは?」
正直聞くのが怖かった。なぜ明やエドガーが帰ってきて報告をしないのか? 忙しいはずの帝がわざわざ出向いたのか?
「明様とエドガーはもう帰らない。明様のいた世界にエドガーを連れて帰られたのだ」
その言葉の重みに三人は固まった様に固い表情を浮かべた。真っ先に立ち直ったのはジルだった。
「そうですか……。帰られたのならきっと無事でしょうね」
ジルの微笑みとは反対に、朱里は立ち上がって帝にしがみつく様に言った。
「そんなまさか! 兄上が国を捨てるだなんて! 母上、嘘だと言ってください」
「嘘ではない。朱里よ。これでそなたは次期帝になったのだ。もう少し落ち着きを持つ事じゃ」
朱里は涙をこらえる様に俯くと、ぎゅっと両手を握りしめた。それから振り返ってアルに何かを言いかけて口をつぐんだ。
アルはひどく憔悴した様子で俯いていた。そしてぽつりと小さく呟く。
「そうか……。明はアイツを選んだのか……俺は……」
アルの悲痛な声にその場にいた者はみな黙り込んだ。その時アルの頬を一滴の涙が滑り落ちた。
そして帝の言ったとおりに明とエドガーはいつまでたっても帰らず、代わりに世界に平和が戻ったのだった。
ーーーーー
アルは窓の外を見ながら昔の事を思い出していた。国を出て、世界を見て、秘境の帝国で見聞きした物。それらすべては今でも鮮明に覚えている。旅を共にした憎らしい仲間達の事も今となっては無性に懐かしく感じていた
そこに小さく扉を叩く音が聞こえた。
「陛下。碧海帝国、朱里殿下がお見えになりました」
「通せ」
扉が開くとアルの記憶よりずっと背が伸びて、大人びた朱里がいた。記憶の中の子供らしい表情はなりを潜め、凜々しくたくましく成長している。それでもアルはにやっと笑ってこう言った。
「変わらないな坊主」
「アルフレッド陛下もお変わりなく。まあオッサン臭くなりましたが」
「喧嘩売ってるのか? おまえは」
「いいえ。ご結婚するのでしたね。国王陛下にもなられたのですよね。おめでとうございます」
その皮肉めいた言葉に、アルは苦々しい表情を浮かべて近くにあったソファに座った。
「政略結婚だ……華無荷田国の姫が嫁いでくる。長年続いた戦争を終わらせる、両国の平和の証としてな」
アルの吐き出す様な言葉に、朱里は小さくため息をつきながら言った。
「まだ忘れられませんか? 明様の事」
「忘れるか! 忘れられるものか!」
即答したアルの言葉は魂から絞り出したような声だった。
「たぶん一生俺にとって一番の女だ。もう永遠に届かない片思いだがな」
朱里は悲しい表情を浮かべてアルの向かい側に座った。
「あれから3年たったのですよね。昨日の事のように、今でも覚えています」
朱里の言葉にアルは頷いた。憎まれ口を叩きつつも、あの時の思い出を共有できる数少ない仲間であった。
「あれからずっと考えていた。なぜ明は俺でなくエドガーを選んだのか……。そして俺は気づいたんだ。覚悟の差だと」
「覚悟?」
「国を捨てる覚悟だ。俺は明を自分の国に連れて帰ろうと思っていたが、自分の国を捨ててついて行くなんて考えもしなかった。アイツはそれをやり遂げた。それが俺とアイツの差だった」
「それは、アルフレッド殿下がこの国の唯一の後継者で、兄上には私がいたから」
アルはその言葉に首を振って否定した。
「そうかもしれない。だが俺の代わりがいたとしても、俺は国を捨てられなかったと思う。まったく未知の世界に飛び込む勇気などなかった。アイツはそれをした。俺の完敗だ」
朱里は帝が二人が帰らない事を告げた日の事を思いだした。もっとも感情が豊かなはずのアルが大人しく憔悴した姿を。
あの時から今まで、アルは敗北感に打ちのめされていたのだろう。それは一生消える事のない痛みなのだ。それを抱えたまま生きるのはどれほど辛い事か。
朱里がそんな物思いにふけっていると、アルがふっと笑って言った。
「おまえの方はどうなんだ。あの男女とどこまで進んだ?」
「そ、そんな鞠夜さんは僕の護衛と言うだけで……」
「誰も鞠夜の事だと言ってないが?」
にやにや笑うアルと対照的に、朱里は赤くなって狼狽していた。その動転ぶりから、この3年で朱里と鞠夜の関係に変化があったのは歴然だった。
朱里は赤い顔のままぼそっと呟いた。
「僕が兄上の用に強い男にならないと、きっと男扱いすらしてくれませんよ」
「なんだ? そんな程度で諦めるのか?」
朱里はアルを睨み付けて言い放った。
「僕は負けません! 兄上を超える帝に僕はなる! 貴方より立派な帝に!」
「ほう……面白い。受けて立つぞ、朱里」
自分の名前を呼ばれて、朱里は思わずぽかんと口を開いて固まった。まともにアルが朱里の名前を呼んだのを初めて聞いた気がしたからだ。
それはアルが対等の人間だと認めたからだろう。そうやって他者を認められるくらい、アルも大人になったのだ。三年という月日と、あの旅路は確実にアルと朱里を成長させた。
帝国と王国。それぞれを背負う者同士、それは大きな意味を持った成長だった。
二人は永遠に同じ痛みを分け合う者として、競い合い深い絆で結ばれていく。
そして後に二つの国は黄金期と呼ばれるほどの繁栄を享受するのだった。