天文学的なこと
「で、おまえはどうなの」
林野は言った。彼の話を聞いていなかったから、「何が?」と聞き返す。
「だから、さあ、朝にパンをくわえて登校してたら曲がり角で転校生の女の子とぶつかってーとか」
そう言いながら、林野はペットボトルの紅茶を軽く呷る。彼は、たとえコンビニで買うとしても紅茶はダージリンしか飲まない。そして、何口目かには必ず「勝利の味とダージリンの香りは紳士の特権だな」と言う。あるいはこれを言うために紅茶を飲んでいるのかもしれない。
「あるわけないだろ、そんなの。第一、パンをくわえながら出歩いたりしない」どうしてこんな会話になったのだろうかと不思議に思いながら答える。
「えー、くわえればいいじゃん。絶対ぶつかるって、何かと」
林野は無邪気を装ったような口調で言う。どういうつもりで言っているのかは知らないが、彼が話の腰を折る達人であるというのは、彼と話すときには知っておかなければいけない。
「ないよ。この前、確率的にそんなことは起こらないって言ったのは君だろう」
「天文学的数字だけどゼロじゃないからな。トンネル効果と同じぐらいの確率で起こるぜ」
「なんだよ、トンネル効果って」
「壁にぶつかった物体が壁の向こう側へ壁を壊さずに通り抜けられる現象」
「へえ、そんなのがあるのか」素直に感心した。
「ま、人間サイズのものを通り抜けさせようと思ったら、一秒に一回のペースで数十万年はぶつかり続けてないといけないけどな」
「ふん、そうかい」
分かりきった話のオチだったが、それでもやはり馬鹿らしくて、ひとしきり笑ってから自分の缶コーヒーをガブリと流し込んだ。まだ冷め切らないコーヒーの香りが喉を焼く。
「でも気をつけろよ、トンネル効果のせいで歩いてたら突然地面の中に嵌り込んでたっていうのは希によくあるから」
そう言って、林野も紅茶のペットボトルに口を付け、例のセリフを口ずさんだ。
「うん、勝利の味とダージリンの香りは紳士の特権だな」
前から用意していた苦笑いを滞りなく彼に浴びせてから、意識をコンビニの休憩コーナーの外へ解放する。林野が話す声は、次第に遠くへフェイドアウトしていった。
特別棟の屋上でヒロから小説の続きを託されて、これで二回目の朝だ。それはまだ(もう?)一昨日のことだった。それでも、あのときからひどく時間が過ぎてしまったような気がした。
―今まで通り、見て、聞いて、考えたことをそのまま書けばいい―ヒロはそう言った。無論、そう言われなくたって、それくらいのことしかできそうにはない。そして、それくらいのことさえも、自分の周りで何も起こらない限りは、することができない。昨日がそうだった。注意深く感覚を研ぎ澄まして、肌に触れる空気の色合いまでいちいち気にしながら何かが起こるのを待ったけれど、結局待ちぼうけを食らっただけで、伏線の一つも見つけられなかった。つまり、いつも通りの一日だった。
一昨日のこと、それから昨日のことを考えていると、そのいつも通り、今まで通り、ということが、突き詰めるほどに分からなくなっていく。これまで、いったい自分はどうやって一日一日を過ごしてきたんだろう? いったい何を見て、聞いて、考えてきたのだろう? ヒロは、昨日の朝には何事もなかったようにけろっとした顔をしていた。頭は重く、言葉はうまく思い浮かばず、するべきこともなく、どこからの着信もない。いつも通り……軽い記憶喪失の症状が、ぼんやりとした核を中心に、ぼんやりとした空間の中で輪郭を広げていた。
「おい、話聞いてる?」
その声とともに左の脇腹を小突かれて、意識はふと休憩コーナーのいすの上に戻ってきた。「聞こえてはいるよ」と、あからさまに聞いていない体で返事をしたが、林野は少しも気色ばむことなく、そのまま何かの話を話し続けた。はじめから彼の話を聞く義理はないのだけれど、適当に相づちぐらいは打ってやろうかと思った。
林野と朝のコンビニで出会ったのは全くの偶然だった。時間の都合がついて親に送ってもらったら、校舎が開く時間よりも早く着いた。それで、このコンビニで時間を潰そうと思って入ったら、彼が飲み物の棚の前で紅茶を物色していたというわけだ。誰がどこにいてもおかしくはない世の中だから、特別彼がいることに驚きはしなかったが、振り返った彼と目があったときには、少々面倒だと思った。おそらく彼は、知り合いの中でも相当なおしゃべりに分類されるし、その枠を友人にまで狭めれば、たぶん彼は一番だろう。別に、彼の話(いったいどこで仕入れてくるんだろうというようなくだらない話や、雑学めいたくだらない話、そして純粋にくだらない話)を聞くのは嫌いじゃない。むしろ彼の話くらいくだらなさがないと、長時間付き合うのは無理なように思う。そう言うわけで、友人の中では彼の話を一番聞いている。面倒だと思ったのは、朝っぱらから彼の話を聞くつもりもないのに、それを断るだけの理由もみつからなかったことだった。そう言うわけで、今までいすを並べて彼の話が“聞こえてはいる”状態でいる。
林野は、写真を撮りに来たのだと言った。彼は写真部の部長である。だから彼が写真を撮るのは何も不思議でない。ご苦労なことである。けれども、わざわざこんな時間に来ているのはいささか不思議だった。最近の文化部員は朝型が増えたのだろうかとも思ったが、彼に朝の風景が流行りでもしているのかと聞くと、単に出品予定のコンクールの募集テーマが「朝」だからだと言う。それでここ数日は早朝に学校の周りのシャッターポイントを回っていたが、今日はこっちに着いてから天気が変わって、思っていた写真が撮れなくなったから、このコンビニで一服することにしたらしい。彼の座るいすの下には、折り縮められた三脚と一眼レフのデジタルカメラが入れられた革のバッグが置かれている。まだ彼のカメラを見たことはなかった。そもそも今まで興味すら持ったことはなかったのだけれど、ふとそれを見てみたいと思った。
「ねえ、これまでに撮った写真を見せてもらってもいいかい?」
林野の話が途切れたのを見計らって聞く。彼は一瞬躊躇するような表情を見せてから、革のバッグを開いて小さなアルバムを取り出した。デジタルカメラでメモリーを見せてもらえるのを期待していたから、遠回りせずにカメラを見せてくれと言わなかったのを少し後悔する。
「昨日までに撮ったやつで、悪くないのを入れてある。まだ出品できるようなのはねーけどな」
そう言われながら見てみれば、確かにどの写真も悪くないように見えたし、自信作というわけでもないように見えた。広告の写真とかテレビの映像に慣れてしまっているから、そういうのにありがちな構図や陰影の取り方の写真の方が見やすく思えるけれど、それがいいというわけでもないのだろう。所詮は門外漢である。
そういう風なことを考えながら、ふうん、だのへえ、だの適当な感想を言いつつペラペラページを捲っていると、あるページを通り過ぎた時に手が止まった。全く予期していないものが視界の端をかすめたような気がした。まさかと思ってページを戻すと、しかしそこには、はっきりと、その姿が映り込んでいた。手のひらが粟立つのを感じながら、林野がいぶかしがるぐらいに顔を写真に近づけ、そこに映る彼女の姿を凝視する。
僕の感覚は研ぎ澄まされた。




