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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
Re;二学期
41/95

夜のこと

 午後7時。夜と言い切るのにはまだ早いかもしれないが、秋も終わりが近づき、この時間の空は夕べと言うのも似つかわしくない。ナオヤが眼下に見渡す町並みには、そんな時間の定義などお構いなしとでも言うかのように、見慣れたベッドタウンの明かりが広がって、不揃いな地平線と空との間に暮れることのない光の帯を浮かびあがらせている。と、言葉にすればいくらでも表現のしようはあるのだろうが、しかし陳腐に過ぎるこの夜景は、あまり見応えのあるものではなかった。そしてそれ以上に、その景色は何一つ彼の感覚に訴えかけなかった。彼が感じるのは、無防備な自分の頬に吹き付ける冷たい空気の流れと、何種類かの音が重なった絶え間ないうなり(・・・)、あとは靴越しに伝わってくる、コンクリートの冷ややかさぐらいのものだ。

 いや、もちろんそれだけではない。言葉に表すまでもないほどの、あるいは言葉に表しきれないほどの感覚がある。彼が求めているのは、むしろそのような、普段はほとんど気づかずにやり過ごしてしまっているような感覚だった。


 ナオヤはふとフェンスの側から後ずさり、首だけを回して背後を振り向いた。意識を傾けていた風の流れの中に、一瞬自分以外の気配を感じたのだ。振り向いた先に、風の通り道を遮るようなものは何もなかったが、彼はしばらくの間、そのまま闇に沈む背後の空間を注意深く眺め続けた。彼は、今日こそこの気配の正体を突き止めてやりたいと思ったのだ。

 彼がこの場所でそういう気配を感じたのはこれが初めてではなかった。最初、見回りの用務員が階下を歩いているぐらいに思っていたものが、回数を重ねるうちに、だんだんとそうでないように思われてきた。その気配は、いつもふとした時に現れて、現れきる前に消えていくのだ。気のせいと言われればそう思うほかはないが、たとえそうであったとしても、毎回同じ「気のせい」が訪れるのには何か理由があるはずだ。

 彼の恐怖心は、多くの場合防衛本能としての役割を果たさなかった。


 学校の屋上は、特に夜の間、ナオヤの好奇心を存分に満たした。そもそも、夜というもの自体が、彼にとって計り知れない知覚の対象を秘めた存在だった。彼にとって、夜こそ、五感を最大限機能させるのには格好の時間なのだ。そして小高い丘の上にあるこの学校の屋上は、恐らくここらでは一番、夜を夜らしく、かつ安全に感じることができる場所だろう。

 彼がこの場所への秘密の通路を発見したのは、去年、つまり二年の冬だった。彼は、特別棟三階のテラスでフェンスの鍵が壊れているのを見つけてから、ハシゴを登り切って屋上にたどり着くまでの成り行きを全く覚えていない。恐らく自分の直感に夢中になっていたのだ。そしてその時から今まで、壊れた鍵が取り替えられることはなかった。それをいいことに、彼はことあるごとにここへ来て、夜が更ける前にこっそりと帰った。親には、塾に行っているということにしておけば十分だった。


 ナオヤは、得られる限りの感覚を、取りこぼしてしまわないように神経を尖らせ、狭く細長い屋上の端を巡る。彼自身も、なるべく自分の気配を風に紛れさせるようにしながら。そうする理由は彼にも分からなかったが、そうしなければならないような気がしたのだ。

 夜の屋上には当然足下を照らすような明かりもなく、下界から届く光も弱いが、ナオヤはしっかりと屋上の輪郭を把握することができた。彼の眼はとうに闇に慣れていたし、元々彼の五感は人一倍鋭い。余計な物が見えない分、かえってよいほどだった。一歩一歩に意識を集中させながら歩く間中、彼の左には、腕を伸ばせば触れられる距離に落下防止のフェンスが続き、右側の前方には校舎内への出入り口と、そのさらに奥に貯水タンクがあった。それらは違うスピードで彼に近づくように見え、実際に近づいていた。そして、ある時を境に視界からはみ出していった。一つ一つの距離感、質感というような、自分を中心に動いている世界のあり方も、太陽の下で認識しているそれとは違って見えた。


