愚問のこと
ナオヤは、繊細に縁取った細い目に、静かな手つきで瞳を描き、その中身を艶のある黒で埋めていく。果たして彼の記憶の中の顔がどんな表情をしていたのか、何を思っていたのか、それとも何も思っていなかったのか、その瞳に筆を入れることで、少しずつ謎が溶解していくような、同時にもっと深い淵へと迷いこんでいくような、そんな彼自身の感覚を、ナオヤは表現したいと思った。
「でも、俺は諦めた訳じゃねぇよ。確かに今の俺には無理だが、ずっと無理ってこともねーだろう。足りないものがあるんなら、持ってくればいいだけの話だから。そのために大学に行くんだと思ってる。それに、絵を描くのだってその一環なんだぜ。なんせ、観察力はいくらあっても足りないからな。……と、こんなもんで満足か?」
ナオヤは振り返らずに尋ねた。
「あと、一つだけ。先輩は、朝焼けと夕焼け、どっちが好きですか」
そう聞きながら、金森は手すりから身を離す。グラウンドに出てきた野球部連中に見つからないようにするためだ。ポケットに手を突っ込んで、ナオヤの後ろからキャンバスを眺める。ナオヤはしばらく手を止めていた。キャッチボールのボールがグラブに収まるパシッという音が、間断なく聞こえはじめた。
「難しい問題だな。それにある意味愚問だぜ。同じ尺で比べられるものじゃねーだろう」
再び、筆が動き始める。
「ただ、今は朝焼けが見たい。夕焼け空は人を振り返らせるからな。今はそんな気分じゃない」
「なんだかくさいですよ、先輩」
「うるせえ。いかにも詩的なこと聞いてきたのはお前だろうが」
「はは、すいません」
金森は、もう気が済んだのか、暫時キャンバスの横顔を注意深く観察した後、ハシゴの方を振り返る。
「じゃあ、俺、もう戻ります。先輩はどうするんですか? これから」
「これから、って? もちろん今日は点呼の前には切り上げるぞ。センターの自己採点を報告しないといけないからな」
「お疲れ様です。確か、三年生はすぐ終講して自由登校になるんですよね」
「ああ。でも、俺は来る予定だぜ。さすがに、ずっと家にいてもろくなことしねーだろうし、結構この学校が好きだから。それに、やらないといけないこともある。まあ、ここにはしばらく来ないつもりだが」
金森は、ハシゴの前で立ち止まり、顔だけナオヤに向けて、
「そうですか。俺は、また来ます。明日も」
と言うと、そのままハシゴに手をかけ、降り始めた。
「風邪には気をつけろよ」
ナオヤの言葉に、返事は返ってこなかった。
……………………………………
金森が帰った屋上で、ナオヤは黙々と、横顔を描き続けた。時々、強い風が彼とキャンバスとの間を吹き抜けていく。その度に、彼は風の色を付け足した。ところどころ茶色の筋を刻み込んだ長髪を、その色にはらはらと靡かせる。
少しぐらい点呼に遅れてもいいかもしれない。そう思いながら、彼はもう一度、何か物足りなく感じて、小さな瞳に筆を入れた。
あの時、この瞳が見つめていたもの、それは――




