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気づくと僕らは夕闇の中にいた。いや、違う。今が夕暮れのはずはない。けれど、あたりは一瞬にして夜の暗がりに包まれてしまった。太陽は青空から消滅し、同時にその青空も光を失った。いやにしんとしている。地平線は黒いもやもやとした影に紛れ、遠くの町並みにはいつの間にか、一斉に人気のない明かりが灯っている。まるで、夜になればひとりでに明かりが点くと決まっていて、しかもずっと前から世界が夜に飲み込まれていたみたいに。
もしかしたら、そうなのかもしれない。僕は思った。もともとここは夜だったのだ。世界が急に変わったのではなくて、僕がここにやって来たのだ。理由も何も知らないけれど。それでも、僕はこういうのに見覚えがある。それも、夢以外の場所で。
「これは、君がよくやる手品だね」
僕は言った。
「うん。確かにこれは俺がよくやるし、紛れも無く、ただのペテンだ。それでも、この方が格好はつく」
金森は言った。僕には、彼の言っていることが一向にピンとこなかった。相変わらず彼は、自分だけでどんどん進んでいく。実に不親切だ。僕は、少なからず機嫌を悪くした。けれどもそれ以上に、不安だった。きっと、彼のしようとしている終わり方は、僕にとって好ましくない。たぶん、彼にとっても。
風は、相変わらず僕らの背後から空の彼方へと、その冷たさを増しながら吹き続けている。金森の後ろ髪は、風に煽られてわさわさと逆立っていた。彼の表情は、暗いせいか、それとも他の何かのせいか、うまく読み取れない。
「うまく終わるってのは難しいな」
金森は言った。その声には、諦めと自嘲しかないようだった。
「別に、いいじゃないか、どんなふうだって。もともとそういうつもりだったんだろう。たまたま、うまいところに収まらなかっただけだよ。うまく収めることだけが目的じゃない」
僕は言った。けれど、今度は、自分が何を言っているのかさえ分からなくなってきた。口も頭も、僕の与り知らないところで勝手に動いているようだった。いったい、何が終わるっていうんだろう。いったい何が収まるんだ。
「その通りだ。分かってるさ。でも、今になって思うんだ。俺はもっとうまくやるべきだったんじゃないか、俺はなにか、大きな間違いをしたままなんじゃないか、って。だけど、もういい。どっちにしても、時間切れだ」
空気の流れが止まった。金森の後ろ髪が静かに毛先を下に垂らした。一瞬、自分の身体が不意に軽く、持ち上げられるような感覚がして、それからすぐに、すべての臓器が下へ圧迫されるような、重苦しい引力を感じた。いやにしんとしている。空には一つの星も輝いていない。まるで、大空を覆うほどのまぶたが、堅く閉められたようだ。いやにしんとしている。沈黙。硬直。
長く続いた沈黙を破ったのは、金森だった。彼は何の前触れもなく、あるいはそれを僕が見咎める前に、足を前に出した。右足だった。僕は、金縛りを振り払うように精神を緊張させながら、彼の足を見、それから顔を見た。と同時に、彼は左足を前に出した。つまり彼は二歩進んだ。彼の横顔は、僕の目からは見えなくなる。恐らく彼からももう僕は見えないだろう。彼の胸元、彼の両腕を少しでも前に伸ばせばぶつかる位置には、もう落下防止のフェンスがあった。
けれども、彼はもう一歩、右足を前に出した。続けて、左足を出し、また右足を出す。それだけのことだった。何も起こらなかったし、何も僕は見間違えなかった。ただ、彼はあたりまえのように、フェンスをすり抜けていた。そして、彼は更に歩みを薦める。僕は暫く、言葉を失っていた。知らぬ間に、僕はフェンスに手を突いて、彼の足元を、そして少しずつ遠ざかっていく背中を見つめていた。
「ねえ! どこへ行くつもりなんだ!」
僕は、金森の背中へめがけて叫んだ。こんな風に叫んだことなんて、今までになかったような気がした。そのせいか、僕の叫び声は想像したよりもずっと小さく、ほんの数メートル先の金森にさえ、聞こえていないような気がした。
「どこにも行かないよ。ただ、カズの目には映らないところに」
金森の穏やかな声が聞こえた。不思議なことに、彼の声は、彼のいるところから聞こえてくるのではなかった。
「僕を置いていくのか?」
今度は、まともに叫ぶことさえできなかった。心持ちの悪いものが喉に引っかかって、声がかすれた。今度こそ、金森に声を届けることができなかったように思った。それで、その代わりに、彼がさっきすり抜けたところのフェンスに掴みかかって、それを通りぬけ、彼を追おうとした。けれど、僕がそれを達成する確率は、朝にパンをくわえて走っている時に理想的な異性の転校生と街角で衝突する確率と同じだけ低く、数十万年間試み続けても、成功するかは分からない。そんなことは知っている。
「言ったろう、俺がいる必要はもうない、って。元に戻るだけなんだ。心配しなくていいさ」
金森は、ゆっくりと空中を降っていた。目には見えない階段を、一歩ずつ降りているようだった。いや、たぶん彼の足元には、本当に見えない階段があるのだ。これは彼のペテンだ。僕はそれを知っている。そしてまんまと、その手中にある。
金森の背中を見つめる目のピントが瞬きの間にぼけて、再びピントが定まった時、僕はハッとした。彼が降りていく先にあるのは、学校のグラウンドではなかった。それとよく似ているけれど、まったく別のものだった。そして、僕はそれをよく知っていた。濁った水の臭い、有機物の腐敗する臭い、微生物に酸素を与え続ける黒々とした藻の臭いが、鼻腔の中で渦を巻く。水面が、何かの光を受けてきらり、きらりと瞬いている。金森の姿は、その光の中にぼんやりと浮かんでいた。
「よくわからないよ。始めからこうするつもりだったのなら、なんで昨日、あんな大げさな誓いなんてしたのさ。もう君は逃げるのかい?」
「うん。そうかもしれない。でも、もうそれは問題じゃないんだ。これは俺だけの物語じゃなくなったんだから。それに、この話は終わる。誓いが残れば、それでいい」
「ねえ、そんなこと言われたって、僕はいったい、どうしたらいいんだ。だいたい、みんなに何て説明すればいい? それに、そうだ、まだ部誌の原稿だって、まだ君はくれてないじゃないか」
僕はもう叫ばなかった。そうしなくても金森に聞こえているのが分かったから。それに、そうすることがもうできなかったから。
「大丈夫。穴は空いたままにしない。次の役者はもうスタンバイしてるんだ。きっとそいつが何とかしてくれる。カズは今まで通りやればいいのさ。元通りに」




