春岡先輩のこと
前話の末尾に文章を追加しました。話の流れににそこはかとなく関わる内容ですので、一度立ち戻って読んでいただきたいです。
「先輩って、美大志望でしたっけ」僕は言った。
見せられたキャンバスには、この場所から見えるそのままの景色が描かれていた。グラウンドと、それを囲む木々、その向こうの町並み、赤らんだ空、突き出した高層ビル。僕の教室から見える景色とあまり変わらない。今目の前に見えている景色よりは、少し暗いような気がした。僕は絵についての知識がないが、辛うじて知っているところで言うなら、フランス印象派のような、それぞれの被写体が光の中に輪郭をとけ込ませたような描写だ。キャンバスの下には先輩の通学バッグが転がっていて、その上にコ―ラのペットボトルが一本立っていた。
先輩は重度のコ―ラ中毒を抱えている。もちろん、コ―ラに依存性のものは入っていないことになっているから、それはむしろ精神的な問題である。彼がこの高校に入った理由の一つが、校内の自販機でコカ・コ―ラを売っているからだという噂は、あながち間違ってはいない。
「いや、前に言った通り、――大志望だな、俺は。美大ってのも一時期考えたんだけどね、これで食っていくつもりはないんだ。つ―かこんなレベルで食っていけるわけもないしな」先輩は言った。彼が口にしたのは、僕も前に聞いたことのある、地元の国立大だった。
「そうですか? 僕にはかなり上手いように見えますけど」僕は言った。実際、先輩の描き途中の絵は、そこらで売っている下手な画集の絵よりも上手いように見えた。
「ああ、ありがとう。そういうことにしておくよ。モノは見方だからな」彼はいたって大したことでもないように言う。とても慣れた言い方だった。彼が言うと、本当に大したことじゃないように感じる。しかしもちろん、僕はその”たいしたことじゃない”ことを全く真似できない。
「でも、先輩が朝早いって珍しいですね。それに、夜の絵しか書かないのかと思ってましたよ」僕は言った。
彼が夜の薄暗い絵以外を描いたのを、僕は見たことがない。この前最後に見せられた絵も、夜の絵だった。夜のダムの絵だ。海のように広大で、かつ流れの完全に止まった水たちの絵だ。見つめていると、そのうち自分がその水の中に沈み込んでいくような感覚になる、そんな絵だ。それらの絵は、決まって真夜中に、コ―ラの空きボトルが増殖するのと同時に描かれる。
「確かに、いつも気がつくと夜の絵にだってるんだけど―」先輩はうなづく。「たまには、朝を描きたくなったんだよ」そう言って、彼はキャンバス台ごと絵を持ち上げ、画面に日の当たる方向へ向きを変えた。そうやって、色の見え方を確かめているようだった。四角い枠の中の朝は、つぶさにその明度を変えた。
「危ない!」
突然グラウンドの方から怒鳴り声が飛んできた。これまた聞き慣れた声だ。僕と先輩は、瞬間何がどう危ないのか全く予期できなかった。しかし、グラウンドのそばにいて危険があるとすれば、可能性は一つしかないのである。先輩は、前方斜め上からやってくるそれを見つけ、僕を奥へ突き飛ばすと同時に、自分も反対側へ飛び退いた。
何事が起ころうとしているか気づいたときには、すでにバリ、という痛々しい音がして、キャンバスを突き抜けた野球ボ―ルがあたりを跳ね回っていた。
「うわ」僕は思わず悲鳴をあげた。ボ―ルは地面に落ちて、真ん中に穴のあいたキャンバスだけが残った。
「大丈夫っすか―」と野太い声がして、すぐにその主がやってきた。なんのことはない。ユニフォ―ム姿の花田である。彼は僕の顔を見るとにやりとし、春岡先輩の顔を見るとかしこまり、そしてキャンバスの有様を発見すると、いかにも不味いことになったという顔をした。
