夢 1
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「俺にも、夢ができた」
金森は言った。まっすぐに、グラウンドのどこか一点に向って。
「へえ。そういえば、君の夢は今までに聞いたことがなかったね、はっきりとは」
「うん、今、やっと固まったばかりだから。ていっても、まだ全然具体的じゃないけど。まあ、それでも、今までデタラメに答えてきたのよりかは形になった」
「僕はてっきり、小説家にでもなりたいのかと思ってたんだけど」
風は冷たかった。僕は、こう言いながら、ポケットの中で温もりを転がした。
「それも、まあ、一つのゴールだな。これまで通り。でも、あくまでそれはゴールなんだ。たとえどんな経路を通っても、そこへ行き着くと思うんだ、俺の場合は。夢とか目標とかっていう風に考えてないってだけのことでさ。書こうと思えば、いつだって物語は書ける。現に今だって。まあ、プロの小説家として売れたい、って思うなら、それは夢になりそうだけどね、俺はあんまりそういう気がしない。
第一、小説家ってのは、あれで哀しい仕事だと思う。だって、そうだろ。嘘をつくのが仕事なんだから。詐欺師よりも巧い手口で、現実よりも精密に、嘘を作り続けて、信じさせなきゃいけない。こういうことを言うとさ、俺の言ってることが本当なのか嘘なのか分からなくなるんだろうな。ねえ、お前はどこまで俺を信じてる? 俺が今まで話してきたことは、全部本当なんだぜ。俺のこの言葉を、信じられるか?
……嘘じゃないにしても、言葉ってのは虚しい手段だよ。まあ、そこで完璧な創造を追い求めていくことにやりがいが見いだせるなら、それはそれで、自己完結ができるんだろうけど、それだけじゃ満足できなくて、誰かに嘘じゃないものを伝えたいってなったら、それはもう、本当に繊細な問題になってくるんだ。
嘘をつき続けることで、相手に本当のことを伝えるなんてことができるのか?
何かを伝えたいんなら、はじめから、小説なんて回りくどい手段を使う必要はないんだ。箇条書きにして首から吊り下げておけば事足りる。あるいは、文字なんてものを使う必要すらないかもしれない。直接相手の目を見て話せば、もしかしたら、話さなくったって、よっぽど多くのことが伝わるかもしれない。むしろ、そっちの方が多いんだろうし、そういうものとして社会は成り立ってる。異端なのは俺の方だ。なんだかんだで、話すよりも、自分の書いたものを読んでもらうのが、一番正直にやれると思ってる。でもさ、やっぱり、文章ってのは受動的なメディアだ。誰かに手紙を送りつけたって、相手に読まれなけりゃ意味が無い。読んでもらえたとしても、相手がこっちの真意を読み取れないことだって、いや、そのほうがたいていだろう。小説だったらなおさら。
直接感じたもの、直に入ってくるものしか信用されないんだとしたら、俺はくじけそうになる。実際、俺はお手上げだよ。今のところ、俺の限界はそこなんだ。たぶん俺は、だれかと顔を向き合わせても、正しいことは何一つ伝えられない。
あぁ、どうして俺は、本当に話したいことがあるとき、まともに人の顔を見れなくなるんだろう。大事なときでも、頬が勝手にゆるんで、にやけたような顔になる。そうならないでいようと思うと、今度は相手の目を見れない。そんなざまで、いったい何が信じてもらえるって言うんだろう。
俺が物語を書き始めたのは、小学校の五年生からだった。これははっきり覚えてるんだ。なんでかって、きっかけがはっきりしてるから。国語の時間でさ、物語を自分で書く、っていうのがあったんだ。教科書の見開きの絵を見て、そこから着想しなさい、っていう感じの。男の子と女の子が二人ずついて、男の子の一人はいかにも足が早そうな顔をしてて、もう一人はメガネをかけてる。女の子の方は、一人が長髪のいかにもしっかりした長女、っていう子で、もう一人はほっぺたが特別赤くて、いかにも元気そうに描いてあった。その四人が一枚の地図を囲んで何か話してて、背景には、森のなかの道がレジャーマップみたいな構図で描かれてる。洞穴の中に可愛い目をした熊の親子がいたり、ロープがちぎれかけた吊り橋があったり、まあ、そういう感じの冒険ものだね。
で、その課題のために原稿用紙に向かい合った時、俺は何かのスイッチが入ったんだ。その授業は数時間分しかなかったけど、俺はそれが終わったあとも家に原稿用紙を持ち帰って、居間に寝転がりながら、話の続きを書き続けた。先生が止めても書き続けてた。どれくらい書いたんだっけ。確か、その時はまだ三十枚ぐらいで手を打ったと思う。でも、それだけじゃ書き足りなかったから、今度は課題とか関係なく、自分で物語の続きを書き始めたんだ。家に帰ったら、他の宿題を適当に済ませて、後は飽きるまで原稿用紙に書き続けるっていう、まあ、今思えば不健康な子供時代だったね。結局、その話だけで二百枚ぐらいは書いたと思う。その時分にそれだけ原稿用紙を消費してたガキはそういないだろう。中学生になったころには、そういうことは全部パソコンでやるようになってたけど。
