屋上のこと
見る限り、屋上には何もなかった。薄ら黒く汚れた白いコンクリートの床が、朝日に晒されてぼんやりと光を反射しているだけだ。何かの黴びた臭いがときどきやってきては、鼻をつつく。
学校の屋上というものには、特に理由もなく、ある種の憧れのようなものがあった。屋根裏部屋を見つけたら登ってみたくなるのと同じように。
一年のころ、やっぱり朝早くに一人で登校したときに、まだ人の少ない校舎を探検のつもりで歩き回ったことがあった。まあ、健全な好奇心の発露だと思う。それで、その探検の最後の方に、屋上へ続く、立ち入り禁止のロープが張られた階段を、こっそりと登った。もちろん、その結果は屋上に出る扉の鍵がしっかりとかけられていることが確認できただけだった。基本的に、この高校では屋上に生徒は立ち入れない。それが許されるのは、理科部が天体観測をするときと、あとは写真部の活動ぐらいだ。けれど、屋上を目の前にしながらその先へ行くことができなくても、そのときの僕は何かしらの満足を得られた。それくらいつつましやかじゃないとやっていけない。
そのとき僕がドアノブを捻って、施錠の点検をした屋上への出口は、ハシゴのある所から見ると校門の側にあって、ぽつりと四角い頭を屋上に突きだしている。扉はこちら側からは見えない。その出口の向こうには、屋上の端にいくつかの今にも破れそうなタンクが並んでいるのが見えて、更にその先には、隣の調理学校の校舎が見えた。特筆すべきことはない。得てして根拠のない期待の結果はこういうものだ。と、冷静を装うように、自分に言い聞かせる。
先輩は、グラウンドの側の端に立って、そこから見える景色を眺めていた。その横には、例の大きなキャンバスが、屋上のフェンスに立てかけられている。その前に置かれた先輩のバッグからは、絵の具やら組み立て式のキャンバスの足やらが飛び出していた。
僕はしばらく、どうするべきか分からずに、その場で立ちすくんで様子を見ていた。それは、確かに今まで見たことのない景色だった。当然、空は昨日見た空と同じだし、町並みも、それを見渡す角度が変わっただけだけれど。足下の方から聞こえてくる、生徒がぞろぞろと校門をくぐる足音や話し声や、自転車のタイヤがガタンゴトンと何かを踏みならす音、そしてグラウンドで野球部が動き回っている音、そんないつもの音が、ひどく遠くで起こっているできごとのように感じられた。
それから数分すると、先輩はくるりと体の向きを変えて、こちらへ歩み寄って、あまり浮かない顔で、
「悪いな、篠原。今日は無駄足だったらしい」と言った。そもそも何をしにここまで来たのかさえはっきりとは知らない僕は、腑に落ちる物がないまま頷くしかなかった。
「この前みたいに朝の風景を描きたかったんだが・・・・・・なんとなく思ってたのと違う」
先輩は言った。かなりがっかりしているようだった。どうということもなくはないらしい。朝は終わったんですもの、と僕は言いそうになったが、なんとかそれを押しとどめて、へえ、と頷く。
「僕は屋上に来られただけでも満足ですけど」
「ふん。これも慣れれば何でもなくなるさ。何もないんだから」
そう言いながら、先輩は再びグラウンドの方へ歩いていく。今度は僕もそれに付いていった。
「慣れれば、って、よく来てるんですか、ここに」僕は聞いた。
「ああ。去年からずっと。誰にも邪魔されずに、一人になれる場所っていうのも、俺にはここぐらいしかないからな」
「先生とか、用務の人に見つかったりしないんですか」
「なに、それくらいの要領は心得てるさ」
先輩は、立てかけられたキャンバスの前まで来ると、どかりとその場に座り込んで、そのまま仰向けに寝ころんだ。ちょうど、先輩の顔を真上から見下ろす格好になる。間が悪くなって、僕も少し離れたところに腰を降ろした。夜の間に冷えたコンクリートは、制服ごしにも心地よい程度にひんやりしていた。
「ここに人を連れてきたのは、お前で二人目だよ」
先輩は言った。一人目というのは、誰だか分かるような気がした。
「・・・・・・ヒロですか」
「ん、ああ。当たり」
一つがいの名前の知らない小鳥が、すぐそばのへりにやってきて、ピイ、と鳴いたかと思うと、すぐにその場から飛び去っていった。それから、鳥の鳴き声が下の方でやかましく鳴っているのが、いやに耳についた。その合間に、バットがボールをはじき返す音が混じる。
「あいつは、俺に似てるところがある。もちろん、似てないところの方が多いが」
「まあ、僕と比べれば」
僕が言うと、先輩は穏やかな声で笑った。
「はは、間違いはないな。でも、それ以上に、あいつは俺と同じものを持ってる。これも間違いない。だからさ、俺が見てるものと同じものを見せたら、あいつはどうするのか、見てみたかったんだろうな」
「それで、ヒロは何を?」
先輩は、待ってましたという風に顔をほころばせて、満足げに、「何も」と言った。
「何も?」
「ああ、何も。俺の横に寝ころんで、ずっと空を眺めてただけだ。俺はあいつを連れてきて正解だと思ったよ」
それから、また先輩はクスクスと笑った。僕には何が面白いのかさっぱり分からなかったし、分かろうとも思えなかった。結局、僕と先輩とも、僕と金森とも根本的なところで違う人間なのだ。
今日は用なしになってしまったキャンバスが、何も言わずに空を眺めていた。僕は、さすがにここまではボールも飛んでこないだろう、とかと考えながら、同じように空を眺めた。




