a.m.8:10'
金森の背中は、既に人差指ぐらいの大きさになって、あと数歩下れば、深く静まり返ったダム湖の水面に降り立ちそうになっていた。僕は、どこまでも勝手なやつだ、と、全身の力を振り絞って怒鳴りつけてやりたくなった。事実、僕は怒っていた。いらいらしていた。不満だった。こんなことが、あっていいのか?
けれども、僕の口から言葉が飛び出すことはなかった。それどころか、息をすることさえままならなかった。金森の足が水面に触れ、踵が暗い水面下に消え、膝が消え、腰が消え、背と両腕が消え、その度にどろりとした波紋が同心円上に広がっていくのを、自分の胸にその分だけの水圧が増していくように感じながら凝視いていた。
ついに、金森の身体で水面に出ているのは、頭だけになった。そして、豆粒程の頭だけの状態で、彼は少しの間留まっていた。その間、振り返るでもなければ、何かを呟くでもなかった。僕は、ようやく金縛りのような圧迫を振り払って、でき得る限りの声で、彼の名を呼んだ。その声は、僕が思っていなかったぐらい、大きく響いた。その次の瞬間、彼の頭は、水の中に沈んだ。
何が起こったのか分からなかった。いつの間にか、僕の身体は光の中に包まれていた。いや、それは言い過ぎなのかもしれない。それまで暗いのに目が慣れていたから、急に太陽の光を受けて、過剰反応を起こしているだけかもしれない。いずれにしても、目を開けていられない程まぶしかった。辛うじて目を開くと、ダム湖の真ん中、それかグラウンドの真ん中-ちょうど、金森の頭が沈んだあたりから光の環が広がって、周囲の夕闇を押しやりながら、その幅を全方向に広げていた。同時に、夕闇は僕の視界の中で行き場を失って、その環の中心部分に流れ込んでいくのだった。
何が始まったのだろう。あるいは、何が終わったのだろう。これは夢だろうか。もし本当に夢なのだったら、僕は無邪気な観客でいれたのに。
光の環は、とどまることなく、僕の視界を制圧していった。その光の向こうには、見慣れた朝の風景が広がっている。白線の引かれたグラウンドがあり、それを囲む背の高い雑木林があり、その向こうに、何の変哲もない町並みが見える。しかし、その風景の真ん中に、ぽっかりと、握り拳大の真っ黒い穴が開いている。その穴が縮むことはなかった。光はその周縁を丁寧に埋めていった。
光の環がすべての周縁を手中に入れた時、僕は、目の前のフェンスがなくなっていることに気づいた。それまで、フェンスの網目を掴んでいた両手が宙を掻いた。もし、全体重の半分以上を前のめりに預けていたものがなくなると、僕の身体はどうなるのか? それは、考えるまでもないほど明らかだった。
僕の周りの重力が、刹那、ゼロになった。やけに長い間、青空が一杯に見え、それから地平線近くの光景が一瞬で流れ去り、グラウンドが見え、黒い穴が細長い線を描いて上方へ去り、深緑色の茂みが見え、灰色の校舎の壁と、朝の光に輝く窓ガラスが見えた。この一連の変化が、一呼吸もしない間に巻き起こった。
何が始まるのだろう。そうでなければ、何が終わるのだろう。
風を感じた。見たところ、地面まではそう長くない。僕は、その期に及んで、太陽はいったいどこにあるんだろう、というようなことをぼんやり考えていた。時間が引き伸ばされているように感じる。これも金森のペテンであるなら、実に嫌味でありきたりな演出だ。そんなことも考えていた。
……そいつらが今いるのは、君の目の前だけなんだ……
声が聞こえた。いつかの金森の声だ。そして、散らかった“倉庫”の光景。これが走馬灯というやつだろうか。本当に、馬鹿げた演出だ。あぁ--
……ゼア・イズ・ノー・テリング・ワット・ハプンズ・トゥモロウ……
そう呟く、春岡先輩の声。そして、屋上の光景。その端に置かれた、一枚の絵。一本のコーラ。
……そーねー。あんまり待つのって好きじゃないのよ……
そう言う椎名さんと、教室と、にんじんケーキ。
……貯めることに意味があるんだ。そんなことも分からないのか、シノちゃんは……
にやにやとする花田。貯金箱。浄財。道は開ける。
……もちろん、いいですよ。それじゃあ、せ―の、で。……せ―……
永井さんの笑顔。取り乱す僕。白い歯。
……勝利の味とダージリンの香りは紳士の特権だな……
林野の無意味な言葉と、コンビニの休憩コーナー。
……そんなんじゃなくて、頑固なだけ……
自転車を押す中里さん。夕焼け。坂道。
…………
寺岡。
……何を見てるの……
僕。朝焼け。横顔。
……朝を……
横顔。横顔……?
僕はまだ、彼女の顔を見ていない!
地面はすぐそこまで来ていた。僕は、本能的に目を閉じた。引き伸ばされた時間の中で、狭まる視野はコマ送りのようになった。そして、最後の数コマ、ほんの一筋の光の中に、僕は、逆さになった、何かを見た。
それから、暗転。




