保健室でのこと
十二月某日、放課後――
「すぐ終わるから、ちょっと待ってろよ」
花田は、後ろに佇んでいる篠原に、そうとだけ言って、保健室の扉を開けた。実際彼は、六限目の体育で額につくった切り傷をふさぎに、絆創膏をもらう程度のつもりだった。腰の調子は悪くなく、コルセットの具合もあえて巻き直すほどではない。
「あら、こんにちは。今日は……怪我みたいね。けんかでもしたのかしら?」
養護の先生は、カーテンの閉まったベッドルームから出てきて、診療机の消毒液とガーゼを取りに行く。慌てる風もなく、常連を相手にする素振りだ。
「いやいや、俺、そんなに不良じゃないっすよ。体育のバスケでやっちゃったんで」
花田は言った。彼は、この先生の前ではどうしても不似合いな敬語もどきを使ってしまうのだった。腰の手当のために何度も腹をさらけ出さなければいけないせいで、本能的に上下関係が刻み込まれたのかもしれないが、彼女は花田が気圧される数少ない相手なのだ。
「あらそう? 人は見かけによらないわねぇ。はい、じゃあ消毒するからこっちに来てちょうだい。ベッドに寝てる子もいるから、静かにね」
「うっす」
花田は、上がりかまちで上靴を脱ぎ、部屋の真ん中に立つ先生の手が示す通り、壁際の硬いソファーに腰掛けた。重い荷物は足下に置く。ちょうど、さっき先生が出てきたベッドルームが正面に見えるが、カーテン越しには人の影さえ判然としない。
「じゃあ、消毒液が垂れるといけないから、ちょっとだけ右目閉じててちょうだい……はい、終わり。もう傷はほとんど固まってるわね。さすが、治りが早いじゃない」
「マジっすか? まあ、昔から怪我はすぐ治ってましたけどね」
「結構、結構。一応、絆創膏も貼っておくから、良くなったらはがしてちょうだいね。あら、こうすると本当に悪ガキみたい」
「今度は悪ガキっすか」
そこへ、部屋の奥から、電話のベルが鳴った。嫌な感じの鳴り方だった。
「あら、電話。じゃあ、花田君はそこの記録用紙を書いておいてちょうだい。あとはもう帰っていいから」
そう言うと、先生は電話の鳴る方へ歩いていった。花田はやはり言われたとおりに記録用紙の欄を埋める。利用者の名前の欄を見ると、彼の知っている名前もいくつかあった。しかしそのうちの二、三は顔も思い出すことが出来なかった。
花田はしばらくの間、保健室の中を、ソファに座ったまま眺めていた。まだ先生が電話から戻ってくる気配はなかった。先生が電話で話す声もやけに小さく、言葉の一つ一つを聞き取ることはできない。花田はそれをどうにか聞き取ってみたいと思った。そう思うのに理由はなかったが。
花田は立ち上がった。花田の神経回路は、思いつきと行動が一続きに直通している。彼は忍び足で、声のする方へと近づいていった。こういうとき、彼は音を忍ばせるのが上手かった。普段はその気がないだけなのだ。
「そうですか……はあ、それは残念ですが……ええ、仕方がありませんねぇ……いえ、そちらのことが第一ですので……」
先生の言葉はだいたいこのようだった。もちろんこれだけでは何のことだかは分からないが、しかしその口調から、何か良からぬことが持ち上がっているのは間違いないようだった。
「……分かりました。――さんもそう考えているのなら……一応こちらでも確認しますが……ええ、はい。ですが……」
不意に先生の会話に登った名前も、花田は知っているような気がした。これもその持ち主の顔が浮かぶことはなかったが。
そのとき、彼は自分の視界の隅で、何かが揺れているのを発見した。先生の話す声から意識を逸らして、そちらの方を向くと、さっきまで切れ目なくカーテンが閉められていたベッドルームの一つから、誰かの腕の片方が、手首より先の部分だけ外に出て、花田に対して忍びやかに手招きをしているのだった。指の一本一本が細く、淡いクリーム色のカーテンに擬態するかのような薄い色をした手のひらだった。花田は、その手のひらに招かれるまま、そちらえと忍び足のままで近寄った。
「あなたにお願いがあるの」
花田が、手のひらがカーテンの隙間から出ているところの目の前に来ると、静かに手のひらは奥へ消えていき、入れ替わりに小さな声が聞こえてきた。彼は、その声をどこかで聞いたことがあるような気がした。
それから、花田が何事かを問い返す前に、もう一度手のひらがカーテンの裏から現れた。今度は、そこに一本の絵筆が、柄の方を花田に向けて握られていた。
「これを、春岡さんに、今すぐ」
「はあ?」
花田は素っ頓狂な声をあげた。今回出てきた名前が、実によく知っている物だったのも意外であったし、何より声の主の頼みが、いや、この状況自体がうまく理解できないのだった。状況が飲み込めない事態に行き当たるのは、彼にとってむしろよくある(あるいは彼自身が創出している)のだが、それにしてもこういう成り行きは、彼の経験を探ってみても例がなかった。そのために一層、彼の好奇心は高められるようだった。
「今ならまだ、美術室にいるはずだから」
声の主は続ける。そして、手首一つ分、手をさらに前へ差し出した。それに促されるように、花田はその絵筆に手を回す。
「別にいいんだけどよぉ、なんつーか……何で?」
花田の手が絵筆を掴むと、すぐにもう一つの手は奥へ退き、見えなくなる。
「それは、あるべきところに、あるべきものを返さないといけないから」
「要するに、これは先輩のなんだな」
花田の確認に、返事はなかった。
「分かったよ。行きゃいいんだろ? でも、その前に、あんたの――」
彼は、手を伸ばして、彼と声とを隔てるカーテンを捲ろうとしたが、ちょうどそのとき、背後で、ガチャリと受話器の置かれる音がした。仕方がなく、彼は渡された絵筆を持ったまま、伸ばした腕を引っ込め、回れ右をする。
「あら、まだいたの、あなた」
奥から戻ってきた先生は、怪訝な目で花田を見つめる。
「あ、いやー、あれっすよ……じゃあ、もう帰りますから」
花田は、どうして自分が慌てなくてはいけないのか分からないまま、荷物を持って急いで体育館側の出入り口に向かったが、しかし、特別棟の端にある美術室へは保健室からグラウンドを回って行った方が近いということを思いつくと、脱いであった上靴を持って、もう一つの、グラウンドに近い出入り口の方から出ることにした。
「あざっしたー」
ぞんざいな挨拶を残して、花田は保健室を飛び出した。そのとき、彼は何かを忘れているような気がしたが、それが何かは思い出せなかった。




