プリンのこと
ナオヤは穏やかに息を整え、全身を貫いた熱の残余が消え去るのを待った。それにはそう時間がかからなかった。彼の叫び声に驚いてそこら中の茂みから飛び出してばたばたしていた鳥たちは、一様にせわしない鳴き声をまき散らしながら、元のねぐらへ帰っていく。彼は、宙に待った灰色の点の最後の一つが森に隠れてしまったのを見届けてから、再び口を開いた。
「急に驚かせて悪かった。まあ、驚かせるつもりでやったんだが。叫ぶのもいいぜ。ストレス解消だったら笑うよりも効果がある。もちろん、いつでもできることじゃないけどな」
反応はない。
「まったく、調子が狂う。ま、いいさ。
さっきのは、何を隠そう俺が最初の漫才で叫んだ言葉だ。どういう話の流れでそこにたどり着くのかはちょっと言えない。それに、俺が叫んだ時にハウリングが起こったから、ほとんどの奴は俺が何を言ったのか聞こえてなかったかもしれない」
それは嘘だ。ナオヤの制服の第二ボタンに引っ掛けられたワイヤレスマイクは確かに彼の声を一語一句漏らさず捉えて電気信号に変換しスピーカーへと送っていた。問題は、彼がいかんせん「L」の発音が苦手なことだった。「プリン」のうちの「リ」と発音する瞬間、彼の不器用な舌が声に追いつかず、上歯茎に接着できなかったために、「リ」の音から子音が抜けて、結局マイクが拾ったのは「プイン」という擬音語とも擬態語ともつかぬ言葉だった。
「はっきり言って出落ちみたいなもんだ。どうしてそんな言葉を選んだのかは忘れちまったが、多分語呂がいいとかそんな理由だろうな。今考えれば面白くもなんともないが、その頃には、何を聞いたって面白く感じる瞬間っていうのが今よりもあった。きっとそのせいだ。むしろ、言葉はなんだってよかった。全力で叫ぶことに意味があった。ネタの一部としても、それ以外にも。
ああ、色々と思い出してきた。それを叫ぶだけのことにも、俺たちはちょっと苦労した。何って、一年の秋だったな。それは。俺たちが漫才をやるって決まったら、やけに担任の先生が乗り気になってね、稽古をつける、って言い出した。『大勢の前でやるのなら、変なものは見せられない』って。それで、放課後、人がはけた校舎で、俺らと先生とが廊下の両端に陣取って、声を出す練習をした。さっきのあれも、何度も叫ばされた。まったく、その時点で先生も『変なもの』を見せる気は満々なわけだ。
変な気分だった。廊下は夕方の西日を受けて茜色に染まっていた。で、廊下の一番奥には先生がパイプ椅子に足を組んで座っていて、その顔には窓枠の影が差していた。そして俺は促されるままに、同じ言葉を連呼してた。その時ほど、学校の廊下が長く感じられたことはなかった。これが人に聞かれてたらどうしようとか、自分は一体何をしてるんだろうとか、そういう感情はなかったな。ただ、俺の思春期はなんだかよく分からんことになってしまった、っていう完了形の気持ちだけはあった。
結局、そんなふざけた練習をしたのもその時だけだった。おかげででかい声は出せたが、その分滑舌の悪さが際立っただけだったらしい。やり切った感はあった。それでも、自分たちだけでそれを感じてたって意味はないだろう。
少しぐらい意味はあったかもしれないな。そういう風に俺たちの出番が終わって、舞台から自分のクラスの席に戻ってから、何人かの先生が寄ってきて、握手をしてくれたり、労いの言葉をくれたりした。まあ、こっちからしてみれば、アホか、っていうところだったね。そんな風に評価されても全然嬉しくないわけだ。あと、休憩時間になったときに、一人の先輩がやってきて、その時は見たこともなかった人だったのに、やけに褒めてくれた。その時はそれだけだったが、まさか俺がその先輩と同じ高校に来るとは思わなかったな。もちろん、その先輩はとっくに卒業した。あるいは、俺よりかよっぽど変わった先輩だった。まあ、その人の話ももういい。
何の話だったっけ? そうそう、笑うことについてだ。たぶん、今まで話したところでもそれなりに笑うべきところがあったと思うが、どうだろう。見たところ相変わらずだな――




