センターのこと 2
ナオヤは緊張していた。いつになく緊張していた。さらに突き詰めて言うのなら、昨日、センター一日目の試験の最中に経験した緊張を思い出して胃液を煮え繰り返させ、今日受ける試験への緊張に肝を冷やしていた。前門の虎後門の狼とはこのことである。
いったいぜんたい、彼は見かけによらず緊張しいであった。彼の知っている緊張への対処法といえば、自分の緊張具合が人目につかないぐらいに、そして胃に穴が開かない程度にそれをやり過ごす、しなやかさとでも言うべき小さな葦の精神を培うことぐらいであった。葦は少々風が吹いたところでなよなよとするだけだが、土ごと持って行かれてはひとたまりもあるまい。彼の今の状況はそれに近かった。
これほどまでに自分は緊張することができたのかと、ナオヤ頭のほんの一部で彼自身を冷静に客観視していた。しかし他の大部分では完膚なきまでに緊張していた。おそらくそれは言いすぎだが、とにかく彼は緊張していた。これがほんの一週間前、焦ることなど何もないと豪語していた自分かよ、と、ほんの一部の彼は呆れていた。そして大部分の彼は、窓の向こうに映る自分と視線が合えば「ざまあみろ」と言われそうに思って、顔を両手で覆った。
一週間前まで、まったくの事実として彼の口から言い放たれた言葉は、その数日後には微笑ましい戯言となり、そのまた数日後、つまり本番直前には、息が詰まるほどの重荷となっていた。それもこれも自業自得と思えば収まりがつく、という類のものでもない。そもそもその言葉とて所構わず大見得を切ったわけでもなく、彼の心づもりとしては、そういう風に言っておけばさすがの自分も尻に火がつくだろう、程度のものだった。それがいざ着火となると、火加減を間違えたのか、それともその時に引火性の屁でもこいてしまったのか、尻どころか一気に胸元の辺りまで焦がしてしまった。そしてその火は今でも絶賛延焼中である。笑い話ではない。
もし彼に何かしらの弁解が許される(あるいはそうするべき相手がある)のなら、それは一点、厳密に言えば、彼が抱いているのは焦りではなく緊張であるということだ。いい弁護士が付けば申し訳程度には刑が軽くなるかもしれぬ。あるいはかえって重くなるかもしれない。
争点となるのは焦りと緊張の違いである。ナオヤは考えた。曰く、焦りとは本番に対して十分な準備が間に合っていないという事実に対する第六感の過剰反応であり、曰く緊張とは、本番という事象そのものへの興奮あるいは漠然とした不安による思考回路の混線である。では、彼のは確実に後者であるのかという段になると、争点は“彼の準備が客観的あるいは少なくとも主観的に十分なものであるか”ということに移る。
もちろん、彼自身はそのつもりである。そのつもりあってこその大見得である。伊達に利き肘利き手首をぶっ壊したり、四十肩の大股一歩手前になったりはしていない。しかし、現実の司法現場でさえ自白強要がまかり通っているというのだから、現在の彼を首根っこで押さえつけている何かが彼の本来をあやふやにしたとしても不思議ではない。
いずれにせよ、それを審判されるのが昨日であり、今日である。彼は今度は深くため息をついた。
ナオヤがここまで緊張したのはいつ以来か。彼は思いを巡らせた。真っ先に彼が思い起こしたのは、中学二年の初夏、学年キャンプの“夜の集い”で漫才をやった時のことである。彼はその時までに既に二、三回場数を踏んでいたのだから、成り行きでは回数が増えるに従って人目に慣れ、緊張も減るはずだった。しかし、そこで事件が起こった。相方が風邪でキャンプを休んだのである。つまり、どういうことが起こったかと言えば、彼は一人で舞台に登らなければならくなったということである。単純に考えて、それまで下降線上にあった緊張指数が二倍に跳ね上がったのだから、一大事だ。生憎、相方が休んだのだから今回は出番なし、という意見は誰からも挙がらなかった。
次に思い出したのが、中学三年の夏、部活の県大会である。奇しくも彼はバレー部のレギュラーだった。そして、奇しくも彼の中学のバレー部が県大会に勝ち残ったのは数年あるいは十数年ぶりのことであり、顧問はじめメンバー一同張り切っていた。奇しくもバレーは団体戦であり、一人のファインプレーも一人のミスもスタメン六人及びベンチ六人おまけに顧問と監督、マネージャーを合わせて計十五人の得失点となる競技であり、そのプレッシャーと多くの険しい視線を最も冷静な形で感じることになるプレーが、一ゲームに少なくとも六回は回ってくるサーブであり、奇しくも彼が最も苦手としていたのもサーブだった。……これ以上説明する必要はあるまい。
ナオヤは、そこまでのことを回想して、その回想が全くの無意味であることを悟った。結局のところ、それらの経験から学んだことはほとんどないような気がしたのだった。彼はその都度、やれることをやっただけである。その結果、前者では文字通り彼は上手く立ちまわったし、後者では十五人分の涙を背負った。要は半丁コロコロである。それでは対策も何もないではないか。
それでもって、昨日の試験で知った緊張は、今までのどんなものとも違っているように思われた。それはつまり、彼の一挙手一投足が、他の誰でもなく、彼自身の未来を大きく左右するだろうという状況に身を置くことへの緊張だった。彼にとって自分の未来にすがりつくことは、数百の視線や嘲笑よりも直視しづらく、十五人の三年間の汗と涙の結晶を背負うよりもよほど重苦しかった。アナログ時計の長針と制限時間を示す数字との間の角度が刻一刻と狭まっていく中で、分からないことが確実な問題を切り捨てていくのは、冬山で吹雪に襲われて、壊死を起こした自分の体を外側から少しずつ切り離していかなければならないというときの感覚ときっと似ているだろう。神経まで壊死を起こしているのだから、ナイフを黒ずんだ肌に突き立てようと物理的な痛みはない。しかし、それでも彼は、声にならない声でうめくことになるだろう。そして、上手い処置がなされなければ、彼はきっと一生グロテスクな痛みを負うことになる。
いつの間にか、地下鉄はどこかの駅のホームに止まっていた。再びあの蒸気が噴出する音がして、数人の乗客が出ていき、数十人が入れ替わりに入ってきて、七人掛けの座席に一人分ずつ開けて座っていった。彼の向かいにも、見知らぬ中年女性が腰を下ろす。彼は、瞬きをする間に彼女の顔を掠め見て、それから、静かに瞳を閉じた。発車のサイレン音が鳴り響き、ドアが閉まった。
グロテスクな想像は、消えた。




