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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
1月
9/95

見えないもののこと


 先輩の左手の親指は、普段決して見ることのないくらいの早さで、スマートフォンのタッチパネルを滑っていた。僕が、壁によりかかっている彼の斜め横からその様子を眺めていても、彼は全く気にする様子がない。


 先輩は、16X30マスのハードモードで79秒の記録を持っている。僕は87秒が自己ベストだ。これらがどれくらいの記録なのかは、実際に試してみれば分かると思う。僕がこの孤独なタイムアタックに足を踏み入れたすぐの頃は、どれだけ時間をかけてもクリアすることさえままならなかった。


 僕が昨年の夏頃からマインスイーパーをし始めたのは、先輩から影響を受けたからだ。もちろん、それは特別なことではないし、そもそもマインスイーパーというコンテンツ自体が、どれだけよく言ってもたいしたものではないかもしれない。前にも書いたが、マインスイーパーは時間さえかければ誰だってそれなりに上達するし、これに熟達しているというのは、単にその人が暇人であるという意味しか持たない。しかし先輩に関して言えば、彼はマインスイーパーをかなり重要なものとして位置づけている。そして、それの持つ数少ない可能性を、最大限発現させようとしているのだと思う。


ーこいつがいいのはね、何も考えなくていいとこだよ」

 マインスイーパーの話になると、先輩はいつもこう言う。

「何も考えないでずっとこいつを続けてると、何かを考えてる時には浮かんでこないものが浮かんできたりすることもある。そういうのを感じるってのは、必要なことなんだろうな。どんな形でも。答えがどこにあるのか、思い出せる気がする」

 先輩はよく、”答え”がどうのこうのという話をする。それは決まって抽象的で漠然とした話で、聞いていてもよく意図をつかめないことが多い。たぶん彼が”答え”について話すとき、彼は僕にではなく、自分自身に対して語りかけているのだと思う。先輩はもしかしたら、もうすでにその答えを知っているのかもしれない。僕には、その答えがなんなのか、そもそもそれが何の答えなのかさえ分からないが。

「で、こいつの悪いところは」口が弾むと、先輩はその先も続けることがある。「こいつに悪いところがあるなら、一つだけ。こいつをしてる間、何も始められないし、何も始まらないってことだなー


 いずれにしても先輩には、何か、僕には見えないものが見えているのだと思う。つまり、ダムの澱んだ水面とか、キャンバスに開いた穴だとかの向こう側にある何かを。その代償に、彼はそれ以外のものが全く見えていない。たとえば、人の顔色とか、閉まっている校門とか。

 僕がマインスイーパーをし始めたのも、彼に見えている何かに少しでも近づくことができたら、と思ったからだった。

 きっと彼には、ものごとを魅力的にする才能があるのだろう。それはたぶん簡単な原理で、彼がたいしたことでもなさそうにすることすべてが、実際には何か得体の知れない含蓄を秘めているように見えるのだ。

 しかし厄介なことに、どれだけ彼の真似をしてみたところで、誰も彼と同じ場所に立つことはできないし、彼に見えているものを知ることもできない。僕がマインスイーパーから得られたものが、失われた時間への焦りと、少しばかり自慢のできるクリアタイムだけだったように。そしてなお悪いことに、僕がそれを自慢しようとすると、それは全くたいしたことじゃないように聞こえる。


 ものごとを安っぽく見せる才能というのも、世の中には必要なのだと思う。少なくとも、自分以外は不幸にならない。


「なあ、篠原」先輩は言った。彼の指は、画面の上で動き続けている。僕は、不意を突かれて素っ頓狂に返事をした。

「お前はもう、進路決めたのか」そう聞かれて、僕はさらに頓狂な声を挙げた。先輩が僕の進路を聞いてくるのは初めてだった。

「えっと、まだ固まってるわけじゃないですけど。どうしたんですかいきなり。てっきり人の進路になんて興味ないのかと思ってましたけど」

僕がそう言うと、先輩はスマートフォンの画面を見つめながら苦笑する。

「ああ、もちろん人の進路なんて考えたくもないな。うむ。それでも、将来が気になるやつってのはいるんだよ。まあ、俺の知的好奇心の問題だが」

「気になりますか、僕の将来が」僕は驚いた顔をして聞く。

「ん、お前も分かってると思うが、俺とお前はいろんな意味で違う人間だろ」

「・・・・・・心当たりはありますけど」僕は言った。それから少しの沈黙があった。動くのは先輩の指先だけだった。グラウンドの方も少し静まって、ユニフォームを着た野球部員たちが、そろそろと引き上げていくのが見えた。

「それに、お前には俺に見えないものが見えてる」先輩は言った。

「それって、嫌みか何かですか」僕は言った。さっきまで考えていたことを見透かされたようで、間が悪いのをごまかしたかったのかもしれない。しかし、先輩に僕の声は聞こえなかったらしかった。

「だからよお、お前は、俺の真似しようとか、つまらねーこと考えるなんじゃねーぞ」そう言うと、先輩はようやく僕の方を向いて、僕の目をじっとのぞき込んだ。笑ってもいないし、怒ってもいない。たいしたこともなさそうな顔だった。けれども僕は、体がすくむような思いがした。


「ま、あんまり心配はしてないけどな」先輩は、軽く目を逸らしてにやりとしたが、今度の僕はにやりとし返すごとができなかった。今まで鳴きもしていなかった鳥の羽音が、頭上から飛び立っていった。


「あと、そうだ、まだ小説同好会はしっかり活動してるのか?」先輩は、スマートフォンに顔を戻しながら言った。

「はい。一応。でも、それもどうして?」僕は聞いた。退部してから、先輩が小説同好会のことについて聞いてきたのも初めてだった。

「いや、あれだよ、なんだかんだ言って俺が始めたことだからな、全部丸投げして卒業していくのもどうかと思ってさ」




 点呼五分前のチャイムが鳴り、ぎりぎり遅刻を免れた生徒たちがぞろぞろと駐輪場に流れ込んで来る。両腕にキャンバスとバッグを抱えて、その流れを横切るように人気のない特別棟の美術室へと向かう春岡先輩の姿は、僕が見慣れたそれよりも、いくらか色褪せて見えた。それがどういうわけなのか、ちっとも分からないまま、僕は自分の教室へと急いだ。

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