金森のこと その1
世の中には二種類の人間がいる。器用な人間と、そうでない人間だ。
本当のことを言えば、器用さの種類も程度も様々ある。しかし、このフレーズをを使いたかったがために二つに大別したのではあるけれど、器用であることとそうでないことの間に横たわっている壁は、非常に高くて堅い。
僕の周りには、不思議と器用な人間――たとえば、そこまで丹念に勉強をしなくても成績が頗る良かったり、自分が複雑な人間関係の中にいても、自分の得分を確保しつつ、周りの人間模様を楽しむ余裕があったり、相当図太いことを人にしておきながら、自分に罪悪感が湧かない程度の感情コントロールができたりする――そんな人が多くいる。
けれども、彼らを見ていて分かるのは、どれだけ彼らが器用であっても、その分だけ楽な生活を送れているという訳ではないということだ。人より何かが効率良くできるというのは、人より早くそれを終わらせられるというのではなく、それだけ人より多くのことをしなければならないということを意味している。たぶん。少なくとも、僕の周りにいる彼らはそう見える。
だから、たぶん、そういう事実を実際に体験したことがないから、僕らは器用さに憧れたり羨ましがったりするのだろうと思う。あるいは、そんなものは誰も欲しがっていないのかもしれない。本当にそれが羨ましいと思うのなら、誰も素直に賛辞を贈ることなんてできないだろうから。
週が明けて幾日目か、僕は例のように金森の教室を訪ねた。といっても、いつものファイルに原稿を挟んで彼のところに行くのは少々久しぶりだった。そもそも今日はテスト週間の中日なのだから、彼が筆無精になるのは当然のことで、むしろ昨日のテスト後に原稿を届けに来た彼を、僕は何かしら諫めなければならなかったのだろうけれど。
そうでなくても、彼の筆鋒は明らかに鈍くなっていた。もう彼が書き始めてから一月以上は過ぎているし、気づけば字数も五万字をとっくに過ぎている。要するに原稿用紙百枚以上は軽く費やしているのだし、いくら彼でも今までにこれだけの長さのものを書いたことはないはずだ。
いずれにしても、ここらが正念場のはずである。この二年弱の間、ほとんど三日とあげずに彼の文章を読まされてきたのだから、それくらいのことは分かる。
それに、正念場は何も文章の中だけではない。
「やあ」教室に入りざまに、僕は声をあげた。
「よう」
「うっす」
返ってきた二つの返事は、すでに僕の中では聞き慣れた一つのセットになっていた。
「今日も個別講義かい」
僕は言った。
「おう。今日の数Bがやばいからな」
花田は、こっちに顔も向けないで言う。金森は、「まあ、この通りだ」というように苦笑いを浮かべた。
「まったく、永遠のライバルとか言ってたのはどうなったんだよ」
「あ? 本当のライバルってのはいざってときに助け合うものなんだぜ」
花田は言った。いったいどこまで本気で言っているのかは分からないが、とにかく彼も正念場であることに違いはないようである。
「こっちが助けてもらったことはまだないんだが」
金森は、少し照れたような苦笑いを見せながらこぼす。だろうね、と僕も頷いた。
「まあでも、こうやって教えてりゃこっちも復習ができるから、得がないってわけじゃない」
「そりゃあいい。ところで、読ませてもらったものを返しに来たんだけど、出直した方がよかったかい?」
僕は、原稿のファイルを胸の横に掲げる。
「ああ、うん。もらうだけもらっとくよ。どうせあんまりいい出来でもないんだし、言われることは分かってるから」
「そう?」
僕は聞き返した。金森は、特に何も答えずファイルを僕の手から抜き取る。
そのとき、金森の前の席に後ろ向きで座っていた花田は、何かを思い出したようにふらりと立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
そう言うと、花田はつかつかと教室を出ていった。僕と金森は顔を見合わせる。
「あれでも気は遣えるのか」
「さあ? たいして何も考えてないだろう」
そんな風に言って、僕らは声を立てない程度に笑った。
「それにしても、随分と仲良くなったもんだね」
僕は言った。
「ん、ああ。体よく利用されてるって言った方が正しいだろうけど。でも、あいつには”利用する”って表現は似合わない」
金森は言う。
「憎めない奴だって言いたいのかい?」
「まあ、間違っちゃいない。もっとも、俺は誰に利用されたって嫌でもないが」
「そう?」
「うん。持て余してるよりは、使われた方がいい」
「なるほど。確かに君の場合は、そう簡単に使いきれないだろうね」
僕はいつものように茶化したつもりだったが、金森は例になく気色ばんだ。
「別に、そう言うことを言ってる訳じゃない。ただ、うん、自負とかがないわけじゃないけどさ、そういうふうにできてるんだよ、俺は。だから俺は、あいつがするみたいにずけずけと頼みごとを押しつけられる方が向いてるし、気が楽だ」
「ふうん、案外君は甲斐性なんだね」
僕が言うと、金森は嘲り気味に笑った。
「そんなんじゃないさ。そう言う風にしか出来ないんだ。俺は。むしろ、代わりに何か渡されたりするほうが気味が悪い。なんて言うんだろうね、うん、”そういうことだから”って言われてる気がする」
「ふうん。これから君に頼みごとするときは気をつけるよ」
「別に、なんだっていいんだけど。頼まれりゃ出来る限りのことはするし、聞かれれば分かる限りのことは教えるさ」
「それしかできないから?」
金森はこくりと頷いた。
「ふうん。でも、こっちにそんなこと言ったってどうしようもないだろう」
「うん。だからカズに言ってるんだ」
そうかい、と僕はお手上げのサインをした。
「そうだ、話を戻すけど、原稿を」
そう僕が言ったとたん、教室の扉がガラガラと開いた。
「お待たせ~」
何食わぬ顔で、花田が戻ってくる。彼のきれいに刈られた坊主頭が、巨大なタニシか何かの甲羅のように見えた。別に、このたとえに意味はない。
「ん、じゃあ、邪魔するといけないから帰るよ。話はまた今度。まあ、テストが明けたら」
「おう。ああ、そうだ、話をするにはとっておきの場所があるんだ。あの”倉庫”以外で」
そう言って、金森は得意そうな顔をする。僕は、この前のことを思い出して眉をひそめた。
「それなら、もう知ってるかもしれない」
僕は言った。




