素敵なこと
「頼みたいことがあるんだ」
金森は言った。僕は、何も言わずに頷く。
彼は空を見上げ、また暫く黙り込んだ。さっきから、時間がゆっくりと進んでいるように感じられた。あたりはやけに静かで、風もそよそよと音を立てずに揺れている。まるで、この屋上だけが雲の上に頭を出しているような、心もとなさがあった。
「続きは、カズに書いてほしい」
「続きって?」
「分かるだろう。この続きだよ」
金森は、自分のバッグからファイルに挟まれた原稿を取り出して、ババ抜きの手札のカードを捨てるような手つきで僕に投げやった。僕は、自分の膝の横に音もなく着地したそれを、いったいそれが何を意味しているのか、頭のどこかで考えながら眺め、そして手に取り、再び眺めた。
「言ってることがよく分からないよ。これは君の小説だろう」
「ああ、これは俺の小説だ。だから、持ち主の俺が、カズにもらってほしいって言ってるのさ」
「そういうことを言ってるんじゃないよ。これは君が書き始めた小説なんだ。君が書き通さないといけない」
「うん、そうかもしれない。でも、俺が書こうが、カズが書こうが同じことじゃないか。そうだろう?」
「同じじゃないさ。ねえ、どうしてそんなことを言うんだい。君らしくもない」
僕は、手に持っていたファイルを、金森がしたように、彼に向かって放った。しかしそれは、金森の足下には届かず、ちょうど僕と彼との中間地点にパサリと落ちた。
その瞬間、すべての現実感がすぐそこまで戻ってきた気がした。手を伸ばしたところには制服も透き通るような肌寒さがあり、風に漂う黴と水垢のむっとする臭いがあり、名前も知らない鳥のさえずりがあり、誰かが何かを踏みならす音があり、アスファルトにタイヤのゴムが押しつけられ、すり減っていく音があり、鋭く宙を掻いたボールが、グラブの腹に体よく収まる音があり、そして自分の心臓が脈打つ音があった。しかし、次の瞬間には、遠くの上空で沸き起こった摩擦音が、頭上を通り過ぎるのと同時にそれらを運び去ってしまった。それが行ってしまった後には、再び何も残らなかった。
金森は大きなため息を一つついて、その余韻が消えていくのを見届けてから、ようやく口を開いた。
「飽きたんだ。嫌になった。こんな文章を書き続けるのに。もっと違うのが書きたくなった」
「違うの、か」
「そう。これだって、もともと、息抜きのつもりで書き始めた物語なんだ。人の意見を気にせずに、自分が書きたいように書く。そういうのも必要なんだ。一つのプロセスとして。でも、もちろんそれはあくまで羽休めに過ぎない」
「じゃあ、もう君の羽は休み終わった?」
「さあ。それは動かしてみないと分からない。それでも、確実に言えることはー」
「休み続けてると、飛び方を忘れてしまうかもしれない」
「そう」
金森は頷いた。
「ヒロが言いたいことは分かるよ。でも、だからって君が始めたものを投げ出すのは間違ってる」
僕は言った。
「投げ出すんじゃない。カズに託すんだよ。まあ、そんな大げさなことじゃないけどさ、頼れるのはカズしかいないんだ」
そう言って、初めて金森は僕の顔を正面に見た。彼の二つの瞳は、まっすぐに僕の思考回路を貫こうとしていた。彼はもう、考えを曲げるつもりがないらしい。やれやれ、と僕は思った。
「そうかい。うん、でもさ、百歩譲って、君の頼みを聞くとして、うん、そう、僕が君の代わりを果たせるとは思えないんだけど。きっと僕の文章じゃ誰も納得しない」
僕の形式的な譲歩にも、金森はいくらか力を得たようだった。彼の顔には暫くぶりに笑みが戻って、彼の視線もふっと逸れた。
「今更納得もくそもないさ。自分で自分の文章に納得できなくなったからこういうことになってる。だから、カズは今まで通り、見て、聞いて、考えたことをそのまま書けばいいんだ。それで、俺の始めた物語を最後まで見届けてくれれば十分だよ」
「なるほど」
頷きながら、金森は始めからこうすることを決めていたんじゃないかというような気がした。あり得ないことではない。ただ、いずれにしても僕にはどうしようもないことである。
金森は、既に僕が彼の頼みを引き受けたものと決め込んでしまったらしく、ふうと息を吐いてから、一気に力が抜けたという風に、背中を倒してだらりと仰向けになった。いつか見たことのある光景である。僕は彼から目を離して、入れ替わりに、とっくに赤みの抜けきってしまった空へ向けた。再び現実感は現実に戻ってきていた。
「本当のことを言うと、これから先に起こることを、自分の言葉で言い表せる自信がなかったんだ」
金森は言った。
「そんなことだろうと思ったよ。で、君は次に何が起こるか知ってるのかい?」
「さあ。もう、俺も一人の登場人物でしかないんだからな」
「なるほど。直接自分に入ってくることしか信じられないってわけだ」
「要するに、今まで通りさ」
「違いない」
僕はため息をついて、それからどかりと背中を倒した。僕の体を受け止めた屋上のコンクリートは、目が覚めるほどに冷たく、そして硬かった。寝転がった床が硬いことに喜びを覚えたのは、これが初めてのような気がした。少なくとも僕は、目の前の青空にたった一人で放り出されたゴムボールではなかった。
「それで、何か違う物を書きたいって言ったけど、どんなのを書くつもりなんだい。まさか、例のなんとか関係の話じゃあるまいし」
僕が聞くと、金森はからからと笑った。
「はは、それもまあ悪くない。何にしたって、今まではずっと自分のために書いてきたんだ。うん、そうだな、つまり、これからは、誰かのために書きたい。なあ、自分が書いた小説で誰かが喜んでくれるなら、いいと思わないかい」
金森のもたついた口調に、彼のはにかんだ表情は容易に想像できた。
「素敵すぎて反吐が出そうだよ。でも、いや、釘をさす訳じゃないけど、きっと、それって難しいことだよ。どれだけ君が上手くやったって、それが報われる保証はないんだし」
その事実を受け止める覚悟はあるのか。この問いかけは、とうとう僕の口から出ることがなかった。けれども、金森は、少なくとも何かに頷いた。
「確かにそれは怖いけどさ、まあ、そんなときは、枕でも抱いて寝ちまうよ」
「うん、それがいい」
僕は言った。金森の声は、本当に注意していないと分からないぐらいいだけれど、震えていた。
うん、それでいい。
僕は、そう思った。




