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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
Re;1月
61/95

高いところのこと


「無表情な人間ってのは損だぜ」


 ナオヤは言った。口を開くたび、乾いた空気が彼の喉の奥をくすぐる。


「あと、無口な奴も」


 相変わらず、少女が返事をする気配はない。彼のこれまでの経験を総括すると、彼女は疑問形の言葉にしか口をきかない。いくつかの例外を除いて。それはもう、無口とかそういう問題ではないのだろう。そうでなければ、彼女の沈黙はすべて否定か肯定かのどちらかなのだろうが、結局それは、額縁の中にある顔に語りかけているのと同じことだ。「自分で考えろ」と言われているのだろうか。


 ナオヤは考えた。考え事をするには十分過ぎるほど、静かで雑念のないひと時だった。




 何が損で何が得かは所謂価値観の問題だ。賽銭を入れるのにもあれこれ縁起を担いで、五円だの拾円だのに懸ける人もいるし、灯りを取るのに平気で札束を燃やす人間だっているのが世の中というものだ。どうだ明るくなつたろう。

 いや、この場合お金でものを喩えるのは適切じゃないかもしれない。暗くてお靴が見えないわ。……しかし、どちらにしろ、物事には前提がある。誰しもその前提の中で物を考えているし、おおよそいつも、世界はその前提通りに動いている。そして、彼らは人間である。人間である限り、一人で生きていくことはできない。もしかすればできるのかもしれないが、少なくともそれでは、人との間として存在することはできない。これは言葉遊びだ。


 人は人であるかぎり、一人ではない。これは至って現実的な話だ。だから、無口は損だ。不自然とさえ言えるかもしれない。対話のないところに疎通はなく、疎通のないところに可能性はない。もちろん、そこには墓穴を掘る可能性だって(下手をすれば半分以上)含まれているが。そして、可能性のないところに得分はない。損をすることもないけれど、何もないよりかは何かあった方が後生のためだ。


 よって、無口は損だし、無表情も損だ。時に、それは自分だけの問題ではなくなるのだし。もちろん、それが分かっていたって、簡単にどうこうできることではないだろうが。


 

 ナオヤは考えた。考えることはたくさんあった。

 センター試験まではもう十日もなかった。もう一年もない、と言い始めたときからとうとう355日以上経ったのだ。そういう風に捉え直すと、彼は今までにはなかった感慨のようなものを持たないではいられなかった。

 不安がないではなかった。むしろ、漠然とした不安と称すべきものは常に彼の精神を圧していた。けれども、それは結局、ことが終わった後に関することだった。彼に心配はなかった。そんなものがあるならば、今頃こんな場所でのんびりと考え事などしていないだろう。

 正確に言うと、彼は、自分の身を心配する仕方を忘れてしまっていた。数年誰とも話さず閉じこもっていた人間が、声の発し方を忘れてしまうように、彼は自分の現状について、何をどう心配すればいいのか、その対象を捉えることができなかった。

 確かに彼には、この時期を迎えたからといって心配するべきことなど何もないようだった。志望は至って現実的な選択をしたし、模試でも現実的な判定をコンスタントに取ってきた。周りがあれこれ騒いでいるからといって、それに同調する義理もない。



 むしろ、自分よりも他人のことが心配になるほどだった。実際、彼に応援なり励ましなりを求めてくる同級生もいる。たとえそれが、普段は勉強や試験など屁とも思ってないような連中だったとしても、彼らの要望に応えることは一向にやぶさかでなかった。彼にできるのはそれくらいのことしかないのだ。それにしたところで、歯の浮くようなセリフを並べるわけでもなく、ただ、「大丈夫」だとか「なんとかなる」とかと言うだけだった。それだけのことにも、彼は口にしながら、ある種の虚しさを感じていた。どれだけ言葉を募ったところで、彼自身がそうであるように、彼らを「大丈夫」にするのも、「なんとか」させるのも、紛れも無く彼ら自身しかいないのだ。そしてまた、彼が大切に思う人たちは、それぞれ彼らなりに努力をしている。本当にがんばっている人を応援するのは、何のとりえもない相手を褒めることなんて話にならないぐらい難しいように、彼には思われた。そして一層、彼自身についてよりも、それを表す術もないままに、彼らのことを思わずにはいられなかった。



 思考はわずかに巻き戻る。そもそも、彼の三年間から食事と睡眠を差し引き、絵を描くことと文章を読み書きすること、そしてもはやライフワークと化していたマインスイーパーに費やした時間を差し引いた後には、おそらく勉強しか残らないのだ。悲しいかな、青々とした若気の至りが発揮されたのは、最初で最後、文芸部を復活させるために駆け回ったときぐらいだった。

 とにかく、彼は勉強に関して誰にも文句を言わせないだけの自負があった。そうでなければ、彼の三年間は何も生み出さなかったことにもなりかねないのだから。そうでないにせよ、やはり彼は心配をするつもりがなかった。


 ナオヤは、ふと手すりにもたれかかって、その真下に縮小された地面を見つめた。やけに目覚め立ての眼は冴えていた。グラウンドのフェンスと校舎とに挟まれたその場所は、朝露にほの暗くぬかるみ、日陰を好む植物たちが繁って、空気の流れにさわさわと揺れている。もしこの高さから重力に身を任せたとすれば、気を失う間もなく彼らの厄介になることだろう。彼は、高いところから下界を見下ろすとき、いつもこういうことを考えた。正気を失った後にすべてが終わるのならどれほど楽だろうという想像が過ることもあった。そして、その高さよりも、そういう想像を許している彼自身に身震いを起こした。


 彼は今、高いところにいる。誰の目も届かない、誰も知らないかもしれないところである。彼は自ら足を運んで、そこまで登っていったのだ。なんとかと煙は高いところが好きというやつかもしれない。彼なりに確かな足場を用意してきたのだから、心を波立たせることもない。しかし、彼には一抹の心細さがあった。もう、誰も彼のことを心配してはいないのだ。あるいは、はじめから。彼を表立って応援するのも、親と教師、目上の相手ぐらいのものだった。励まされた覚えもない。理由は簡単である。誰も彼が励まされるべき点を知らない。彼は、愉快なことにはいくらでも笑うくせに、痛烈なことには常にポーカーフェイスだった。

 ナオヤは、すでに彼自身が、人から心配されることに甘んじていい立場にないことを理解しかけていた。人よりも先に、人よりも高いところにいるというのはそういうことなのだろう。あるいは、それが、一人の人間として強く生きていくということなのかもしれない。そうでない限りは、真の意味で、人は自分のためだけにしか生きていけないのだ。これまでの期間が所謂モラトリアムであるなら、目に見える形でその終焉を迎えた後は、より厳格に、“これまで”を問われることになるのだ。それを考えると、ナオヤはやはり、不安に圧倒される。そればかりは、どうということもないように、とはいかない。その不安を分かち合える相手を、彼は知らなかった。そしてまた、その不安に心を費やしている内は、他の心配事など取るにたらないようだった。



「やっぱり、無表情ってのはいけない。俺はね、笑う、っていうことにうるさいんだ」


 ナオヤは言った。彼はもう、返事を待たなかった。
















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