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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
最後の日
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虚しいこと

 長い時間が流れたように感じた。目をつむったまま、明るかったまぶたの裏が真っ暗になり、それから再び、仄かに明るくなった。その間中、少しの痛みも衝撃もなかった。


 ガスの臭いがした。身体にまとわり付いていた風の感覚が薄れて、ほんのりと空気の暖かさを感じる。それから、腰にピリピリとした痛みと圧迫感を覚えた。どうやら僕は、何かの上に座っているみたいだ。それに、足はしっかりと何かに着地している。聞き覚えのある声も聞こえる。さっきまでの、曖昧な記憶の中から引っ張りだされた、ノイズだらけの声ではない。いずれにしても、既に具体的な危険は去ったようだった。僕は目を開けた。


「……ったりして、クラスのみんなと過ごした日々は、かけがえのない……」


 前方を見上げると、舞台の壇上で背の低い女の子が喋っている。うん、彼女のことはよく知っている。生徒会長だ。それから、ここは体育館の中らしい。僕はパイプ椅子に座っていて、両隣が女子が、前には男子が、同じようにぴっちりと詰めて座っている。肩をちぢこめないと、隣の肩を押し付けそうだ。後ろを振り向く気にはなれなかったが、前や横を見る限り、体育館一杯にパイプ椅子と、黒い制服の列が続いている。驚いたことに、右隣に座っている女の子は、声を殺して泣いていた。横にいる僕まで悲しくなるような泣き方である。

 これは何かの集会だろうか。わざわざ椅子を並べているのなら、重要な式典? 僕の告別式というのも可能性としてないではない。けれど、僕の横ですすり泣きしている女の子に見覚えはないし、泣いてもらう筋合いもない。どうやら僕は、死んですらいないのだし。

 他でもなく僕の目の前に、答えは歴然と存在していた。けれど、僕があれこれと可能性を探すのは、その答えをどうしても受け入れられなかったからだった。舞台の天井には、大きな文字で「卒業式」の横断幕が吊り下げられていた。

 そんなはずはない。少なくとも、これが僕らを送るためのものであるはずはない。僕はついさっきまで二年生だったのだ。生徒会長だってそうだし、隣で泣いている女の子だって、おそらくそうだったはずだ。それなのに、彼女はこうも感情的に涙しているし、生徒会長の思い出の言葉がスピーカーを通して流れ続けている。その言葉はとても感動的なようだったが、何一つ僕には実感されなかった。だってそうじゃないか。僕には彼女の言うような思い出がないのだし、同じ時間を共有してさえいなかったのだから。

 これは夢なのだろうか。僕は思った。目をつむる前の、あの幻想的な一連の出来事が夢だというのなら、僕は何の疑いも挟まないだろう。でも、これは? それとも、これも夢で、夢の中の場面が変わっただけなのだろうか。

 それとも? これこそが現実だ、なんていう可能性はあるんだろうか。あっていいんだろうか。確かに何度も、受験が終わるまで、あっというまに時間が過ぎてしまえばいいのに、とは何度も思った。けれど、何の記憶も無いままになんて酷いじゃないか。それとも、僕が忘れているだけなのだろうか。


 生徒会長の言葉が終わって、彼女は壇を降り、居並ぶ頭の中に姿を消した。すると、校歌斉唱の段取りになって、皆と一緒に立ち上がる。皆が制服のポケットから歌詞カードを取り出しているのを見て、自分のポケットの中を調べてみると、同じように、カードが一枚入っていた。夢だとしたらよくできている。僕は、まだそんなふうに思った。

 校歌を歌い終わると、それを最後に式は終わった。けれど、その後すぐに、思い出スライドというのが舞台に垂らされたスクリーンに上映された。毎年実行委員が卒業生の写った写真を編集して、ドキュメンタリー風に流すやつだ。会場の空気は一変して、お調子者が半裸で写っていたり、人気者の顔がどアップで写っていたりする写真が映されると、あちこちで歓声や喝采が起こった。僕の姿も三度ほど映しだされた。最初の一つは、二年の頃(こういう言い方もおかしいけれど)の写真で、そこに写っている自分には覚えがあった。しかし、後の二つは、自分でも全く知らない自分だった。