「うわ―、すいません!」花田は姿勢を堅くして深く頭を下げた。慣れた感じの誤り方だった。部活は偉大である。
またお前は、と僕は悪態をつきそうになったが、その前に先輩が口を開いた。
「誰かと思ったらゴリラか。こっちも久しぶりだな。―まあ、これのことは謝んなくてもいいぞ。どうせ、大した絵でもないんだし、こっちに怪我もないし」先輩はキャンバス台の足下に転がったボ―ルを拾って、花田へ山なりに投げる。花田はグラブをしていない方の手でそれを受け取った。まだ彼は申し訳なさそうに目を伏せている。
「それに、あのボ―ルお前が打ったわけじゃないんだろ。ここのフェンスが低いのもお前の責任じゃねぇよ」
「でも……」花田は引かない。前にも書いたかもしれないが、彼はいくらゴリラだのテロリストだの言っても、自分が一目置く相手にはそれなりの節度がある。もっとも、ゴリラだって集団の中での格上相手にはそれなりに相応の態度をとるのかもしれない。
「ま―、そうだな、そっちにその気があるなら、今度コ―ラ代一日分償ってくれればチャラにしてやるよ」そう言って、先輩はにやりと笑った。
「さすが先輩。あざ―っす」花田は先輩の言葉にころりと破顔すると、こっちに手を振りながらグラウンドへ降りていった。
「ずいぶん大人ですね、今日は」僕は言った。先輩はやはり、たいしたことじゃないというような顔をしていた。
「ま、この俺がこんな朝っぱらからやる気になってるぐらいだからな、何が振ってきたって構わないさ。犬も歩けばってやつだな。それに、俺のコ―ラ代はそんなに安くない」そう言って、彼は再びにやりとした。僕もにやりとした。
それから先輩は、穴の空いたキャンバスを、注意深く眺め始めた。つられて僕も画面をのぞき込む。野球ボ―ル大の穴は、きれいにその形のまま、絵のグラウンドの真ん中にぽっかりと空いていた。どこまでも二次元の世界に、全くの三次元である穴が幅を利かせているというのは、とても不自然な光景だった。実写の戦隊ヒ―ロ―ものに、中途半端な安っぽいCGが出てくるのを見る感覚に似ている。先輩は、その不自然さに何か別のものを発見したのかもしれない。
「うん、何かのシンボルと捉えれば、この穴も悪くはないかもしれないな」彼は言った。
「ええと、僕は前衛芸術にはあんまり理解がないので」僕は言った。実際、先輩がその穴を何のシンボルに祭り上げようと言うのかは、見当もつかなかった。確かに、何かについて暗示的といえば、そのようにも見えるが。
「だよな」先輩は、ふっきれたようにため息をついて、ふらふらと校舎の壁によりかかった。彼なりに、疲労はしているようだった。
「先輩、この絵いつから描いてたんですか」僕は聞いた。
「ん、ああ、描き始めたのは一昨日で、今日も始発に乗って、校門が空く前から忍び込んで描いてた。早ければ早いほど朝は濃いからな」先輩は例の口調で言った。相変わらずやることが極端である。やはり、とても真似できない。
尊敬という感情は、その対象が何であれ、自分がとうてい真似できないと認めた相手のためにある。だから僕らは、全く理解できないような馬鹿げたことをする相手にも、尊敬によく似た感情を持つことがしばしばある。今の僕の場合は、前者が七割ぐらいで、後者が二割ぐらいだ。一割は、ただ呆れている。どうも、花田をそのまま帰したのは、ことを大袈裟にすると後々面倒になるとでも思ったからでもあるのだろう。
「それは、お疲れです」僕は言った。先輩は僕にひらりと手のひらをみせて、それからその手をポケットに入れ、自分のスマ―トフォンを取り出して、弄び始める。大方、またマインスイ―パ―でもやっているんだろうと僕は思った。