滅入ること
クラスの中でのメッセージ交換の熱が冷めた頃、僕にメッセージを頼む人もいなくなって、僕はようやく帰り支度を整えて、教室を出た。時刻は既に一時を回っていた。卒業式が終わったのは11時前だったのだけれど。しかし、おかげさまですっかり卒業生の気分になっていた。要するに、僕がどうであれ、今日でこの学校ともお別れということだ。いや、あと何回かは来ることになるだろうか。
廊下でも、クラスメイトを制覇した強者共が、他クラスの友人にメッセージをもらいに奔走していたり、あちこちに固まって楽しげに会話をしていた。僕は、そんなところを一人突っ切っていくことに少々気後れを感じながら、早足で歩いた。
「あ、篠原くーん」
あと一つ教室の前を通り過ぎれば階段、というところで、僕は後ろから呼び止められた。かなりどきりとしたが、それがよく知っている声だと分かると、不思議な安堵を感じた。椎名さんだ。
「ああ、やあ」
「篠原くん、もう帰っちゃうの?」
椎名さんは、上目遣いで僕の顔を覗き込む。
「そのつもりだけど」
「えー、アルバムに書いてほしかったのに」
「ああ、うん、いいよ。じゃあ……」
「ほんと!? ありがとー。それじゃあ、一句よろしくね」
「え、一句って、俳句詠めってこと?」
どこかにスイッチでも付いているんじゃないかと思うぐらい、急に輝きだした椎名さんの瞳に見つめられて、僕は困惑する。俳句だって?
「俳句がいやなら短歌でもいいよ!」
「いや、もっと難しいから。そういうのは金森に言ってくれよ」
金森、という名前を出して、どういうわけか、僕はしまった、という気持ちになった。そして、その直観は当たっていた。椎名さんは、きょとんとした顔で、
「カナモリ、って?」
と聞いた。僕の精神は再び不安定になりかけた。やっぱりそうなのだ。彼はもう、存在しない。おそらく、僕の記憶の中にしか。
「なんでもないよ」
「ふーん? とにかく、この前書いてくれる、って約束してくれたんだから、ね?」
椎名さんは、そう言って文字通り念を押すと、僕をその場に置いて、彼女の教室の中に駆け戻っていった。僕は逃げ出してしまってもよかったのだけれど、念を押されたせいか、混乱しかけていたせいか、彼女を待つ以外に選択肢を思い浮かばなかった。彼女は両手にアルバムと(ご丁寧なことに)筆ペンを持って戻ってきた。そんなすぐには思いつけない、と僕が言うと、椎名さんは、僕が考えている間に他の人に書いてもらうと言い、友達を一人引き連れて、階段を下っていってしまった。
いったいなんで、“この前の僕”は椎名さんに一句、それか一首詠むなんて約束をしたんだろう。そもそも本当にそんな約束したんだろうか。そこで記憶をたどってみると、厄介なことに、確かに僕はその約束をしていた。まあ、頭に浮かぶ光景が正しいのであれば、その時もやはり強引に押し切られているのだが。
途方に暮れた心持ちで、廊下の壁にもたれかかりながら、何から考えればいいかということを考え始めた。そうこうしている間にも、僕の知り合いという人たちや、二年の時からの友人が通りがかって、アルバムを差し出すなり話題を持ちかけるなりした。そのせいで、僕は一句(あるいは一首)の初句を捻り出すこともほとんどままならなかった。そしてまた、金森の不在という事実への感情も、次第に僕の頭のなかから消えていくようだった。
「お、シノじゃん」
二十分ほど悩んで、やっと、なぜか下の句の方から言葉が決まり始めた頃だった。またもや聞き慣れた声が僕を呼んだ。花田だ。彼の声に小さな違和感を覚えたが、それが何かは分からない。
「よう。お前もメッセージ交換の旅か」
「まあな。つーわけで書いてくれよ」
「ああ」
僕は、彼の差し出したアルバムを受け取る。
「お前のは?」
そう聞かれて、僕は一瞬ぽかんとしたが、その意味が分かると、どこかこっ恥ずかしい気分になった。
「教室にあるから、取ってくる。そういえば、腰は、もういいのか」
僕が聞くと、花田はきょとんとする。この顔に会うのはこれで二度目だ。やりにくい、というか、奇妙な空気が流れてしまう。
「何が? 俺は腰痛めたことなんてねーぜ。
彼は自慢気に言う。彼の言うことが正しいのなら、その現実も何らかの形で改変されたのだろうか。
「ん、そうだったかな。まあいいや。とりあえず待っててよ」