 体育館でのプログラムがすべて終わって、僕は、周りが動くままに校舎を移動した。そうして入った教室は、普通棟の最上階、三年生の教室だった。クラスメイトと思しき人達にほほとんど見覚えがない。けれど、彼らは僕を歴としたクラスメイトとして扱っているようだった。そして、そういう彼らの言葉に耳を傾けている内に、どこからか、彼らについての記憶が蘇ってくるようだった。不思議な感覚だ。覚えていないはずなのに、思い出そうとすると、その通りのイメージが浮かんでくる。

 自分の席を(怪訝な目を向けられつつ)人から尋ねて、教えられたところに座る。普通、他人の椅子に座ると何とも言えない違和感があるのに、この椅子にはそれがない。机の高さもぴったり自分にあっている。なるほど、これは僕の席だ。そんな気がしてくる。

 机の中には、ブックカバーに収められた卒業アルバムだけが入っていた。それを取り出して、最初の数ページを見てみると、今いるクラスの生徒写真のページに、自分の写真が載っている。それに、三年の文化祭や体育大会の写真にも、不意に僕の顔が載っていて、しかもその時のことを思い出そうとすると、実に自然にその光景を脳裏に描くことができる。

 いったい、本当に僕は、軽い記憶喪失になっていただけだと言うのだろうか。

 

「メッセージ書いてくれよ」

 僕が自分の卒業アルバムをまじまじと点検していると、クラスメイト(彼は二年でも同じクラスだった)が僕の机に、彼のアルバムを、最後の白紙のページを開いて差し出した。僕はしばらくうろたえて、彼の顔と彼のアルバムとを交互に見回したが、なるほど、卒業アルバムと言えばそういうものか、と思い出して、彼が一緒に差し出したペンを借りた。既に彼のアルバムにはクラスメイトの半分ぐらいからメッセージが書かれていた。どうも、一人ずつ頼んで回っているらしい。甲斐甲斐しいことだ。僕は、二年の頃(やっぱりそれを過去形で表すのは違和感がある)の彼を思い出して、それらしいことを書き込んだ。彼は満足して、僕の後ろの席の人に声をかけた。

 その手の輩があと数人、僕にメッセージを求めに来た。そして、そういうのに限って、どれだけ記憶を掘り起こしてみても、親しい思い出が浮かんでこなかった。それで僕は、他の人たちが彼らに宛てたメッセージを継ぎ接ぎして、適当なことを書いた。それから、本当に僕の友人であるらしい人も来た。それに、書いてもらえば将来プレミアが付くかもしれない、と訳の分からないことを言って頼みに来る人もいた。その都度僕は、時間をかけてその人たちの、三年になってからの記憶を、自分でもどこから引っ張り出してくるのか分からないまま思い出し、言葉を取り繕った。

 そうやってメッセージを求められるのはやぶさかではなかったが、しかし、同じようなことを何度も書いている内に、そして、書き終わって相手にお礼を言われている内に、酷く暗澹とした気分がこみ上げてきた。僕は彼らのことを記憶している。でも、彼らのことを一つも知らない。つまり、彼らは僕にとって何者でもないんじゃないか。それに、たとえ彼らが僕のことを知っていて、彼らにとって僕が何らかの位置づけをされているとしても、結局、彼らにとっての僕は、いずれこのメッセージの中にしか存在しなくなるし、それすらも彼らにとっては本来不必要なことなんじゃないか。

 そう思い始めると、僕は、メッセージを書いた相手に、自分のアルバムにも書いてくれるよう頼む意思を急速に萎えさせてしまった。いや、そうでなくても僕は書いてくれと言い出せなかったに違いない。向こうから申し出られることもほとんどなかった。結局、それは虚しい言葉だ。飾り方次第でどうにでもなる言葉だ。それに、本当に残しておきたいものは、こんなところに残さなくたっていいじゃないか。

 ふと気づくと僕の机には数冊のアルバムが積まれていて、教壇に(おそらく)担任の先生が立って、話をしていた。最後のホームルームか。僕は馬鹿馬鹿しくなって、ペンを置いた。しかし、その作業は、そのホームルームが終わってからも、クラス中でしばらく続いた。















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