センターのこと 1
8時06分
ドアが閉まるのを知らせるサイレン音、水蒸気が噴出しているかのような、ドアの閉まる音、束の間体が進行方向とは逆に引っ張られる感覚、同時に、金属の軋む音。それから、ゴトンと一度大きな音を立てて、地下鉄の車体は前へ進みはじめた。横掛の座席の端に力なく体重を預けて座っているナオヤの上半身は、慣性によって真横の手すりに押し付けられる。そこに痛みというほどのものはなかったが、振動が上半身から頚椎を経て頭部に至るまでのタイムラグで、彼の頭はぐらりと鞭打つ。この時、彼の視界からは、彼の首から上が波打つのと同じ速さで、世界がぶらんと揺れるように見える。一瞬の、無重力になったかのような感覚。それは鉄棒で逆上がりをするときに得られる感覚と似ていた。よく冷えて表面がでこぼこに錆びた鉄棒をつかみ、へそを両手の間の中心点に近づけるようにぐいと体を押し下げ、それと同時か少し速いタイミングで片足を蹴りあげ、勢いを殺さずにもう片方を蹴りあげ、そして直後、体が一本の細い軸の周りで、勝手に回転運動を開始するその瞬間、何か見えない力に持ち上げられているような浮遊感。
ナオヤは逆上がりが苦手だった。
トンネルの空気を常に前方へと圧しながら、車両はある加速度でそのスピードを変化させる。ナオヤの体も、彼の制服ズボンと座席のシートとの間に生じる静止摩擦力によって、同じ加速度で動き出す。最初、彼の重心直下のある一点での出来事であったそれは、数えるまでもないほど短い時間の内に、彼を構成する何兆もの細胞一つ一つにまで力を及ぼす。
ナオヤの理科選択は物理だ。そして、彼が今受けに向かっているセンター試験二日目の一時限目の教科が、物理である。無論、そのために彼は自分の身に起こる出来事を物理的に解析しているわけではない。熱心な学生であれば公式の一つや二つ確認し直すぐらいのことは移動中にするのだろうが、かといって彼はそこまで真面目でもない。彼はただ、なんとかして当り障りのないことに頭を埋めていたかったのだ。そのための手段として、物事を一々力学的に捉えてみるという思いつきはなかなか悪くない考えだった。そういう訳で、彼は人影のまばらな車両の中、鉄の箱が動く様子を、改まって観察していた。
例えば、彼の向かい側の天井に棒が取り付けられていて、その棒に並んで吊り下がっている吊り革のうちの一つを、吊り革1とする。吊り革の革と棒、革とリングとはそれぞれ点A・Bで接着していて、AB間の距離をLとする。今、吊り革1は車体と同じ速度で等速直線運動をしているから、吊り革に働く力とモーメントはそれぞれ釣り合っている……そこで彼は行き詰まってしまった。彼はこのとき初めて気づいたのだが、電車の吊り革というものは普通に電車が出発着する分にはそう大げさに揺れ動いたり、斜めに傾いたりしないのだ。幅のある吊り革の革は進行方向と平行に取り付けられているのだから、当然といえば当然のことだ。立って吊り革を掴んでいる時に、やたらとそれが揺れやすいように感じるのは、むしろ掴んでいる腕の方が揺れているのだろう。
動かないものを観察するのは退屈だ。
ナオヤは観察を止めて、浅いため息をつきながら目を閉じる。急に重力が増したような気がした。あるいは、体内の気圧が下がったせいかもしれない。なるほどため息というのは損である。
それから目を開くと、まっすぐ視線の向こうに見えたのは、同じくまっすぐと彼を見つめる彼の顔だった。地下鉄はこれだから神経臭いのだと、彼は再び息を吐く。しかも、黒い壁を背景に映しだされるそれは、当然のごとく暗い顔をしている。どうして地下鉄の窓はこんなに広いのだろう。彼は静かに憤った。




