表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
Re;1月
63/95

叫ぶこと

 ナオヤは、自分の話が一段落したところでようやく、辺りがやけに静かなことに気づいた。朝は確かに静かなものだが、学校の朝が他のどの公共施設より騒がしく始まるのは言うまでもない。空の明るさから言っても、とっくに朝練の第一陣、つまり野球部あたりが掛け声をあげてグラウンドを駆けまわっていてもいい頃だ。翻って、今までそのような様子もなければ、校門のスライド式の門を誰かが開けたような音もない。もちろん今日は休日ではない。部活がオフということはあるだろうが。


 ナオヤは静かな朝があまり好きではなかった。正確に言うと、自分の頭が冴え切った後にも静かな朝が苦手だった。寝ぼけているうちは、そんなことはどうだっていいが、一旦それが覚めてしまうと、世界の大半が未だ寝ぼけているうちから一人だけせかせかやっているというのはどうも具合が悪いように感じるのだった。その点、暗くて視覚的な孤立を感じさせる夜では、細々とした世界の囁きが絶えず彼の五感を刺激するのが心地よいのだ。朝は、その明るさに比して、密度が小さすぎる。もちろん、そこでは耳を澄ますべきものが眼の届かないところに隠れているのだろう。けれども、朝っぱらからそういう分かりづらいものに精神を集中できるほど彼に詩人の基質があるわけでもなかった。人間誰しも、分かりやすく動くものに目が行くという狩猟本能がある。


 したがって、ナオヤは、自分が喋り終え、静かになった今この朝の時間がむずったらしくてならなかった。単に沈黙を居心地悪く感じたと言えばそれまでだ。なにせ、彼の隣にいるのは最低限のこと以外、うんともすんとも、ニコリともしない少女だったから。普段は、何もせずともお互い満足できるような相手を心の隅で求めている彼にとっても、これは違う。


 と、ナオヤのいたく澄み渡った心の中で、この沈黙がいったいどれほどの厚みを持つものなのか、試してみたいという一種の悪戯心が急に生まれ、彼の見上げる朝空のように薄白んだキャンバスに一点、奇妙な色をしたシミが落ちた。そのシミは、彼の心の粗いキャンバス地に毛細管現象だかなんだかの理屈でもってしてじわじわと広がっていった。不思議なことに、そのシミは四方に広がるごとに一層濃くなっていく。


 ナオヤは、一つの言葉を思い出した。それは実に懐かしく、そして他ならぬ今思い出したのでなくては、一向に再び用いられることはなかったであろう言葉だった。彼の胸は、俄に高鳴った。風の止んだ屋上に、彼の鼓動だけが賑やかだった。


 彼は、一度大きく息を吸い込んだ。あるいは、彼はそのままことを実行に移すこともできた。しかし、彼が吸い込んだ空気は、余りにも冷たく、彼の肺を、ひいては彼の悪戯心さえも縮こまらせた。彼は、しばらく息を止め、体内に充満させた空気を、有り余る体温で温めてから、ゆっくり外へと送り出した。そして、それよりももっとゆっくり、今度は慎重に息を吸い込む。いつのまにか、彼の目の前な懐かしい光景にすり替わっているようだった。それは、やはり人々の頭より一段高い舞台の上で、数百数千の視線とスポットライトは彼らに向けられていた。彼は、その瞬間、全くの無心になる。そして――





「………プリンだあぁァァァぁあ!」





 ナオヤの、雄叫びとも理解し難い叫びが、澄明な朝の静けさを突き破って、地平線を不可思議な二色に切り開いていった。瞬間、少女の瞳は大きく開かれる。そして空の果てがいつものくすんだ青白色に戻った時、彼女の瞳は再び元の沈黙を取り戻した。やまびこの起こるはずもない学校の屋上で、ナオヤの脳裏ではまことしやかに幾重もの反響が巻き起こっていた。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