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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
最後の日
94/95

結局

「結局、わたしたち二人だけだったね、最後まで」

 彼女は言った。

「え?」

 僕は頭を上げる。彼女の顔は日差しを背にして、比喩的な意味ではなく、うっすらと陰っていた。

「後輩のこと。わたしたちが卒業しちゃったら、もうこの同好会もおしまいかな」

 そう言って、彼女は自分の座っている傷だらけの机を、愛おしそうに撫でる。もちろん、小説同好会がなくなろうとも、その机はこの部屋の一部として使われ続けるだろう。しかし、確かにそれは、もうじき失われてしまうに違いないのだった。

「そんなこと言って、今までは後輩がいたら面倒だ、って思ってたでしょ」

 僕は言った。今まで……

「む、そんなことはないけど?」

「へえ、毎年ろくに新入生の勧誘もしなかったくせに」

「しよう、っていったら、カズが面倒臭がったんじゃない」

「そうだったっけ?」

 僕らは目を見合わせて、あはは、と笑った。それから、彼女はふと顔を下に向けた。

「どうしたの、そんな難しい顔して」

 僕は聞く。

「うん、なんていうか、ちょっと不安になっちゃって。この三年間、自分は何してたんだろう、って」

「そう」

 僕も返す言葉が見つからずに黙り込んだ。そんなことは僕は知らない。自分が何をしてきたかさえ定かでないし、直視したくもないのだ。そうじゃなくて、何か気遣いの言葉が求められているのだとしたら、尚更僕にはうまい持ち合わせはない。

「まあ、いいんじゃない? 別に、何かをするための三年間っていうわけでもないんだから。あれだよ、価値の蓄積」

「それじゃあ本当に、わたしが何もしてこなかったって言われてるみたい」

 そう言いながら、彼女は僕から顔を背け、振り返って窓の外を見る。見えるのは、校舎を囲む雑木林と、その向こうの青空。

「そんなわけないよ。君はよくやったさ」

「でも、やり残したことも一杯ある」

「それはみんな一緒だよ」

 会話が好ましくない方向へ向かっている。しかも、つい最近この手のやりとりを経験したような気がする。それが何だったのかは思い出せないが。とにかく、話題を変えよう。

「そういえば、春岡先輩は今どうしてるかな。もう大学は春休みだろう」

「そうね、どうせ、どこかでまた絵でも描いてるんじゃない?」

 彼女は、窓の向こうを見たまま言う。絵か。それはありそうだった。むしろ、バイトでせっせと汗を流しているような先輩の姿よりは、よっぽど想像しやすい。

「そうだ、“あれ”どうにかしないと」

 何を思い出したのか、彼女は座っていた机から飛び退いて、あるロッカーの前に立つと、

「ねえ、ちょっと力貸して」

 と言って、僕を手招きする。僕は何事かと思いつつ立ち上がる。

「これを少しだけ前にずらすの」

 何をしようというのかは分からないが、彼女はそのロッカーの左端を持ち、僕は右端を持った。そして、どちらからともなくせーの、と声を合わせ、ぎしりと粗い床の上でそれをずらす。すると、ロッカーの裏で、何かが傾いてがさっと音を立てた。頭を突っ込んで見てみると、ロッカー裏に、布を被せられた板のようなものがある。

「何かあるみたいだけど、なんだい、これ」

「出してみれば分かるよ」

 彼女は自慢げな、嬉しそうな声で言う。まあつまり、出せということだ。僕は床から僕の胸ほどの高さがあるそれを、けっこうな重さに難儀しながら、身長に引っ張り出す。途中で壁が行き止まりになってそれ以上板を引き出せなくなると、ロッカーを更に動かして、なんとか板の全体を取り出す。長方形のそれは、縦にすればこの部屋の窓をほとんど覆い隠せるぐらい大きい。そして、僕はようやく、それがどういうものか分かった。言われるまま、僕はそれを、窓の前の机上で、横向きにして窓に立てかける。

「これ、先輩が描いた絵かい?」

 僕が言うと、彼女は頷く。

「去年のわたしの誕生日に、先輩がくれたの。くれた、って言うより、押し付けられたのかもしれないけど」

「へえ、そんなことがあったんだ。意外と甲斐性あるんだね、あの人も」

「どうかな。それでその時から、もって帰るのが面倒でここに置きっぱなしにしてたの」

「それもなんだか酷いな」

「しょうがないじゃない。キャンバスの扱い方なんて知らないし、その後先輩ここに来てくれなかったし。でも、もうここには置いておけないよね」

 そう言いながら、彼女はキャンバスを覆っていた布をめくった。

 ある程度予想はついていた。それは、グラウンドの絵だった。朝のグラウンドの絵だ。前に、そう、ずっと前にも一度、先輩が同じものを描いているのをみたことがある。それはすぐに邪魔が入って、結局未完成のままになってしまったが。それも含めて、先輩は何度もグラウンドをモチーフにして描いている。けれど、朝日に満ち満ちたグラウンドそれ自体を彼が忠実に描き写したものは今まで見たことがなかった。もちろん、忠実にとは言え、現実のそれとは比べるまでもないが、しかしそれは、グラウンドそのものと言う以外言い表しようがない。芸術などではなくて、ただの写真だ。

 そのグラウンドの真ん中(といっても、かなり低い視点から描かれているから、キャンバスの中ではずっと奥の方になる)に、誰かが一人立っているようだった。四股の見分けさえも難しいほどぼんやり描かれているために、それが誰なのか、こっちを向いているのかどうかも分からない。その一人の他に、グラウンドに立っている者は一人もいない。

「これ、誰なんだろう」

 僕は、その小さな人影を指さして聞いた。

「さあ? 最初に見た時にも気づかなかったわ。でも、きっと誰でもないんじゃない?」

 彼女は、興味がないというような口ぶりをする。

「そうかな」

「そうだよ。それより、もう一つあるの。こんなに大きくはないけどね」

 そう言うと、彼女は、こんどは反対側の壁のロッカーの上に手を伸ばして、そこに乗っているものを降ろしてみせた。それもやはり、布を被せられたキャンバスで、それは一人で脇に抱えられるほどの大きさだった。僕は、その大きさに見覚えがあった。おそらく、そこに描かれているものにも。

「これ、肖像画なの。でも、誰がモデルなのかは分からないんだ」

 彼女が布を剥がして現れたのは、確かに一人の人物の、真っ直ぐにどこかを見つめている横顔だった。


 僕は、彼を知っている。


「……そうか、こんなところにいたのか」

 心の中で呟いたことが、自然と僕の口から漏れだしていた。

「まったく、君は勝手だな。どうして自分だけで……」

 僕は彼女の手からキャンバスを奪い取って、陽の光が当たるように掲げ持つ。

「何? この人のこと知ってるの?」

 彼女は、僕から一歩離れたところで、僕の様子を不安そうに見つめている。


 うん、知ってるよ。ちゃんと覚えてる。忘れたりしないさ。君の誓いは、僕の中にあるんだから。


 彼が見つめているものは、あるいは、僕も知っている。けれど、それはもう、この物語の中には存在しないかもしれない。別に、それはいいのだ。つまり、それはもう必要がないのなのだ。 


 物語の中でさえ、現実と同じように苦しむ必要はない。いつか、彼はそう言った。なるほど、それが彼なりの強がりだったことが、ようやく、分かってきた。








この物語は、これ以上述べられることはありません。

およそ一年に渡る連載にお付き合いいただきありがとうございました。

以降、あとがきを掲載する予定です。

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