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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
Re;二学期
45/95

美術室でのこと その1


「先輩」


 花田の呼びかけに、返事はなかった。放課後の静かな美術室で、ナオヤは布を被った大きなキャンバスの前のイスに座って、左手に持ったスマートフォンを食い入るように見つめていた。彼の左手の親指は、画面の上を滑らかに動き回っている。


「先輩ってば」


 二度目の呼びかけも、ナオヤの耳には届かなかった。むしろ、彼の親指の動きがいっそう速くなったようにも見えた。明かりのついていない薄暗い部屋で、彼の端正な横顔はぼんやりと浮かびあがって、瞳が小刻みに一定のリズムで振れる他は、すべてがセメントの中に漬け込まれているみたいに固定されている。花田は、この厄介な先輩が集中を途切れさすまで待たなければならないことを悟った。彼は、この先輩がマインスイーパーに集中している間、何をしても無駄であるということを知っていた。


 まだ明るい日差しは、実にさらさらと音をたてるかのように、窓の外から入り込んで、ナオヤの顔や、その前に佇むキャンバスの布に映り込んだ陰の色を、刻一刻と変化させていた。花田はその色の移り変わりをナオヤの背後から見守っているのが馬鹿らしく、またつまらなく感じて、今すぐにでも帰ってしまいたいほどだった。彼は、今すぐにと言われて美術室へ急いで来たのだ。そもそも彼は黙ってじっと待つのが苦手だ。彼はそのまま何もしないで待っているのを諦めて、ごちゃごちゃとした美術室の中を見回り始めた。

 そうこうしながらも、ついにしびれを切らして踵を返してしまおうかとしたその時、ようやくナオヤは動きを見せた。それは彼の指の動きがピタリと止まることから始まって、それからもう二、三度画面を滑り、不意にスマートフォンの明かりが消えたかと思うと、左手はそのまま左の学ランのポケットへしまわれた。そして、右手で口を隠しながら、大きなあくびをする。そこから再び、さっきまでとは意味合いの違う停止状態にナオヤは入ろうとしているように見えた。


「先輩」

「ん、おう、花田か」


 そう言って、ナオヤは初めて花田の存在に気づき、体をそちらへ向ける。花田は、馬鹿らしいには違いなかったが、やっとのことにいくらか安心する。


「先輩、またマインスイーパーやってたんすか。ほんとに飽きないっすね」

「ああ、飽きないよ、こいつは。奥が深いからな。一度やりはじめたら止まらなくなる」

「暇人っすね、先輩。でも、いいんですか? もうすぐ受験っすよ」

「おう、相変わらず遠慮がないな」


 ナオヤは、花田の不自然な敬語に苦笑いしながら言う。彼が敬語を使いながらずけずけと物を言うのもいつものことである。


「あ、すいません」

「いや、別に構わない。俺に遠慮しないのはお前ぐらいのもんだからな。一人二人そういうのがいた方がいいさ」

「そうっすか? じゃあ、遠慮なく」

 花田の切り返しに、ナオヤは小さく吹き出す。

「はは、実にいい。そういうのは。ただ、暇人っつうのは聞き捨てならないな。俺は価値を蓄積してるんだよ」

「なんすか、それ」

「フン、お前も三年のこの時期になれば分かるぜ。で、今日は俺に何の用だ?」


 花田は、そう聞かれて、着々と忘れかけていた本来の目的を思い出した。彼は、右手に握りっぱなしだった絵筆を、ナオヤの前に差し出す。


「これを、先輩に渡せって言われたんですけど」

「へえ?」


 ナオヤは、差し出されたそれを受け取って、目の前に持ってまじまじと見つめた。それは、黒の長い柄に銀色の金具で毛が留められている細筆だった。新品のように綺麗に手入れされているが、毛の糊ははがれているし、既に何度か使われた跡がある。


「これを、誰が俺に?」

 手に握った絵筆を見つめたまま、ナオヤは聞く。

「あー、しまったな、名前聞き忘れた……つーか、顔も見てないんすけど、さっき保健室行ったときに、カーテン越しに渡されたんですよ。けっこう無理矢理。でも多分女子っすよ」

「ふうん。まあ、心当たりがないではないが」


 ナオヤが入念に絵筆に見入る様子を見て、花田はようやく、その絵筆の存在に疑問が湧いてきた。そしてその謎の大半は、あのカーテン越しの謎の声に由来しているのに違いないのだった。


「それって先輩のなんすよね」

 花田は聞く。しかし、すぐには返事がなかった。しばらくしてから、

「その子は、これが俺のだっつってたか?」

 とナオヤは言った。今度は花田が黙り込む。


「まあ、そういうことだ。ちょうどこの太さの筆が傷んできてたから、ありがたく貰っておくけどな。それに、なかなかいい筆らしい。これは」


 ナオヤは、微笑を浮かべながら、それで事を決着させた。そうして、その絵筆を彼のバッグの画材入れにしまいにいく。しかし、その間花田はずっと、何かが頭の奥のほうで引っかかっているようなもやもやを感じていた。何かを忘れていることははっきりしているのだが、何を忘れているのかが分からなかった。


 


 












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