不味いこと
「っ…………」
酷い頭痛がした。頭痛。頭が痛い。それに目蓋もひっついてしまって離れようとしない。それでもまぶたの裏はやたらと明るい。いやな気分がする。悪寒。痛みを伴った、喉の渇き……
朝だ。
だんだんと意識が戻ってくる。確かに朝だ。朝のにおいがする。夜の内に沈殿した何かが、朝日を浴びて化学反応を起こすにおいだ。でも、まだ目蓋が開かない……しばらくは開きたくもない……朝だ。
腕が、腕じゃないように重い。それに、少し動かすだけでも、頭が揺れるたびに激痛が走る。これは、不味いやつだ。
………あぁ……
カラスの鳴く声が聞こえる。あとは、知らない鳥の声、風……
ようやく神経が起き始めてきた。冷たい。それに、固い。まるでコンクリートの上に寝ているみたいだ……あぁ、これはコンクリートだ。間違いない。どおりで冷たいわけだ。けれど頭の下には柔らかいものがある。いや、柔らかくはない……これは、バッグだ。この感触は、中にペットボトルが入っている。うん、コーラだ。飲みかけの。……間違いない。あぁ………
頭の痛みが僅かに和らいで、意を決して起き上がる。その時体にがさがさとまとわりつくのがあった。肌触りからして、ブルーシートのようだ。目蓋ははまだ開いていない。なんとか腕を持ち上げて、両手の人差し指で押し開いた。目やにがぼろぼろと落ちる。汚い。
こすった両目で見えたのは、想像していた通り、学校の、屋上だった。いやな気分だ。すがすがしさの欠片もない。あたりはほのかな朱いろに染まっている。時間は……どうだろう、まだ7時にはならないぐらいか。いや、ここのところはほとんど毎日寝坊をしていたから、朝の感覚が分からない。朝練の声も聞こえない。通りの車の音だけが、耳を澄ませば聞こえてくる。
体の右側にはキャンバス台が立っている。昨日、制作に没頭している間に寝てしまったのだ。これは、不味いやつだ。下半身を動かそうとすると、腰から下がピリピリと痺れた。寒さと寝床の悪さで血行が滞っているらしい。あぁ。それでも、このシートがかかっていただけマシだろう。もちろん、自分でこいつをかけた覚えはないが。
立ち上がると、全身の関節がキリキリと痛んだ。頭痛も今尚継続中だ。情けないと言えばその通りだが、そうも言ってはいられないだろう。出だしは最悪だが、ここから一日を始めなければいけない。まずは頭を働かせることだ。それには、何か、糖分を……
この場所で手に入る糖分と言えば、選択肢は一つしかない。バッグの中のコーラは、ペットボトル一本にまだ半分以上残っていた。これだけあれば、十分……
「ウっ…げホッ……くぅ……」
これは、短慮だった。一気に呷ったコーラの半分はむせ返って口からこぼれ、もう半分は喉を通って空腹の胃を焼いた。不覚とはこういうことを言うのだ。あぁ。簡単なことじゃないか。飲む前に振って、炭酸を抜けばいい。俺は何をしているんだ。
やりきれない怒りを込めてペットボトルを振ると、途端に中の黒い液体は泡立って、蓋を解放した途端、突き抜けるような音を発した。すぐに炭酸は散った。体を動かしたおかげで、体もわずかに温まった。上半身の痛みは増したが。
学ランの右ポケットに、ケータイを入れたままだったことを思い出す。さすがに、それを取り出すのには気が引けた。現実に引き戻されるとはこのことだ。これだからケータイというやつは嫌いだ。こんなものがなければ、世界はもっと過ごしやすくなるだろう……やはり、着信履歴がたまっている。親からだ。頭痛が増す。しかし、思ったよりもその件数は少なかった。メールのメッセージも、最後には「寒いから体に気をつけなさい」だけになっている。ずいぶんと薄情な親だ。いや、これまでにもこういうことを繰り返してきたのだから、さすがに慣れたのかもしれない。いい傾向だ。そのうち、帰ってこないことにも気づかなくなればいい。そうすれば世界はもっと……今の時間は、6時半だ。
こんな時間に目が覚めているのは実に久しぶりだ。朝焼けを見るのはいつ以来だろう。こいつをみることができただけでも、多少は最悪の出だしから持ち直せる。朝も悪くはない。雲間から漏れる朝日に向けてかざした左手が、見る間に燃えさかる赤に輪郭を飲み込まれ、手のひらに影を残す蝕を作り出した。そして、その手のひらも俄に、鮮やかな朱色を浮き立たせる。
赤は血と炎の色だ。少なくとも地球上では。ゆえに、それは生命の色でもある。朝日のそれは、すべての生命を雄牛のように奮い立たせ、気色ばませる波長を持っている。しかしそれは、決して命を駆り立てているのではなく、ただ、肯定している。衝動はそれぞれの奥底に初めから眠っている。
空が、見渡せる限り、淡い朝焼けに染まった。恐らく、ほんの数分も持ちはしないだろう。あるいは、西に向かって走り続ければ、そうではないかもしれないが、そう言う問題でもない。
日の光を目で追っていると、自然、キャンバスが目に入った。赤らむ世界の中で、ぽつりと夜を切り抜いた一メートル四方のそれは、実に不相応というか、場違いに見える。白い背景にぽつりと佇んで、光をその水底に沈殿させている様子は、鈍く輝く惑星の表面に出来たブラックホールが、刻々と惑星の光を収奪していくのを、遠く離れた場所から眺めているようだった。ブラックホールは、取り込んだ光を二度と放出することがないから、黒い。
よくない。実によくない。これは少々悪趣味に過ぎる。昨夜、記憶のあるうちまで筆を加え続けた結果、あの不思議な吸引力を表現することはできたが、かえってそれが強すぎるように見える。重要なのは、心を牽くことだけではないのだ。常に引力と浮力が釣り合ったまま、わずかにでもそのつもりがあれば、自らの力で容易に浮上することができるような、しかしそうする気も起こらずに、慣性に従うまま、等速で沈んでいくような、そんな感覚……
とにかく、これも人目につかないうちに美術室へ運ばないといけない。それは少々骨だが。いや、少しの間だけなら、倉庫に避難させておくだけでもいいだろう。人に見せられるレベルではないが、このまま夜露に濡れさせるわけにもいかない。さて、どうしたものか
「なあ、いるんだろう。ちょっと出てきて手伝ってくれよ。体が痛くてろくにひもも結べない」
返事はない。しかし、どこかに彼女がいて、俺の見えないところから俺を見ているのは分かっている。そういう、そういう気配がする。
不意に、彼女は物陰から姿を現した。