その時の物語? ああ、多分、もう全部捨てたと思う。原稿用紙二百枚ってのはね、かさ張るんだぜ、結構。まあ、仮にまだ持ってたとしても、読み返せるような代物じゃないし……あったらあったで懐かしくも思うんだろうけどね。
そうだな、もう、そのころから俺は素直じゃなかったから、書くっていうのもはけ口の一つだったかもしれない。ただ、どっちにしても、そうやって書いたものをおおっぴらに人に見せてた訳じゃない。よく、勝手にばーちゃんに読まれて、機嫌を悪くしてた。あくまで、自分が考えだした世界は、自分だけのものだった。誰にも邪魔されない、自分の思い通りにできる世界。人に見せようと思うと、かえって自由が利かなくなるから。
もしかしたら、俺の創作はその頃が一番芸術的だったかもしれない。ただ、書くことだけが目的だったから。今は違う。今は、どうにかして、伝える方法を探してる。その精度を求めてる。しかも、それを追求すればするほど、自分がどんな人間なのか、何を伝えようとしているのか、ってことを考えないといけなくなる。正直、それは苦しい作業なんだ。結果によっては、俺は絶望しなきゃいけないかもしれないし、こればっかりは、誰も何も保証してくれないから。
ねえ、知ってるか。これまでさんざん、若者の活字離れがどうとか、そうでもないとか言われてきてるけどさ、実際のところ、書きたい、って思ってる奴はたくさんいるんだ。少しでもネットを漁ってれば分かる。できのいいやつから悪いやつまで、そこら中に転がってる。有名な作家が、匿名で投稿してることもあるかもしれない。理由はたぶん、簡単なんだ。一部は、本当に物好きがネットの便利さに物を言わせてるんだろうが、他の大半は、ただ、自分の言葉を、つまり、そこに表現したつもりになってる自分を、誰かに読んで欲しいからだ。匿名の、あるいは誰も傷つかない条件下で、ありのまま、正直になりたいからだ。まあ、今の俺と一緒だよ。とにかく、自分の考えを知ってほしい、あるいは、同情して欲しい、賛成して欲しい、褒めて欲しい……そいつらにとって、今の俺にとって、書くことは、はっきりした目的を果たすための手段なんだ。ツイッターだとか、ブログだとかと何も変わらない。それで、欲求が満たされれば、そいつらが書く理由はなくなるんだから、ぱったりと姿を見せなくなる。ある種の避難所か何かだと思ってるのかもしれない。
きっと、俺は書き続けるだろう。たとえ今すぐ、自分の伝えたいことを、伝えたい相手に、全部伝えられたとしても。
なぜか? まあ、確かに、少しは俺にも物好きの気があるんだろう。何の理由もなく書きたくなる時はしょっちゅうある。でもさ、結局、俺の棲み家がそれってことなんだ。一番大きいのは。両生類みたいなもんなんだよ。陸の上でも歩けるが、水のなあを泳ぐほうがよっぽど速い。こいつは、俺のあり方を束縛する入れ物ではあるけど、同時に、俺の歴とした一部なんだ。まあ、だからって無条件に肯定できるものでもないし、今のところとりとめのない使い方しかできてないから、こうやって悩むんだけどさ。
やっと、夢の話に戻るけど、つまりね、その、俺がたぶん一生付き合ってかないといけない“書く”っていうことを、どれだけ俺そのものに近づけられるか、それが問題なんだ。言文一致とか、そんなつまらないことじゃない。俺は、言葉の本質的な虚しさを、少なくとも俺の一部であるかぎり、真実にしてやりたい。言ったろ、俺は、満たされたいし、満たしたいんだ、って。そうすれば、もしかしたら、俺のやり方でだって、誰かの心に直接触れられるかもしれない――
それが、まず、一番大きくて、一番難しい夢だ」
金森は、瞳を閉じて、静かに頷いた。少しは納得ができたのかもしれない。あるいは、とても長い時間が過ぎたのだろうか。夜空を見上げても、僕がそれを確かめる術はなかった。星たちはただ、意味ありげに散らばって、思い思いに瞬いているだけだ。僕は、ふと、ひとまとまりの言葉を思い出した。それが何を意味するものだったのか、それを思い出す前に、かすかな風は、思わせぶりな音を得た。
「象は平原へ還り――」
「僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう……なんだっけ、これ」
「村上春樹」
「ああ、そうだった。うん、つまり、そういうことなんだよ―俺が言いたかったのは」
その文句は、実に、はじめから、僕らの記憶に刻まれたものだった。それは、もしかすると、ひどく遠回しに、僕を、そして金森を縛り続けていたのかもしれない。
言葉は、おそろしい。
再び、犬の遠吠えが、冴えた空気を震わせて、僕の耳元に届いた。たぶん金森にも聞こえただろう。彼は、グラウンドの真ん中を見つめていた。僕は、地平線があるはずの位置を、何を探すでもなく、眺めていた。




