ゴリラとテロリストのこと
「おはよう・・・・・・あ」
「あ、おはよう」
「うっす」
入ってきたのは、いつものたいやきさんだった。花田に気を取られて、足音に気づかなかったのだ。
たいやきさんは、僕と花田が腕をつかみ合って互いを制している様を見て、口を半開きにし,戸に後ろ手をかけたまま固まる。
「えっと、お取り込み中でした?」
「いや、ゴリラが暴れ出したから取り押さえてるとこ。おら、麻酔銃」僕は、たいやきさんに気を取られて力が抜けていた花田の両腕を、学ランの上から思い切りつねる。花田は僕から飛び退いて悶絶する。
「っってーなころやろう」花田は悪態をついた。
「うるさいな。もうそろそろ動物園に帰れよ」
「仲いいね、二人とも」たいやきさんは笑顔で言った。またベタな落ちの着けかたを・・・ 僕は、もう声を張り上げる気力もなかったから、ただ苦笑いをして流した。
しかし、あのタイミングでたいやきさんが来てくれなかったら、僕は少々真剣に危なかったかもしれない。もちろん、どう危なかっただろうかというのは考えたくもない。
「花田君今日は早いんだね」たいやきさんは言った。もちろん彼女は花田のことをゴリラと呼んだりはしない。花田は自分の席に戻りながら答える。
「部活がオフだからさ、シノをいじめに来た」
「やめろ」僕は言った。やめろ。
「永井さんていっつもこの時間に来てんの? 勉強?」花田は聞いた。
「え? あー、うん、一応勉強してるよ。結局全然集中できてないんだけど」たいやきさんは照れくさそうに言った。確かに、僕がしっている限り、彼女は勉強している時間よりも、誰かに話しかけている時間のほうが長い。
「いや、やる気があるだけでもマジでうらやましいわ。それにひきかえシノと来たら」花田は言った。僕はペンで机をこつこつたたいて抗議の意を示す。
花田は、目上の相手に対しては彼なりの恭しい態度で接する。一部の女子に対しては、急におとなしくなったり、不器用に持ち上げたりすることもある。それ以外のすべての人に対しては、それぞれのテリトリーに土足で上がり込んで、気ままに荒らし回って満足すると帰って行く。そして僕のストレスは募る。彼はそういう人間だ。
しかし彼は、僕から借りたジュース代の小銭を返したことがないのを別にすれば、誰からも何も奪わない。彼は決して誰かの予想通りには動かないが、頼まなくても何かを持ってきて、立ち去り際に置き忘れていく。それは彼の破天荒につき合わされた疲労感かもしれないし、食い散らしたバナナの皮かもしれない。けれどたまには、もっと温かいもののこともある。そういうテロリストだって、どこの学校にも一人はいるものだ。
だから、問題は、ゴリラとテロリストが同時にやってくることである。
「あ、そうだ、進路指導室に用事があるの忘れてたわ。行くぞシノ」花田は、急に立ち上がって、そう言った。僕が、彼の言うことの意味を分からないでいると、彼はこともなげに歩いてきて、そして僕の制服の袖を引ったくった。
「っておい、行くなら一人で行けよ」
「どうせお前も暇だろ?」
「それは、どうかなっ」
僕は全身全霊をかけて花田の手を自分の腕から引き離そうとするが、やはり花田も伊達にゴリラではない。僕はイスごとこけてしまうのを避けて、渋々立ち上がった。そのまま、引きずられるように花田の後について行く。ああ、なんて仲むつまじい光景なんだろう。
「いってらっしゃい」
たいやきさんが言った。教室から完全に引っ張り出される寸前に、きれいな白い歯が揺れているのが見えた。
時刻は7時50分――