精霊さんのこと その2
一月上旬 早朝
ナオヤは目覚めた。それまで見ていた夢の世界が徐々に色褪せ、暗転し、収縮していく果てに朝日が目蓋の裏を染めた。風は冷たいが、今度のはむしろ清々しい目覚めだった。頭痛もない。彼は、それでも目やにの溜まった目尻をこすりながら、未だ淡い光に霞んでいる空を見上げた。
凍てつくような朝の空気が喉を焼かないよう、用心深く幾度か深呼吸をした後に、寝袋の中で畳まれた両腕をごそごそと動かし、時間をかけてそれから体を取り出した。赤い、異様にかさばる寝袋である。その分暖かいのだが、なにせ上手く畳んで元通り袋にしまうのに手間がかかる。なんとか丸め込んだそれを袋に入れようとする度に、自慢の弾力性が遺憾なく発揮されて、袋の入り口に突っ込んだ方の反対側からずるずるとはみ出していくのだ。彼は、それを無理矢理押し込む作業をする度に、その寝袋を買ったことを後悔する。
もちろん、問題として取り上げるべきことがあるとするなら、それは寝袋がどのようなものかではなく、なぜ彼がそんなものを使っているのか、のはずだ。しかもここは、早朝の、学校の屋上である。何もないコンクリートの床の上で、たらこ状の容器から顔だけ出ているものが、夜の間中、誰に見咎められることもなく、定期的に寝返りをうっていたのだ。
要するに、ナオヤは学校の屋上で一夜を過ごすことに味を占めたのだ。連絡なしに家以外で泊まっても捜索願だのなんだのを心配する必要がないと分かったとき、彼は喜んでそのアドバンテージを活かすタイプの人間なのだ。ここにやってくる理由は、独りになることと絵を描くことであるのに変わりはなかったが、寝袋はもちろん、二回分の食事まで用意した。雨さえ降らなければ問題はない。そしていずれ、彼はその風雨さえ凌ぐ方法を見つけだすことだろう。
彼は、未だ冷め切らない頭をもたげつつ、静かな周囲の様子を見回し、状況を一つずつ、箇条書きにして把握していった。
晴れている。寒い。閑かだ。鳥の鳴く声がする。木々のざわめく音も微かに聞こえる。屋上の手すりには二羽のカラスが止まって、時折こっちを覗いている―食べ物には用心した方が良さそうだ―。それから……
彼は景色に誘われるようにして立ち上がり、関節をぴしぴしと鳴らし鳴らし、ついぞ見ていた手すりの方へと近寄っていった。止まっていた二羽のカラスは、しばらくそこへ歩いてくる彼を怪訝な目で観察していたが、ナオヤの足が彼らにとっての一線を越えた時、鞭に打たれたかのように羽ばたき、各々「ガァ」と声を上げ、翼をからめあって普通棟の方へ飛んでいった。ナオヤは、手すりの前で立ち止まった。
「やあ、久しぶりだ」
ナオヤは言った。彼の口から発せられた声は、澄んだ空気を振動させ、あるいはささやかな風に流されて、彼と、そして少女の鼓膜をふるわせた。話しかけた、と言うには少々憚られるような、見えない隔たりがそこにはあった。いつか彼が眺めていた。夕と夜の境目のような、何か。
「だいたい二ヶ月ぶり、ってところか。うん。前にここで会った時以来だ。もしかしてとは思ったが、本当にいるとはね。あんまり厚着してるようには見えないけど、寒くないのか? 」
少女は黙っていた。茶色のロングヘアーが、彼女の横顔をまばらに隠している。彼女は明けゆく地平線のその向こうを見つめたまま、精巧に作られた石像のように(実に陳腐な表現だが)、無機的にたたずんで、朝の風景に溶け込んでいた。ナオヤは、無性に、この風景を、描きとってみたいという衝動を覚えた。
「ま、大丈夫ならいいさ。それより、この前はありがとう。礼を言うのが遅くなった」
横顔が、わずかに揺れた。目が合わない程度にナオヤの方を向き、それから、小さく首をかしげる。
「筆のことさ。なかなか気の利いたプレゼントだった」
「そう」
そう言って、少女は再び前を向いた。そのはずみで、彼女の横顔を覆っていた髪のカーテンがはらりと揺れて、そのすきまから仄かな光が漏れた。
「そう。で、俺としては、何かお返しがしたいとこなんだが。何かご所望のものは?」
少女は答えない。
「オーケー、こっちで適当に考えよう。他にもいくつか聞きたいことがある」
例えば、いつのまに俺の誕生日を知ったのか、とか、とナオヤは心のなかで呟く。おそらくその問いにも答えは返ってこないだろう。彼は、いつの間にか彼自身も、少女の方を見ず、遠くの景色に向かって喋っていることに気づいた。そしてむしろ、その方が自然なようだった。刺激があり、認識があり、反応がある。その一連の流れがどこかで分断され、細分化され、何かのフィルターを通って再び元のようになる。そんな感じだ。
「まず、誕生日はいつ?」
彼は聞いた。できるだけ直入に、“そう”も“いいえ”もないように。
「私の誕生日……」
「君の誕生日。」
「今年は、来ない」
「へえ?」
そして少女は口を閉ざす。これじゃあ謎かけだ、と、ナオヤは口の中で唸った。「もう来ない」と言われれば、あるいは察しのつくところだが(もちろんその場合彼は相当焦ることになるだろう)。「今年は」と言うのだから、今日までに過ぎたというのも違うだろう。
「……もしかして、二月二十九日、とか?」
彼女は小さく頷いた。これが彼女でなければ、それが何かのサインだということさえ分からないだろう。
「なるほど。なら、その次の日にあげるさ。あと、その日も、ここに来れば会えるか」
「分からない」
「そう? まあ、確かに先のことは分からないな。雨が降るかもしれないし。まさか、雨の日はこんなとこにいないだろう?」
ナオヤは、冗談めかしたつもりで笑いながら、少女の横顔を覗きこむ。しかし、彼女は全くの無表情のようだった。可愛げがないと言えば、そうだ。それ以上に、少なくとも同じ人間として、ナオヤは不自然なものを感じないではいられなかった。
「笑わないんだな」
返事はなかった。




