ロッククライムのこと
二月中旬 朝7時30分
寺岡は青いベンチに腰掛け、顔をまっすぐ前に向けた先にあるものを、黙って見つめていた。薄暗く、酷く埃っぽい空間を、一本の蛍光灯が鈍く照らしている。黒い学生服の上に乗っかった彼の青白い顔は、積年のシミやら黴やらで黒く変色した壁を背景に、ぼんやりと中に浮いているようにも見える。それから、寺岡は不意に立ち上がって、学生服のボタンに手をかけ、外し始めた。学生服を脱いでしまうと、今度は真っ白なカッターシャツが現れる。彼の肌の色に似た、青白い色をしている。それに身を包む彼の華奢な四肢は、より繊細で、洗練されて見えた。
ここは、体育館地下倉庫の一角だ。朝練が始まる時間になると、バスケ部がドリブルをするボンボンという音が絶えず聞こえてくる。
地下倉庫は本来、式典などで使うパイプ椅子を収納しておく空間なのだが、その両端にスペースが余る。その一端には、運動部員が自由に使える筋トレ器具が置かれて、もう一端、今寺岡がいる場所は、登山部の活動場所になっている。
寺岡は、数歩前に出て、既に彼には見慣れているはずのそれに、じっと目を凝らした。それは、幅2メートル程度の数枚の頑丈な横板を縦に並べて、両側を角材で固定し、天井の梁に立てかけた、接地面と鋭角を成す壁だ。それだけではなく、その横板のいたるところに、様々な形状や色をした人工石がネジで取り付けられている。そしてその壁の下には、分厚いマットが敷いてある。所謂、クライミングウォールという奴である。
その石の一つ一つを確認し終わると、寺岡は静かな呼吸を保ったまま、左手に置かれた机に乗っている袋から登山部供用のクライミングシューズとチョークバッグを取り出す。クライミングシューズというのは、簡単に言えば、ボルダリング専用に、底が固いゴムで作られている非常に窮屈な履物であり、チョークバックは、手につけて滑り止めにするチョークを入れ、腰に巻き付け携帯するための小さなポーチのようなものである。寺岡は、慣れた手つきでそれらを装着し、腰の後ろに回したチョークバッグに後ろ手を入れて、指先にチョークを馴染ませる。要するに、彼はこれから、ボルダリングをする。
ボルダリングは少し前にさる有名な俳優が趣味でやっていることから一時期脚光を浴びたが、そのボルダリング(あるいはロッククライミング)が登山部員の活動内容の一つであるということは、登山が汗臭い山男たちの豪快な営みであるというような認識を持っている人からすれば意外かもしれない。しかし元をたどれば、岩山をよじ登るための技術競技を室内に移植したものなのだから、何もおかしなことはない。ただ、高校生登山において天然の岩壁を登るようなことはほとんどない。ならば室内版のそれをするのかといえば、少なくとも寺岡の登山部の場合、顧問の趣味である。そして、体力付けにそこら辺を走らされているよりはよほど楽だがら、部員たちも喜んでその意向に従っている。
寺岡はマットの上に乗ると、体を屈めて、下部中央の大きめの石に手をかけ、両足もそれぞれ膝を折り曲げながら足用の石に乗せ、腰を板に密着させるようにして体を浮かせる。そこで彼の体は一瞬静止する。しかし次の瞬間には、彼の右手は右上の幾分小ぶりな石に伸ばされ、全身もそれに合わせて流れるように移動する。せいぜい大人が両腕を広げれば両端に手が届くだけしかない平面で、小柄の寺岡は目一杯体を伸ばし、時には足場を蹴る弾みや、素人目にはなぜそんな動きができるのかと言いたくなるような重心移動を用いて、次の石へ手をかけていく。
彼が今行っているのは、「周回」というウォールを一周するコースを用いたウォーミングアップだ。新入部員はまずこのコースを教えられる。といっても初心者向けという訳ではなく、たいがい一周できるようになるまで一ヶ月以上かかる。その分幅広い要素を含んでいるコースとも言える。
寺岡は、息を乱さないままで、二周目に入った。力の抜き方と手の休め方を覚えれば、ほとんど無制限に何周もすることができる。あくまでそれはウォームだから、ゆっくり五周もすれば十分なのだが、彼は自分の気が済むまで、体の各所の関節を一つ一つ吟味するかのように、同じコースを回り続けた。彼の華奢で軽い身体は、鈍重な筋肉ダルマよりもよっぽど向いている。
一手ずつ、呼吸のリズムに合わせるように、束の間の脱力からの、瞬時の緊張、手が次の石にかかれば、重心をその真下に移して、再び弛緩、そして緊張……この静と動の繰り返しを延々と続ける。その過程を、どれほど綿密にこなし、最善を追求していくかには、彼の美学が、あるいはそれに対する態度が現れているかもしれない。あるいは、ただ、メリハリをつけてじっくりやるのが彼の性格なだけかもしれない。
そうして十周近く周り終わると、寺岡は最初に手をかけた石に戻ったところで、ポトリ、とマットの上に身体を落とした。仕上がりに満足したのか、それともさすがに手が疲れたのか、彼は細い目をさらに細め、口元に皺が寄る程度の微笑を浮かべながら、壁から離れた。あるいはそうやってクールにしめくくるのも彼の美学のうちの一つなのかもしれない。彼はそのままベンチに戻り、スーと息を吐きながら座り込んで、どことなく規則性を感じさせる、ドンドンという上階の騒音に耳を傾けた。
すると、その合間に一つの足音が、階段を降ってくるのが聞こえた。彼は細い目を僅かに見開いて、階段の方へ顔を向けた。