花田が僕のアルバムに書いてくれたのは、どこかの国の軍人の言葉だった。初めて聞く名言だったし、その意味を推し量るつもりもないが、適当なことを書かれるよりかはよほどいい気がした。僕はと言えば、「テロをするなら他所でやれ」というような冗談を書いた。残念なことだが、彼とはまた何度も会うことになるだろう。こんなところで誠実さを引っ張りだしても僕が疲れるだけだ。
なんだかんだでとうとう一時間が過ぎた時、やっと下手な短歌が一つ完成して、僕は一向に戻ってくる気配のない椎名さんを探しに行った。下手というよりも、実に味気のない歌だった。その代わりに、子供だましのような遊び心を効かせておいたが、それに彼女が気づくかどうかは既にどうでもいいことになっていた。僕は頭も心もくたくたになっていた。椎名さんを見つけ出して、アルバムと筆ペンを渡され、いざ書くという時に、自分に与えられたスペースの周りのメッセージがいたく達筆で書かれているものばかりであることに、僕は完全に滅入っていた。相変わらず、自分はいった何をしているのだろうと思った。
すべてから解放されて、少なくともそう思って、僕は校門前の交差点から続く坂道を、転がるように、いっそ転がっていきたいと思いながら下った。すっかりへとへとである。たいして歩いたわけでもないのに、足がふにゃふにゃになって、数メートルでさえも真っ直ぐは歩けなさそうだった。かえって、他に誰の視線もない坂道をふらふらと歩くのに楽しみをも覚えているのだった。やっと帰れる。僕の帰るべき場所へ!
しかし、今日と言う日はおそらく、何か大きな力によって不具たらしめられているようだ。地下鉄の駅入口の前までたどり着いた時、ポケットの中でケータイが震えて、送られてきたメールを開いてみると、僕のクラスメイトの一人が、僕が机の中にホームルームの時に貰った卒業証書を忘れていることを教えてくれたのだった。
やれやれという声も出ないほど、僕の心は打ちひしがれた。カナモリ(ってなんのことだっけ?)はいなくなるし、実感の沸かないまま卒業させられ、たいして思い出のない人たちにばかりアルバムを押し付けられて、そうでない人には無理難題をふっかけられる。それが終わったと思ったらこれだ。これじゃあ行く末が思いやられる。もしそんなものがあれば、だけれど。
僕は、地面にへばりつくような気持ちで坂道を戻った。今度こそ最後だ、と自分に言い聞かせながら。さっきから時計をまったく見ていなかったが、時間はだいたい二時を回ったところだろう。春の日差しが僕の足取りなどお構いなしに、高いところかららんらんと降り注いでいる。そういえば、まだ朝から何も食べていない。どおりで元気が出ないはずだ。仕方ない。
そんなことを考えながら、どうにか前を向いて歩いていると、上の方から誰かがやって来るのが見えた。その誰かも僕の姿を認めると、すかさずこちらへ手を振った。僕も手を振り返す。それから、不意に空腹が薄れて、歩調を速めた。
「やあ」
僕は、喉の奥がくすぐったいのを抑えて言う。永井さんは、笑顔に驚いた表情を足した顔をしている。
「篠原くん、どうしたの?」
「いや、ちょっとね、卒業証書を忘れて来ちゃって」
僕がそうはにかみながら言うと、彼女は上半身をくねらせて笑った。僕も笑った。
「そうなんだ。でもよかった。探してたの、篠原くんのこと」
そう言って、永井さんは、バッグから卒業アルバムを取り出す。おぉ、君もかい、と、僕は変にやけになったような気分で、アルバムとペンを受け取る。メインキャラクターの彼女にいい加減なことを書いてもいけないと思い、アルバムの余白を見つめてあれこれ考えていると、彼女は、「書いてる途中だけど……」と切り出した。
「実は……」
それは、良いニュースか悪いニュースかと言えば、悪いニュースの方だった。僕は何て応えればいいのか分からず、言葉とも言えないような言葉を発して、彼女の顔を見上げられないまま、アルバムに、予定とは違うことを書いた。そして、ぱたんとそれを閉じ、永井さんに返す。
「ありがとう」
彼女はそう言って、にこりと笑った。
「こちらこそ」
僕も、少しぎこちなかったかもしれないけれど、笑った。
「じゃあね」
「うん、がんばってね」
そして、僕らは元歩いていた方向へ、再び歩き始めた。それから交差点のところまでやって来て、ふと、大事なことを忘れているのを思い出した。
信号が青になると、僕は空腹を忘れ、走りだしていた。




