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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
1月
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不思議なこと その1


 花田が進路指導室の中に消えて、五分が経過した。ケータイの電子表示が消えて、僕はそれをポケットにしまう。

 さっきから、指導室の中の会話はぼそぼそと聞こえてくるが、何を話しているのかはよく分からない。花田にしては大人しくしている方だと思う。


 今のところ、僕がこの進路指導室にお呼ばれしたことは、おかげさまで、ない。生徒の中には、指導室所蔵の過去問や進路資料を見るために足繁く通っている人もいるそうだが、残念ながら僕はそんなに熱心じゃない。というわけで、僕は進路指導室に入ったことがない。だから、この中で花田がどんな状況にあるのかは、皆目見当がつかない。まあ、心当たりはいくらでもあるのだが。


 それにしても、大した理由もなく寒い廊下で待たされているというのはたまったもんじゃない。進路指導室は、普通教室棟と特別教室棟とを結ぶ渡り廊下が目の前にあって、全開にされた渡り廊下の窓から吹き込んでくる風が、通り抜けざまに僕の体温をひっさらっていく。


 廊下には誰もおらず、何も動かず、陰鬱な静物画のように、ほの青い光が充満している。


 花田はここで待ってろと言ったが、そもそも誘拐同然で連れてこられたのだから、誘拐犯の命令を生真面目に守る法はない。それに、どうせ彼なら、僕を連れてきていることさえもう忘れているだろう。彼は目の前にあることしか頭にない。

 僕はついに決心して、一人で教室に戻ることにした。ここは三階だから、一つ階を降りなければいけない。


 と、体の向きを変え、足を踏み出したとき、自分のものではない足音が聞こえた。息の音にも消されてしまいそうなほど小さな足音だった。それは、少し離れたところ-渡り廊下の向こうから聞こえていた。反射的に、僕はそっちの方へ顔を向ける。


 見覚えのある、茶の長髪だった。僕はすぐに思い出す。いつかの精霊さんだ。精霊さんは、こちらに気づく様子もなく、特別棟の廊下を左から右へ歩いていって、すぐに、渡り廊下の入り口に切り取られた視界から見えなくなった。

 僕はそのまま体の向きを顔に合わせ、できるだけ静かに、早足で渡り廊下を渡った。何を隠そう、僕はまだ彼女の顔を知らないのだ。あの日直観した通り、僕は今の今まで、精霊さんの存在をすっかり忘れていた。あるいは、僕は知らない間に彼女の顔を教室の中で見ているかもしれない。いや、見ていないなんてことは確率的にあり得ないことだ。しかし、僕は彼女の顔を知らない。これは一体何事だろう。


 僕の足音は、渡り廊下の中をあちこち乱反射して、不自然に増幅していった。一部は窓の外に消え、一部は風の流れに弄ばれ、さらわれていった。その安定しないうなりの周期が、僕の混乱を一層加速させるようだった。


 僕が渡り廊下を渡り切ったとき、すでに特別教室棟の廊下に、精霊さんの姿はなかった。誰の姿もなかった。どこかの教室に入ったのか、それとも僕がここへ来るまでに、ダッシュで廊下の突き当たりの階段まで行ったのか。どちらにしても、廊下に人の気配はない。まるでホラー映画の世界だ。僕はやれやれとため息をついた。

 精霊さんの顔をまた見そびれたことが分かると、僕はその次に、彼女がこんなところで何をしていたんだろうという疑問に行き当たった。こんな時間にこっちの棟にいるのは、特別教室を管理しているそれぞれの教科の先生か、特別教室を活動場所にしている文化部の生徒ぐらいだ。それと、四階には普通棟に入りきらなかった三年生の教室があるから、三年生も通りはするが。


 しかし、僕が後ろを振り返ったとき、更に謎は深まった。背筋が寒くなりさえした。そもそも、彼女が歩いてきた方向は、すぐ目の前が行き止まりで、教室もなければ階段だってないのだ。あるのは、棟の壁を巡るようにして突き出したテラスへの入り口だけだ。


 僕は、訳の分からないままテラスへと向かった。風雨にさらされて縁の錆び付いた鉄扉を開け、一段低くなった白いテラスの足場に降りる。テラスの周りには、胸より少し低い高さまでコンクリートの欄干がある。テラスの足場自体は校舎の周りを一周するように細長く続いているが、その部分には欄干のようなものがなく、生徒が進入できないよう鉄柵が設けてある。その足場は壁面の清掃などに使うのだろう。生徒が入れるのは、廊下の突き当たりの壁を背にした足場だけである。

 特別棟の各階にあるテラスの鍵は、校舎が開くのと同じ頃に、用務の人が開けていく。だから、誰でもこのテラスには入ることができる。僕も、教室にいにくいときや、一人でのんびりしていたいときに来ることがある。アナウンス部や吹奏楽部の人が、練習をしていることもある。精霊さんも、そういうことをしに来ていたのだろうか。


 僕は欄干にもたれかかって、そこから見える景色を眺めた。前方には調理学校の建物があり、その駐車場が、ほとんどがら空きの状態で坂の道路に面している。坂の下の方では、もうそろそろ登校ラッシュを迎える時間らしく、ぞろぞろと続く制服の列が、騒がしく普通棟の校門に吸い込まれていくのが見える。何台もの自転車が、側溝の鉄ぶたを踏みならす音が聞こえてくる。僕のいるテラスへ目を向ける人は誰もいなかったが、それでも妙にそわそわとした気分になって、僕は欄干から身を離した。見上げると、空は既に、透き通るような青を輝かせている。僕の知っている朝はもういない。



 人の姿が見え始めた校舎を、自分の教室へ向かって歩きながら、僕はやはり、精霊さんのことを考えていた。

 どうして僕は、彼女の顔が気になるのだろう。別に僕は、そんなに人の顔を大事に考えている訳でもないし、そもそも見たことがないはずがないのに全く覚えていないのなら、つまりそれだけの顔っていうことなんじゃないのだろうか。うむ、すごく失礼な言い方だが。精霊さんのミステリアスなところに牽かれているだけだと思えばそれだけの気もする。

 じゃあどうして僕は、精霊さんの存在を、朝が終わると忘れてしまうのか? それは彼女が精霊だから、というのは少しふざけ過ぎだ。何も解決しちゃいない。


 もやもやしたものを抱えたまま、僕は教室にたどり着いた。

「おまえ、待ってろっつっただろ」教室に入りざまに、花田が飛びかかってきた。僕は横移動でそれをよける。花田は戸の横の壁にぶつかって、よろよろとした。教室の後ろの方で笑いがおこる。だいぶ人が来ているようだが、教室に精霊さんの姿はなかった。


 時計の針は、8時10分を少し過ぎたところにいる。僕の知っている朝は、もういない。

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