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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
Re;1月
67/95

夢2

「秋の日の、ヴィオロンの、ためいきの……」


 急に、林野は立ち止まり、つぶやいた。彼とナオヤの二人で、校舎の周りを回って窓ガラスの朝日の写り具合を見ていた時だった。彼らは今、普通棟裏の中庭にいる。つぶやき終わった林野は、おもむろに一眼レフを持ち上げて、グラウンドの方の、校舎が空を切り取っている辺りに狙いを定める。


「ん、ヴェルレーヌか」

 ナオヤは、林野のレンズが指す先に目をやりながら聞く。白銀色に輝いている空に、年季の入ったコンクリートの壁が暗く立ちはだかっている。

「さすがですね、画伯先輩。俺はついこの前知ったんですけど」

 林野の顔はほとんどカメラに隠されて、口元だけがのぞいている。少し沈黙があってから、カシャリという音が小さく響いた。カメラを顔につけたまま、林野の口は再び動き出す。

「フランスの詩人で、ボードレールとユーゴーに影響を受けてる。ランボーをピストルで殺しかけて、刑務所を出てから教師になった学校の生徒かっこ男かっこ閉じるに惚れて駆け落ち同然でイギリスに。フランスに帰ってからは堂々のヒモ生活で生涯を閉じる。晩年の異名はデカダンスの教祖」

「よくそんなゴシップネタばかり集めたな」

「ネットで調べればこんなの最初に出てきますから」

「でも、どうして?」

「先輩、ノルマンディー上陸作戦って知ってます?」

「ああ、そいつが何か、ぐらいなら」

「まあ要するに、第二次大戦で連合国がドイツに占領されてたフランスに上陸するための作戦だったんすけど、その上陸作戦をフランスのレジスタンスに伝えるために連合軍が使った暗号がこれだったんすよ。『秋の日の……』の部分が、『近々作戦決行につき準備せよ』、続く『身にしみて ひたぶるに うらかなし』の部分が、『今から48時間以内に作戦開始』って言うふうに」

 カシャ、カシャと、続けざまに二度シャッターが切られる。

「へえ、そいつは知らなかった」

「俺もこの前初めて知ったから、誰かに話したくて。ミリオタの世界じゃ結構有名な話らしいっすけど。商業用ラジオでこの暗号を流したから、ドイツの諜報部もまさかラジオが使われるはずかないと思って無視をした、っていうオチがあるんすねー、これが」


 そう言ってカメラを下ろし、独りまんざらでもないような笑みを浮かべてから、林野は歩き出した。ナオヤも、それについて歩く。彼らは再びグラウンドの方に向かっていた。


「にしても、どうしてその暗号にヴェルレーヌが使われたんだ? そういう類の詩じゃなかったと思うが」

 ナオヤは聞く。

「さあ、それが俺にも謎なんですよー。そもそも深い意味があるかどうかも分からないっすから。ヴェルレーヌとノルマンディー上陸作戦の共通点って言ったら、一つぐらいしかないんすよね。つまり、ヴェルレーヌの生まれ故郷がパ・ド・カレーっていう港町なんですけど、そこはノルマンディー上陸作戦のときに、フェイクの上陸地に設定されて、連合軍から無駄に爆撃されたりしてるっていう。世界史でも結構有名な町なんすけど」

「俺は日本史選択だぜ。ま、何にしても面白そうな話ではあるな」

「ですよねー。画伯もこういう話好きっすか?」

 ナオヤは、その問に少し考えてから、

「そうだな、俺も歴史は好きだが、そういう小話みたいなのはあんまり得意じゃない。なんていうかな、そういう面白くて分かりやすい話だけ抽出してあれこれするのは、かえって筋を分かりにくくしてるように見える」

「あれ、もしかして俺、叱られてます?」

「いや、むしろ自分に言い聞かせたかせたつもりだが。一応、俺は大学で史学を専攻するつもりだから。そういう予備知識は多く持っていたいところだが、何でもまともに物にしようと思ったら、初めから正攻法うで、ってのが一番速い」

二人は、グラウンドに降りる階段だんの前で立ち止まった。林野が来し方に登った階段の隣にあるものだ。ちょうど、これで彼らは普通棟の周りを一周したことになる。時間で見れば数分とかかっていないが、空は幾分か明るく、青くなっている。

「へえ、歴史やるんすか。画伯先輩は画伯になるんだと思ってたんすけど」

林野は、しかし意外さの欠片も感じていないような口調で言う。ナオヤは乾いた声で笑った。

「まあ、なれるもんならなってみたいけどな、マジな話、俺の絵心でそいつを生業にしていけるとは思えない。期待値を込みにしても。それに俺は飽きっぽいからね、いつこれに飽きるかも分からん。その点歴史ってのは飽きを心配する必要がないからいい。それに、少なくとも研究分野に関しては自由だし。すべてのものに歴史はあるから」

そう言うと、ナオヤは階段の真ん中あたりまで降りて、そこに腰を下ろした。ぐっと低くなった視線からは、グラウンドのあちこちで、砂に紛れて何かが水を撒いたようにきらきら輝いているのが見えた。彼にはそれが何なのか見当がつかなかった。

「でも、歴史家にしたってまともに食っていける仕事じゃないっすよ。ていうかそっちの方がよっぽど道楽じゃないっすか」

「ああ。いくら俺でもそこまで甘く考えちゃいない。実を言うと、俺は教育者になりてーんだ。教師とかそういう括りじゃなくて、教育者に。より多く知っているなら、より多く教えないといけない。でも俺は、知識人よりも理解者になりたい」

「ポエムっすか? それ」

「うるせえ」



風に乗って、正門の戸が開けられる音が聞こえてきた。もうそろそろ、部活生が続々やってくる頃だ。

「秋の日の、ヴィオロンの、ためいきの」

林野が言った。

「身にしみて、ひたぶるに、うらかなし」

ナオヤが答えた。そして、二人は満足して、思い思いにその場を離れて行った。







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