輪郭のこと
一月第三週 月曜 つまり、翌朝
その日、普通棟の屋上には、二人の訪問者があった。一人目は、ナオヤだ。懲りもせず、とでも付け加えておくのが妥当だろう。もう一人はというと、しかし、妥当と言えるかどうかは微妙な線である。
ナオヤは懲りもせず画材を屋上に持ち込み、絵を描いていた。一体何時からいたのかは彼自身にも定かではない。とにかく、彼は朝、目が覚めるなり何かに取り憑かれたようにここまでやってきた。そのときあたりがどれだけの明るさだったかも覚えていない。分かるのは、ただ、今、うっすらと空を覆った層雲が、鈍く向こう側から照らされているということだけだ。彼は夢中で筆を動かせていた。その画題は、昨日、最後の試験が終わった時から決まっていた。あるいは、その前からとっくに決まっていた。それが昨日、実行に移す心持ちになった。
彼は下書きもせずに、どんどんと塗り進め、塗り重ねていった。そもそも彼はデッサンとか言うものが好きじゃなかった。いや、それはそれとして完結させるのならむしろ好きだしどれだけでも集中することができるが、そうして出来上がるモノトーンの世界に、ベタベタと色を塗りつけていくのがどうも納得いかないのだ。そこには感覚的な断絶があるような気がする。作詞をすることと詩に旋律をあてがうことが全然違うことと似ているかもしれない。あくまで感覚的な話で。
彼の筆致は、その下書き不要論を裏付けるように、何も物差しのないキャンバスの上で、精密に躍動し続けている。けれども、そこに登場するのは黒や灰、そして作られた白ばかりで、見た目にはいかにも静かなようだった。
ナオヤは、五感すべてに神経を凝らしている。風の音や朝の匂い、空気の流れを知るために。彼が描こうとしているものは、それらの中に揺らいでいる。その揺らぎこそが本質である……彼は未熟な精神世界の深淵を、あらゆる方向から直視していた。言ったもん勝ちの世界である。
そう言う訳で、彼は画面に集中しているようで、客観的にはかなり散漫だった。そのおかげで、錆びかけたハシゴをギシギシ言わせながら登ってくる二人目の訪問者にはすぐに気づいた。けれども、わざわざハシゴのところまで出迎えに行く気もその義理もなく、彼はむしろ筆を動かす手の方を散漫にさせて、キャンバスの前に立っていた。それでも、ハシゴを登る音がピタリと止まってしまうと、意地を出して、何も気にしていないという風に筆に力を入れてみせる。少なくとも彼の方から声をかけてやるつもりはなかった。
「せんぱーい」
大きな呼び声が屋上に響いて、ナオヤはようやくそちらを向く。そして自分ながら阿呆らしくなる。
「ん、お前か。ここで会うのも久しぶりだな」
ナオヤはニコリともせずに言う。昨日のことをもう忘れたのかと言えば半分はそうだが、半分、そうする必要を感じなかったからである。彼は、再び画面に集中する。
「今日はさすがに先輩もいないだろうと思って来てみたんですけど」
金森は、呆れとも嫌味とも取れることを言いながら、つかつかとナオヤに歩み寄る。
「ふん、お前も来年のこの時になりゃ、同じことしてるさ。お前は俺に似てるから」
そこでようやく、ナオヤは筆を置き、腰に両手をあてて気持ちよさそうに伸びをする。彼が肩をグリグリと回すと、パキポキと体の鳴る音がした。
「来年ですか……」
グラウンドの脇の雑木林から、一匹のカラスが鳴く声がした。ガー。
「ああ、そうだったな。で、お前は何しに来たんだ? 」
「ただ、なんとなく。たまには違うところで朝を過ごしたくなっただけです」
と、金森は通のようなことを言う。
「ま、風邪には気をつけろよ。この時期ここに長居しようと思ったら、相当重装備が必要だぜ」
そう言って、ナオヤは自分の脇腹を叩いて見せる。いかにも重そうに膨らんだ制服の下には、ジャージ、カーディガン、カッターシャツ、Tシャツ、ヒートテックの肌着の順に、計五枚も重ねられている。重ね着も四枚を過ぎると効果が変わらなくなることを彼は知っているが、そこから先は所謂精神論の世界である。
「はは、まあ、風邪を引きに来てるようなもんですよ」
金森は更に近寄って、ナオヤの横に並ぶ。そして、肩を並べて書きかけのキャンバスを眺めた。
「人物画ですか。先輩が人を描くなんて、珍しい」
実際のことを言うと、その絵はまだその段階では、人物がと呼べるか怪しかった。なぜなら、そこには一面に塗りたぐられた無機質色の背景に、染みこむようなぼやけた人の輪郭が浮かんでいるだけだったから。しかも、それが横を向いている顔のものだと気づけなければ、それが人の輪郭かどうかさえ判然としないだろう。
「記憶を頼りに、って感じだ。どうもここのところモデルが出てきてくれねーから。ん、何だ、やけに興味津津な顔しやがって」
「あ、すいません。どんな顔をしてるのかと思って、つい」
金森は、その輪郭の内側に食い入っていた視線をナオヤに戻して、はにかみながら自分の頭を掻いた。
「どんな、って、お前はもう知ってるだろう」
「それは、まあ、そうですけど。でも、俺が知ってるのと先輩が知ってるのとは違うかもしれないですから」
金森は真剣な口ぶりで言う。
「ふむ、そいつは俺の腕の見せどころってわけか。お前の言いたいことはよく分からるぜ。ま、何にしてもこいつができあがるにはまだ時間がかかる。その間は俺もここに居させてもらうぞ」
「もちろん、構わないですよ。むしろ邪魔してすいません。もう少ししたら戻ります」
そう言うと、金森はナオヤの横を通って、グランド側の手すりに両腕を預け、だらりと脱力する。そのまま脱力ついでにポロリと手すりごと落ちていきそうな気がしてナオヤは冷やりとしたが、それも杞憂である。
「そういえば、先輩ってどうして同好会やめたんですか?」
金森が、目の前の吹き溜まりに向かって問いかけた。何気ないようで、鮮やかに防止を巻き上げてゆく北風のような問いに、ナオヤは一瞬、ぴたりと筆を止めた。




