これからのこと
「やあ」
「やあ,おはよう」
次の日の朝,僕は一つ上の階のクラスにいる金森に会いに行った。7時35分のことだ。
この高校には一学年に十クラスあって,二年の教室は校舎の二階と三階にまたがっている。もちろん,同じ二年の教室である限り,こんな時間にもう来ている人はほとんどいない。金森のクラスにも,まだ彼しか来ていなかった。彼は律儀に,教室の窓を全開にしていた。おかげでかび臭さはなかったが,凍えるほどに寒かった。
金森は,一応僕の親友である。もちろん,親友といってもいろいろある。ピンチの時にメール一つで駆けつけてくれて,「俺たち親友だろ」と言いながら友情パワーを発揮するタイプのものもあるし,体育の授業で二人組を作るときに,特に申し合わせた訳でもないが,自然と(しかたなく)毎回ペアになっている相手のような親友のタイプのもある。僕と金森は,むしろ後者だ。
金森とは中学からの付き合いだった。といっても,中学時分はあまり彼と仲良くしていた記憶がない。同じ高校に入ってから,一年の時に同じクラスになって,仲間意識的なものが芽生えたのだろうと思う。同じ同好会に入りさえした。
彼は僕と違って,とても成績が良いが,根は単純で鈍感な男だ。人見知りをするが,近しい相手には気前がよく,かえって人にはよくなつかれる。人を惹く人間のステレオタイプといっても過言ではない。しかし彼にも,僕の持っているものに似た身勝手さがある。僕にはそれが分かる。
「読んだぞ,原稿」僕は言った。そして,手に持ったクリアファイルからホチキスで留められた冊子を取り出す。
「お,サンキュ」金森は,僕の手から冊子を受け取った。
金森は小説を書くのが趣味の男だ。趣味が高じて小説同好会に入っている。会員は二人である。まあ,事情は察して欲しい。小説同好会の役割分担は,金森が書き専門で,僕が読み専門だ。彼が書いて,僕が読み,僕があれこれ文句を言って,彼が書き直す。その逆はない。僕は書かないし,彼は読まない。
「で,どうだった?」金森は聞いた。彼は僕に文章の感想を求めるとき,いつも恥ずかしそうにはにかむ。いたたまれない表情をすることもある。
「ん,そうだなぁ,まず全体のことだけど,やっぱり,一人称を僕にしてばっかだと,なんか自意識過剰な感じがするんだよね。この前もそうだったし。あと,少し語り口が偉ぶってる気がする。『俺は何でも悟ってるんだぜ!』みたいな感じ? 少し押しつけがましいところもあるかな」僕は言った。
「うーむ,やっぱりか。にしても,相変わらず手厳しいな,カズの評価は」金森はいかにも参った様子で頬を掻いた。僕も他にかける言葉がないから苦笑いをする。彼はだいたい言われることを分かってて聞いてくるのだから,彼に文句を言われる筋合いはない。
「でもなぁ,自分が書きたいように書くと,こうなるんだよなぁ」
「うん,ヒロが楽しんで書いてるのはすごく良く伝わるんだけどさ,やっぱり,読み手の受け取り方の問題として,書いてるのが高校生だって分かってると,どれだけ大きなことが書いてあっても底が知れるというか,鬼が笑うというか」
「でも,それくらいの方が,かわいげがあっていいんじゃないかなぁ」金森は言った。まったく,かわいげがあるとはよく言えたものである。彼がいたって真面目な顔をして言うものだから,僕は吹き出してしまった。
「どっちにしても,今度の文集にはあんまり載せない方がいいんじゃないかな,これは」僕は言った。
僕らは毎年夏と春に,同好会誌として文集を数十部作って配布することになっている。文章はすべて金森作で,監修は僕だ。
「分かったよ。俺は結構好きなんだけどな,こういうの書くの。ま,ネットにでも載せるか」金森は言った。彼は,僕に没にされた小説をネットの投稿サイトに載せることにしている。しかし,文集よりもネットに載せる方が多くの人に読まれる可能性が高く,その分慎重にならないという事実を彼はあまり理解していない。
「で,早速次のやつを見てもらいたいんだけど……」そう言って,金森はおもむろに,自分の机からコピー用紙の束を取り出す。
「相変わらず書くのが早いな,君は」
「俺はアイデアの塊のような男だからね。というか,実は続きなんだな,これの」金森は,なぜか満足げに,さっき僕の渡した原稿を掲げてひらひらとさせる。「一人称と偉ぶった口調と気持ち悪さは変わらないが,とりあえず読んでみてくれよ。まだまだ続くからさ」
「別に気持ち悪いとは言ってないぞ。まあ否定はしないけど。じゃあ,また今度」そう言って,僕は受け取った原稿をクリアファイルに入れる。
僕は金森の小説が嫌いではない。もちろん,嫌いだったらわざわざ読んだりしない訳だけど。少なくとも彼の小説は,読んでいて気分が悪くなるようなものじゃない。誰も死なないし,何かを失えば何かを得る。そんな小説だ。うまくいけば最後にカタルシスの用意されているときもある。それに,元々彼は高校生にしては知識と語彙の多い人間だから,何を書いてもそれらしく見せることができる。もし彼の書いたもので第一線に届かない点があるなら,それは経験とか,観察とかが足りないのだろう。
かつ,金森は決して読書家ではない。彼にとって読書というのは,形式の習得と,自己の蓄積の一つの方法でしかない。彼がかつて書いた評論「真理」によれば,『書くべき,いわゆるイデアのようなものは自分の内側にだけ存在していて,外側の世界は,すべてその投影でしかない。そして,自分の内側にあるイデアのようなものは,すべて一つの真理の投影であって,その真理を探るためには,内側のイデアを丁寧に把握していくしかない。自分の内側に迫るたに,小説という方法を使い,その精度を上げるために読書をする。』要するに,彼は自分の頭の中しか必要としていないということだ。もちろんこれは,彼がプラトンに中途半端に毒された結果であって,多分今はこんなことを自分で書いたことさえ忘れていると思う。真理の探究なんて後付けでしかない。そして,余計な知識が彼の文章を読みにくくしている。
「フィクションの世界で現実と同じように苦しんだってしょうがないじゃないか」というのが本当の彼のポリシーだ。「悩みたければ悩めばいい。俺は現実を生きて,たまに夢を見る。それだけで十分だ」
僕もそれには同感である。しかし,僕が小説を書こうとすると,決まって後味の悪い話になる。だから僕は小説を書かない。
「それにしても,この時間には本当に誰もいないんだな」金森が言った。彼はどちらかと言えば,遅刻ぎりぎりに平然と登校してくる男だ。この時間に登校するようになったのはつい最近らしい。
「うん。八時過ぎまではほとんど人が来ない。どうもこの高校は低血圧の人が多いらしい。まあ,大半は部活の朝練だと思うけど」
「静かな学校っていうのもなかなかいいもんだね。すごく落ち着いた気分になる」
「そうかもね。まあ,たまには勉強ばかりしてないで,学校の中を歩き回ったりしてみるといいよ。普段は見られないものが見れるかもしれない」
それから一言二言言葉を交わして,僕は金森のクラスを出た。