 そうして彼は入念に辺りを観察した。けれども、彼がもと歩き始めた場所に戻ってくるまで、これといった新しい発見はなかった。ネズミや夜に飛ぶ鳥の姿さえなかった。あったのは、風と、音と、冷たさと……彼は、特別棟の屋上が一面に見渡せるその場所で、貯水タンクの僅かに上で輝く半月を眺めながら、小さなため息をついた。まだ、自分の嗅覚が、その気配をたどるのに足りないのだろうか、と。あるいは、今までに幾度となく感じた、あの夜と昼との感覚の違い、それを生み出している何かが作用して、実在しない何者かの気配を錯覚させるのかもしれない。そのように考えることもできたが、もしそうなのだとしたら、その「何か」を知ることは永遠に不可能かもしれない。ナオヤには、そんな気がした。



 風の冷たさが、一段と増した。恐らく、寒冷前線がはるか上空を通過したのだ。風向きが微妙に変化する。ナオヤは、無造作にはだけていた制服の襟を、一番上のボタンまではめて、体温が逃げていかないようにきつく締めた。いつものように何本ももってきたコーラは、寒さで胃が縮まったせいか、まだ小さなペットボトルの半分しか減っていない。時計を見ることはなかったが、だいたい8時を少し回ったころだろうと、彼は目算をつけた。普通棟を見ると、職員室の明かりはまだ消えていないが、その中にはもう数人しか残っていないようだった。もちろん、校舎の敷地内に留まっている生徒はナオヤ一人のはずだ。そして、この時間を過ぎれば、屋上に見回りがやって来ることはまずない。

 そのことを自分に納得させると、彼は次の作業に取りかかった。彼は、美術室から運び出してきていた描きかけのキャンバスを、組み立て式の台に取り付け、画材を広げ、その上小さな懐中電灯を腕に縛り付けて手元を照らす。キャンバス以外の必要な道具は、屋上に放置されていたブルーシートで覆って、出入り口の裏手に隠していたのだ。ナオヤは、十一月に入ってからほとんど毎日、取り憑かれたようにこの絵の制作を、夜の屋上で続けていた。彼の親は、急に彼が勉強熱心になったことを喜んでいるが、それも実を言えばこう言うことだった。


 彼が描こうとしているのは、真夜中のグラウンドの絵だ。しかも、それはグラウンドの絵ではなかった。


 ナオヤが夜の屋上で一番気に入っているのが、屋上の端からのグラウンドの眺めだった。夜のグラウンドは、校舎がある丘のふもと一面に広がる街の明かりとは対照的に、周囲の黒々とした茂みの中にあって、一層低く沈んでいるように見える。彼の心は、常に低い所へ流れようとする重い液体のように、いつもこの暗い蟠りへと牽かれるのだった。彼は、その姿を自らの手でキャンバスに写し取ることで、その不思議な引力を具体化したいと思った。

 けれども、彼がその姿をキャンバス上に表現しようと試行錯誤を続けるうちに、グラウンドはいつの間にか、グラウンドではなくなっていった。眼に映る姿はそれそのものに他ならなかったが、五感のすべてでその姿を把握しようとしたとき、彼が感じ取ったものは、グラウンドという形で表現するのが不相応なように思われてきたのだ。むしろ、彼が思い浮かんだのは、深く、広大な真夜中の湖だった。落ち窪んだ地形に流れ込む幾筋もの水が、せき止められ、循環することもなく、凪いだ水面の奥底に沈んでいくイメージが、独りでに彼の筆を動かした。


 ――彼はこれから、このグラウンド(・・・・・)を何度か描くことになる。


 

 既に、彼のキャンバスには、彼が描くべきほとんどのものが描かれていた。しかし、そこには一番の核心である、あの得体の知れない引力が、どうしても描き切れていないように見えた。ナオヤは、夢中になって、そこに足りない物を見つけ出そうとする。彼は、この一枚を、今日こそ完成させるつもりだった。時間を忘れて観察と修正を繰り返すうちに、晩秋の明けることがないかのような長い夜は、静かにその密度を増していった。









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